172:各所での戦い
氷雪を纏う拳が、黒い粘液の塊へと突き入れられる。
その瞬間、黒い粘液は拳を伝い相手を飲み込もうとするが、纏う氷雪によって瞬く間に凍り付いて行く。
そしてその全身が余すことなく凍り付いたところで、丈一郎はその腕を引き抜いていた。
「ったく、どうなってんだこりゃ……」
『あの子、どうしたんだろう』
手を軽く振りつつ、丈一郎は芯まで凍り付いて氷に包まれたリリの分体を見やる。
彼が以前、暴走して仁と戦った際にも、リリは体を肥大化させて相手を飲み込もうと動いたことがあった。
その時も丈一郎はリリを氷に包むことによって対処していたが、まさかもう一度同じことをするとは彼も考えてもいなかった。
幸いながら、ウェンディの力のおかげで対処は出来ている。丈一郎は小さく嘆息し――そこで、通信機から呼び出し音が鳴り響いていた。
「あー……こちら水鏡」
『終わったか。そこの処理は別の部隊に任せろ。貴様は次の地点へ迎え』
「……了解」
『八咫烏』の室長直々の指示を受け、丈一郎は指定された地点へと走り出す。
現状、保護観察処分に近い形の丈一郎ではあったが、突如として起きた異常事態に、彼も戦力として駆り出されていた。
日本の重要拠点に、急遽として現れたショゴスの群れ。
意志を感じさせず、ただひたすらに暴走する禁獣たちは、既に少なくない被害を及ぼしていた。
現状では、既に魔法院や四大の一族が動き出し、禁獣たちの討伐に移っている。
そのおかげで戦況はある程度落ち着いてきてはいたが――それでも、解決に向かっているとは言い難かった。
『どうするの?』
「行くしかねぇさ。リリたちを簡単に止められるのは俺たちぐらいだ」
ショゴスは非常に強力な禁獣だ。何よりも、有効な攻撃手段が少ないことが問題となっている。
物理的な武器や銃撃はまずダメージになり得ない。魔法による攻撃も、炎や雷、そして氷の属性以外ではあまり有効な効果は与えられていない。
つまるところ、一部の強力な魔法使い以外では、そもそも前に立つことすらできないような状況なのだ。
結果として、強力無比な氷雪を操る丈一郎に白羽の矢が立ったのである。
「ま、実力をアピールするチャンスではあるけどよ……相手がこいつらってのがどうもな」
『でも、止めてあげないとだめだよね』
「まあ、な……仁の奴が戻ってくるまでに、何とかしてやりてぇ所だ」
丈一郎は詳細こそ聞いていなかったが、仁たちが今大変な事態に巻き込まれていることだけは伝え聞いていた。
今のこの状況も、それに端を発していることは想像に難くない。
「どんな流れにしろ、これがあいつの望んだ展開だとは思えねぇ。どうせ、あのクソ野郎の仕業だ。そいつを認める訳にはいかねぇよ」
『うん。今度は、わたしたちが助ける番』
「ああ……! そら、次が見えてきたぞ!」
『ん……!』
大きく跳躍し、視界に入ってきたショゴスへと立ち向かう。
強く拳を握り締めた丈一郎の瞳は、確かな戦意に高揚していた。
* * * * *
「――今だ、焼却しろ」
「はっ!」
威勢のいい声と共に放たれた炎が、風によって空中に磔になったショゴスへと殺到する。
風の組成変換によって酸素を送り込まれ、より強大になった炎は、瞬く間にショゴスの全身を焼き尽くしていた。
復活の兆しが無いことを確認し、魔法使いたちを率いていた女性――燠田家の当主は軽く嘆息を吐き出していた。
「ふん、やはりこれが最も効率が良さそうだな。貴様らと直接前線で組んだのは初めてだが、なかなか面白い結果だな」
「ええ、これならもっと昔から組んでいても良かったかもしれませんね」
火之崎の中でも屈指の厳格さを持つ武闘派である燠田と、四大の一族の一角である風宮。
