170:魔神
「っ……ハストゥールよ! 私を早く日本へ――奴の向かった場所へ!」
「落ち着け、人間よ。今すぐに問題が起こることはあるまい」
「だが……ッ!」
「仁、今は待って! せめて回復しないと!」
ハストゥールへと詰め寄る私を、隣に立つ初音が窘める。
その言葉に、私ははやる心を何とか抑え込んでいた。
確かに初音の言う通り、現状、私はかなり消耗している状態だ。
今の状況で無理に向かえば、奴の思う壺かどうかは分からないが、まともに戦える状況ではないのは確かだ。
深く息を吐き出し、瞳を閉じて精神統一する。
「……仁、大丈夫?」
「ええ、何とか……しかし、どうするべきか」
姉上、臥煙、大焚、それに舞佳さん。
全員消耗しているが、何とか無事な様子ではある。
だが、姉上の消耗は特に激しい。既に亜精霊化は解いている様子であるが、随分と顔色が悪い。
どうやら、血肉を削ったことでかなり消耗してしまっているようだ。
今の姉上に戦わせることは出来ないだろう。あの術は当然ながら、普通に戦うことすら負担になりかねない。
ともあれ――まずは現状の把握をすべきか。
「ハストゥールよ。貴方は、我々を日本まで送り届けることは可能か?」
「無論、容易いことだ。とはいえ、今の貴様ならが向かったところで意味はあるまい」
「……それは何故だ?」
「貴様なら分かっているだろう。今の貴様らでは、《原初の沼》の再現となったあのショゴスの相手は出来まい。行った所で、手出しは出来ぬだろうよ」
ハストゥールの言葉を否定しきれず、私は眉根を寄せて沈黙する。
否定は出来ない。ショゴスは非常に強力な生物だ。打撃や斬撃、あらゆる物理攻撃に耐性を持ち、更にはある程度の熱量にも耐性を持っている。
私にとっては非常に相性の悪い相手だ。正直、本気を出したリリに勝つにはあらゆる手を尽くさなければならないと思っている。
消耗した今の私では、勝ちようが無いというのは紛れもない事実であった。
「そもそも、貴様らの国には貴様の両親――あの《生ける灼熱》の系譜たるあの男がいるだろう。奴ならば、あのショゴスとて拮抗することは不可能ではあるまい」
「……父上ならば、今のリリに勝てると?」
「否、《原初の沼》の力を持っている以上、あ奴であろうとも殺しきることは不可能だろう。互いに力の続く限り拮抗し続ける――と言った所が精々だ」
安心すべきか、それとも悩むべきか。
だが、少なくとも今すぐに最悪の事態にまで陥る、ということはなさそうだ。
余裕はないが、出来る限り早く体勢を整え、戻らなくてはなるまい。
だが、その為には――
「……奴と同じ舞台に立たねば、勝ち目はないぞ」
「それは……あの、精霊魔法の奥義のことを言っているので?」
「奥義、か。完成形であることは事実だが、奥義というのはまた大仰すぎる言い方だ」
ハストゥールは苦笑し、その視線を横へと向ける。
その先にあったのは、5メートルはあろうかという程の巨大な岩の塊だった。
ハストゥールが軽く視線をそちらへと向けた瞬間、岩の塊は瞬時に風の刃によって包まれ、次の瞬間には石によってできた円卓へと姿を変えていた。
その中でも一際豪奢に出来た椅子に腰掛け、彼は私たちへと座るように視線で促す。
流石に、彼からの誘いを断る訳にもいかず、私たちは困惑しつつも彼の勧める席へと腰かけていた。
その様子を満足したように頷きながらぐるりと見渡し、ハストゥールはゆっくりを口を開く。
「あの男が貴様の精霊魔法を――《超越》を求めているのは間違いない。であれば、今度は奴自身が相手になることだろうな」
「『無貌』が? 奴自身は、自ら手を汚すことを好まないと思っていたのですが」
「それ紛れもない事実ではある。だが、その力を発現させて匹敵できるのは奴自身以外に存在せぬからな」
「それは……十秘跡の第一位に匹敵する力になるというの?」
「……そうだな、説明しておくとしよう」
軽く息を吐き出し、ハストゥールは口を開く。
