169:真なる悪逆
「――――ッ、はぁっ、はぁっ……!」
安全圏まで転移して、私はようやく荒い息を吐き出す。
あの瞬間、ハストゥールへと攻撃を叩き込んだ私は、姉上の魔法が炸裂する寸前に、再び《時空》の力を使ってあの場から退避していたのだ。
しかしそのタイミングでも、あの炎を完全に避けることは叶わなかった。
あと一瞬でもあの場に留まっていれば、姉上の炎は私の防御を貫き、この身を消し炭に変えていただろう。
今の私はハストゥールの攻撃も防げるだけの防御力があったはずなのだが……本当にとんでもない火力だった。
「……リリ、大丈夫か?」
『ん……組織が結構焼けたけど、まだ何とか。装備も修復可能なレベル』
「本当にギリギリだったな……だが、それだけの賭けに出た価値はあったか」
自らの拳を見下ろして、私は小さくそう呟く。
白く燃える炎が全てを飲み込む、その刹那。
私の拳は、確かにハストゥールの風を潜り抜け、彼に命中していたのだから。
その確信をもって、私は白い太陽の消えた上空を見上げる。
あの極大の魔法、直撃すればハストゥールとて無事では済むまいが――私には、ある種の確信があった。
――あの怪物が、これだけで終わる筈が無い、と。
「――く、くく」
熱気に歪んでいた上空、そこにかかっていた煙が晴れ、現れたのは――黄の衣を焼き焦がしながらも、尚も健在な様子のハストゥールの姿だった。
彼は魔剣を持たぬ左手で顔を覆い、僅かに肩を震わせている。
そんな彼の口から漏れ出ているのは、まぎれもない愉悦と歓喜の声だった。
「く、はは、ははははははははっ! 見事、実に見事だ人間たち!」
あれほどの魔法の直撃を受けたにもかかわらず、殆どダメージを受けた様子の無いハストゥールは、ただただ哄笑を零す。
しかし、その顔を覆っていた手を外した瞬間、私は思わず息を飲んでいた。
僅かに腫れの残る頬、そして口の端から垂れる一筋の血。
今まさに自動的に回復して、小さく縮小している最中ではあったが――それは紛れも無く、私の拳が彼の頬を打った証であった。
「貴様らの一撃は、確かに余に届いた。賞賛しよう、人間たち。それほどの戦いを見せたものなど、余の記憶にも十人とおらぬ」
「あ、当たったの……?」
「然り。故に、余はこう告げよう――この勝負、貴様らの勝利だ。誇るが良い」
そう告げて、ハストゥールはその手にある剣を消す。
それが戦闘終了の合図であると言わんばかりに、周囲を覆っていた彼の魔力はまるで嘘のように消え去っていた。
王者の気質を持つ彼が、その言葉を違えることは無いだろう。
そう判断して、私はようやく戦闘態勢を解除していた。
見れば、姉上も地面に降り、亜精霊化を解除している。
……服が燃え落ちてしまっており、臥煙と大焚から上着を借りていたのは、見なかったことにしておくべきだろう。
「これで、私たちを返してくれると言っていたが……その言葉に嘘偽りは無いと思っていいんだな?」
「無論。余の言葉は、余自身にも違えさせはせぬ。此度の戦いはこれで終わりだ、余が貴様らに剣を振るうことは無い。約定もまた、必ずや果たすとも」
「……そうか」
ようやく安堵して、私は深く息を吐き出す。
持てる手札を全て尽くした、全力の戦い。この場にいる全員が殆ど力を使い果たして、ようやく入れることが出来た一撃。
世界の頂というものを、これほど実感したことは無い。父上や母上も、これには及ばないまでも、近い実力を有しているということなのか。
私が目指すべき頂はまだ遠く――しかして、着実に近づいてきている実感がある。
機械仕掛けとなった右腕を見下ろして、私はそれを確信していた。
「……やったぞ、刀祢」
半ばで倒れた少年を想い、私は呟く。
彼の遺体は、戦線に復帰する直前にリリが回収してくれている。
放置していたら、恐らく姉上の魔法で骨まで焼き尽くされていたことだろう。
彼を護れなかったことは、私の罪だ。赤羽には、彼が立派に務めを果たしたことを伝えねばなるまい。
この窮地の中で、彼は一度も引くことなく、あの圧倒的な強者に挑んでいったのだから。
例え多少の人数が居ようとも、十秘跡に挑むなど、ただ死にに行くようなものなのに――そこまで考えて、ふと気づく。
この場には――もう一人、注意せねばならない相手がいたということを。
「全く……楽しませて貰ったよ、本当に」
ぱちぱちと、拍手の音が響く。
どこか空虚な、それでいて不気味なその音に、私は息を飲んで音の方向へと視線を向けていた。
戦いの場となったこの広間の端、玉座に続く階段で――『無貌』は、何ら変わった様子も無く、その姿を見せていたのだ。