両者の協力によって放たれた攻撃は、余すことなくショゴスの全身を焼き尽くしていた。
とは言え、これらすべてを両者だけで成したわけではない。
土御門が地面を固めて檻賭することで一切の逃げ場を無くし、水城が水で包み込むことによって分裂を阻止、その上で風宮が空中に拘束して火之崎が焼き尽くす。
まさに、四大の一族総出での掃討作戦だった。
普段ならば組むことも無いような者たちであったが、緊急時にあってそれを気にする者もいなかった。
「しかし、貴方が出てくるとは珍しいですね。普段であれば臥煙殿たちが前線を張っておられますが」
「あれらは別の任務があってな。とはいえ、あの家の連中も既に動いている。手はいくらあっても足りんからな……それより、次を探せ。駄弁っている時間は無いぞ」
「ええ、分かっていますとも。そちらは我らの得意分野です」
舌打ちしつつ、燠田は風宮の者たちへとそう告げる。
余り趣味の合う相手という訳でもなかったが、それでもその能力自体は認めていた。
護国四家、四大の一族に名を連ねる者たちは、それぞれが得意な分野を持っている。
戦闘能力にたける火之崎に対し、風宮は索敵や諜報に優れているのだ。
己たちが不得手とする分野を極めた彼らのことを、燠田はそれなりに評価していた。
しかしながら、今の彼女は機嫌が悪い。何故ならば――
(灯藤め……貴様の怠惰のツケだぞ、これは)
燠田は、仁の有する使い魔の優秀さを理解し、評価していた。
その能力は確かに高い。人ならざるその力を活用し、彼は確かな戦果を打ち立てていた。
だが――彼は、あまりにも頼り過ぎたのだ。
本来であれば、己の手に余るような使い魔。契約で縛っているからと、油断した結果がこれだ。
自らが敵対した相手が何なのか、それをきちんと理解しておくべきであったというのに。
「……貴様のツケは貴様が払え。さもなくば、私が貴様を殺す」
「――? 燠田殿、何か仰いましたかな?」
「何でもない、次に行くぞ」
煙草に火をつけ、燠田は歩き出す。
その身に纏う強い殺気は、強大な敵を前に微塵も衰えることなく、周囲の魔法使いたちを叱咤していた。
* * * * *
「どうでしょうか、久音様」
「ふぅむ……どうやら、しくじった訳ではないみたいだね」
水城の屋敷の奥、隠された部屋にて、水城の真の支配者たる水城久音は目を閉じてそう呟いていた。
彼女は、己の魔法を仕掛けた初音の気配が消えていないことを確認し、僅かながらに安堵した吐息を零している。
しかしながら、彼女の表情は深刻そうなそれのままだった。
「火之崎のお嬢ちゃんの救出には成功した。今は戦いの気配もないし、彼の《黄衣の王》との戦いには勝利したのだろうよ。しかし――」
「……まだ、全ての状況が終了した訳ではないようですね」
久音の言葉に対し、水城家の現当主、水城道久はそう呟く。
今、この街を始めとする日本の首都圏には異常が発生していた。
どこからともなく現れた禁獣の群れによって、突如として攻撃を受けていたのだ。
現れているのは、全て黒い粘液によって体を構成された禁獣――ショゴス。
本来ならば現れるどころか生息している場所すら定かではないような禁獣が、山のように姿を現していたのだ。
「あれは恐らく、灯藤の使い魔だろうねぇ。『無貌』にいいように利用されたか。つくづく、厄介な野郎だよ」
「しかし、どうしますか。四大が総出で抑えに回っていますが、相性が悪い」
「物理的ダメージには耐性があり、魔法に関しても熱量攻撃以外の効きは悪い……ま、火之崎の連中を前に出すしかあるまいよ」
「でしょうね。事実、彼らが居なければもっと大きな被害が出ていたはずだ」
ショゴスは生態自体が謎に包まれている禁獣だが、数少ない目撃例からでもその厄介さは伝えられていた。