その深い瞳の奥に、言い知れぬ複雑な感情を抱きながら。
「余や、貴様らの先祖である《生ける灼熱》、そしてあのショゴスのオリジナルである《原初の沼》。我らは、魔神と呼ばれる種である。我らが生誕したのは、今よりも遠き過去の話だ」
「魔神……あなた方の種が、奴に関係があると?」
「……元よりこの星に、魔神と呼ばれる種族は存在しなかった。我らが生まれたのは、そのような土壌を作り上げた存在がいたからだ――禁獄という、蟲毒の壺がな」
その言葉に、私たち全員が思わず息を飲んでいた。
そして同時に、私は《魔王》の言葉を思い返していた。
禁獄を作り上げたのは『無貌』であると、彼はそう言っていたのだ。
「禁獄は、魔神を生み出すための場所だったと?」
「否、それは違う。元より、あれに目的と言ったものは無い。単純に、あれは退屈だからこそ禁獄を生み出したに過ぎんよ」
「ちょ、ちょっと待って……それじゃあ、『無貌』が禁獄を生み出した? 日本の周りに禁獄があれだけ存在しているのも?」
「然り、それこそが奴の所業。奴は己の娯楽のために、世界を混乱に陥れた訳だ」
頬杖を突き、ハストゥールは下らないと言わんばかりの表情でそう告げる。
それに対し、動揺しながら待ったをかけたのは姉上だった。
「そんな、あり得ない! いくら彼が十秘跡の頂点、世界最強の魔法使いだったとしても、そんなものは個人に出来る範囲を超えている! あり得るはずがないわ!」
「確かに、『無貌』には不可能であろうよ」
「は……? それは、先ほど言ったことと矛盾が――」
「貴様らも、一部は知っているだろう。『無貌』の性質、奴が人の意識を侵食する魔法使いであることを」
それは以前にも聞いた、クルーシュチャ方程式の真実。
『無貌』が己の記憶と嗜好によって他者を染め上げ、己の駒を増やすための罠。
――そこまで考えて、私はハストゥールの言わんとすることを理解していた。
「まさか、あの『無貌』は……あれも、奴本人ではなく、奴に記憶を上書きされた別の人間だと?」
「人間ではなく、魔神であるが……その認識に相違は無い。あれも奴――《這い寄る混沌》の駒に過ぎん。奴の本体こそは、精霊魔法を極めた超越者の一人。この世界を管理する者。《白銀の魔王》に選ばれた管理者だ」
つまり、奴の本体もまた精霊魔法の使い手であり、同時に《超越》を操る者であるということか。
であれば、ハストゥールの言葉も理解できる。あの力を抑えられるのは、同じく《超越》の力を持つ者だけだ。
今のままでは勝利し得ない、それは間違いないだろう。
「ともあれ……世界の管理者となった奴は、しかし平穏な世界を厭った。その結果として生み出されたのが、狂った生態系と法則によって成り立つ一種の異空間、禁獄だ。絶えず世の理にそぐわぬ生命、禁獣が生み出され、互いに殺し合い喰らいあう地獄。その禁獄の全てを喰らい、生まれたものこそが魔神。我らは結局の所、奴によって生み出された生命ということだ」
「……それではまるで、奴は」
「然り。世界の管理者とは、即ち世界の法則に同化した存在。限定された権能なれど、神に他ならんよ」
あんなものが神だなどと、正直認めたくはない所だが……現実にそうだと言う以上、目を背ける訳にもいかないだろう。
行為そのものも悪質極まりないが、行動の規模は規格外と呼ぶ他ない。
奴は本当に、己の願望のみに従って、世界を混乱に陥れているのだ。
あの《魔王》が警告に訪れるのも納得できるというものだろう。
「余にとって、奴の所業は最早どうでもいい話だ。奴が余に手を出してくると言うならばまだしも、あれも直接の手出しはせぬようにしているからな。しかし、貴様が挑むというのであれば、一つ助言をくれてやろう」
その言葉に、私は視線を上げる。
ハストゥールは、その瞳を私へと向け、口元に笑みを浮かべていた。
その瞳の内に宿っているのは、私に対する興味と期待。
しかし『無貌』のそれとは異なり、悪意の薄い純粋なる感情に思えた。