あらゆる攻撃に耐性を持ち、同時に高い再生能力を有している。
多少の傷など瞬く間に再生し、そして体組織の一欠片でもあればそこから肉体を再構成することも不可能ではない。
弱点と呼べる部位も見つからず、その全身を余すことなく焼却することが現在判明している有効な攻撃方法だった。
何よりも厄介なのは、体の一部でも残っていれば復活するという再生能力だ。
これのせいで、完全に仕留めることが非常に困難であり、数を減らすことが出来ずにいるのである。
「はぁ……薫や、お前さん、あれとよく一緒に働いていたのだろう? 何か対処法は無いのかね?」
「無茶を言わないでください、久音様。仁君の指示に従って動いている状態ならともかく、理性も無く種族としての特性を容赦なく振りかざしてくる今のリリちゃんには対処する術なんてありませんよ」
「皆瀬――いや、水無瀬君。君のことだ、あの禁獣の分析ぐらいはしていたんじゃないのか?」
水無瀬――そう呼ばれて、水城初音の付き人たる皆瀬薫は肩を竦める。
『みな』という文字が付く魔法使いたちの一部は、水無と言う水城家の影――正確に言えば、水城久音の私兵として活動している。
皆瀬薫もまた、初音が幼き頃から彼女を見守ることを役目として、彼女の傍に付き従っていたのだ。
水無は実力そのものよりも、特異な技能を持つことを重視される。
薫もまた、その錬金術師としての技術を買われて水無として選ばれていた。
「生物としての格が違う、としか言えません。全身が万能細胞の塊、それがヘイフリック限界など関係なしに、無限に分裂増殖を続ける……理論上、体細胞の一片でも生きていれば元通りに再生することが出来る。元より、仁君の使い魔に甘んじていること自体があり得ないような生き物ですよ」
「……目撃例にあるショゴスは、そこまでの怪物ではなかったはずだが」
「それは、そのショゴスに知能が無かったからでしょう。上位種であるショゴス・ロードでなければ、その肉体を有効的に利用することが出来ないんです。しかし――」
「知恵を持つあの使い魔は、己の能力を余すことなく十全に扱える、と。成程、そりゃ確かに厄介だ」
そう呟き、水城久音は皮肉ったように笑う。
状況は、決していいとは言えない。このままの状態でも被害は少しずつ発生していくだろうし、いずれは四大の一族の戦力も維持できなくなってしまう。
しかしながら現状を打破するような方策も無く、とりあえずは現状維持に努めるしかないのだ。
「っ……久音様、やはり私も――」
「逸るんじゃないよ、道久。アンタは水城の当主、水城にとっての切り札だ。安易に力を使えば、後が辛くなるよ」
「しかし!」
「相手はあの『無貌』、この世の悪意を凝り固めたような怪物だ。きっと、状況は更に悪くなる。アンタが出るべきはその時だよ」
沈黙する道久に、久音は小さく嘆息しながら目を閉じる。
状況は悪い。緩やかにではあるが、悪化を続けている。
しかしながら、この緩やかな悪化は、彼の邪悪が望むような劇的な舞台ではないだろう。
(であれば、必ず変化は起こる。このまま少しずつ追い詰めていくなど、あれの趣味には合うまいて……そしてその時こそが、我らにとっての勝機)
どのように転がるかは未だに不明。
だがそれでも、その変化を自分たちにとって都合のいい方向に転がすほかに道は無い。
それが出来なければ、今度こそ打つ手を失い追い詰められてしまうことだろう。
そしてその変化が起こるとすれば、それはこの事件の中心人物がこの地に戻ってくるときに他ならない。
(しくじるんじゃないよ、小僧。アンタこそが、全ての鍵だ……初音と一緒に、必ず生きて戻ってきな)
己の幻術を破った、一人の少年。
彼の帰還を待ちわびながら、久音はひたすらに、張り巡らせた術式の制御を続けていた。