「余にとって、奴の管理するこの世界は、少々騒がしい。平穏を好むとまでは言わぬが、奴ほど騒動を求めている訳ではない。貴様がアレの抑止力になるというのであれば、それは余にとって歓迎すべきある」
「私は――」
「最早選択肢は無い。奴が動き出したということは、それは既に他の道は閉ざされいるということだ。進むべき道が一つしかないのであれば、後はどのように歩むかの問題だ。貴様は――貴様の目的は、何だ?」
その言葉に、私は口を噤む。
私が《超越》に対して躊躇いを覚えているのは、その力を使うことが奴と同じ位階にまで変貌することと同じであるためだ。
人の理を外れてしまえば、最早二度と戻ることは出来ないだろう。
そしてもし、奴の本体までもを倒すことが出来たとしても、代わりの管理者は私となってしまう。
どのような結末にせよ、私は人ならざる者へとなり果てることだろう。
だが――
「……私は、家族を護りたい」
それだけは、変わらない。変わる筈もない。
私は己の無力を嘆いた、己の無様を厭った。もう二度と繰り返さぬようにと、ただひたすらに力を求め続けた。
私は――ああ、私は。私は何故――
「ああ、分かっている。分かっているんだ。人から外れる? 元に戻れない? それが理由ではない。違うんだ」
『あるじよ、どうした? 一体何を言っている?』
「仁……?」
困惑した様子で、千狐や初音たちが私を見つめてくる。
しかしその問いに、私は力なく首を横に振ることしかできなかった。
「……ハストゥールよ、貴方は、《超越》を発動するために必要なものが何なのか、知っているのだろう」
「無論。余には精霊は無い故に、同じ道は辿れぬがな。そこに至るための法が何であるか、余は知識として有している」
「あの力の根本となるものは、使い手の持つ原初の願望。けれど私は、それを既に忘れてしまっている。擦り切れ、摩耗した私には……始まりの思いなど、当に残ってはいないんだ」
私の始まりの願いは、きっと前世で既に失ってしまったものだ。
あの日、家族を護れなかったあの時に、私の願いは歪み、捻じれ、砕け散ってしまったのだ。
『無貌』が言っていた通りだろう、私は当の昔に壊れ果てていたのだから。
けれど、ハストゥールは私の言葉に対し、表情を変えることなく声を上げていた。
「成程、貴様の体と魂に妙な乖離があったのはそういう仕組みか。であれば――貴様は一度、己と向き合うべきだろう」
「っ……一体、何を?」
「精霊よ、聞こえているのだろう。貴様はその男を、魂の奥深くへと導くがいい。《魔王》の権能を持つ以上、その力はある筈だ」
『ぬ……確かに、それは可能ではあるが』
ハストゥールの言葉に、私は視線を千狐へと向ける。
確かに、私たちには《王権》の一角である、《魂魄》と呼ばれる力がある。
その力ならば、彼の言うように、私の魂そのものへと干渉することも可能だろう。
だが、それで本当に、私はかつての己を思い出せるのか。
そしてそれを取り戻したとして、私は本当に、《超越》に至ってもいいのか。
――未だ、答えは見えては来ない。
「それと、そうさな……精霊よ、そこの女も一緒に連れて行くといい。それが貴様らにとっての、一つの答えとなるだろう」
「え? わ、私も? いいのですか?」
「余が許す、行くが良い。どのような形であれ、余はそれを見届けるとしよう」
初音を同行させようというハストゥールが、一体何を考えているのかは分からない。
元より、彼はどうしても『無貌』を排除したいと考えている訳ではないのだ。
これも、一つの気まぐれでしかないのだろう。
しかし、私には他に当てになるものは無い。そして、ここで手を拱いている訳にも行かないのだ。
ならば――
「……千狐、初音、頼めるか?」
「仁……うん、貴方がそう望むなら」
『うむ。では、始めるぞ』
ゆっくりと、千狐の力が染み込むように発動する。
それと共に、私たちの意識は、魂の内側へと落ちるように暗転していった。