「あの陛下から力を正式に下賜されただけでなく、それを即座に使いこなして見せた。それだけでも驚くべきことなのに、まさかハストゥールの課題をクリアして見せるとは! 君は本当に面白い存在だ、灯藤仁」
「『無貌』……! 何の、いや、何をするつもりだ」
悪意が服を着て歩いているような存在だ、今この場において、この男が何もしないとは考えづらい。
『無貌』の目的が、私の――《白銀の魔王》から渡された力を見極めることであるならば、それは完全に達せられたに違いないのだから。
一つの目的を達したのならば、奴は次にどのような行動に移るのか。
想像したくもないことではあるが、それを想定せずにはいられない。
――道理が通じるハストゥールよりも、数段恐ろしい存在なのだから。
「貴様、無粋な横槍を入れるつもりではあるまいな」
「おや……君が口出しをするのかい、ハストゥール」
だが、そこで口を挟んだのは他でもない、つい先ほどまで激戦を繰り広げていた相手であるハストゥールだった。
戦いの痕跡は既に跡形も無く消え去り、万全の姿へと戻っている彼は、仮面に隠されていない瞳に冷ややかな色を込めて『無貌』へと告げる。
よもやそのような口出しがあるとは思っておらず、私は目を瞬いていた。
しかし、納得できない話でもない。ハストゥールは先ほども言ったように、己の宣言を違えることは誰が相手であろうと赦さないのだ。
彼が私たちを無事に帰還させると宣言した以上、『無貌』による悪意を認めるつもりは無いのだろう。
「この者たちは余に挑み、そして勝利して見せた。その勝利を汚すことは、誰が相手であろうとも赦すつもりは無い……例え、貴様が相手であろうとな」
「はははは! そうだね、君はそういう男だ! もちろん、それを邪魔するつもりは無いとも。彼らを帰還させるなら自由にすればいい」
「……貴様、また下らぬことを企んでいるようだな」
視線を細め、ハストゥールは不機嫌そうに告げる。
だが、『無貌』はそれを気にした様子も無く、どこか愉快そうに笑い声をあげている。
――それが、たまらなく不気味だった。
「君たちは勝利した。僕の盤上で、正面からその壁を打ち砕いて見せた! 勿論、それを否定するつもりは無いとも!」
「……欺瞞はいい。率直に述べよ、『無貌』。貴様は何を隠している」
「それは勿論――次の舞台だとも」
仮面をずらし、黒く歪んだ貌で『無貌』は嗤う。
その燃える三つの瞳は――ただ、私だけをじっと見つめ続けていた。
分かり切ってはいたが、『無貌』は未だ私を標的とし続けている。
奴は、まだ諦めてはいない。まだ、私への興味を失っていないのだ。
「灯藤仁、君は、君の価値を示した。その真価を示して見せたのだ。それはとても……とても、喜ばしいことだよ」
「……それだけで、満足するつもりは無いと?」
「良く分かっているじゃないか。ああ、実に喜ばしい。だからこそ、あえて言おう――僕は、その先が見てみたい」
――狂気が、歪む。燃える三つの瞳が、己の欲望によって濁り、猛ってゆく。
その貌を見て、私は確信していた。『無貌』は私への興味を失うどころか、更なる執着を抱いてしまったのだと。
奴が言っている言葉の意味は、今の私には理解できる。
それは《回帰》の先にある力、精霊魔法の究極――『無貌』は、私がその領域に足を踏み入れることを望んでいるのだ。
しかし――
「……あれは最早、人に許された力ではない。貴様は、あれを使わせるつもりか?」
「探求こそが人の真理。人から外れた僕でさえ、否、僕だからこそそれは宇宙を構成する要素なのさ。探求だ、探究だとも。真実を暴き、未来を暴き、そして――《混沌》に沈める。それこそが僕であり、この世界だ」
捲し立てられる言葉に、私は思わず眉根を寄せる。
その言葉は、まるで理解のできないものであった。
この怪物が、一体何を考えているのか。その心理は、犯罪心理学ではとても考察しきれるものではない。
だが、少なくとも、その思惑がまともなものであるとは考えられない。
『無貌』は探求と口にした。奴は以前私に興味を抱いている。だがその興味は、以前のように私の力そのものではなく、力を手にした私自身へと向いているように思える。
私の行く末を知るために、奴が行うとするならば――
「……また、戦わせるつもりか」
「無論、当然だろう。ただの戦いでは意味が無い、君を最果てへと導く闘争が必要だ。そのために――これまでの仕込みが、役に立ってくれそうだよ」
もとより裂けていたかのような、赤く揺らめく『無貌』の口元が、耳元まで広がるかのような笑みを浮かべる。
その笑みに背筋が粟立つ感覚を覚え、私は思わず一歩後ずさり――それ以上動けず、硬直していた。
『ぐ、ぎ……ッ!?』
「ッ、リリ!?」
体が――否、私の体を覆う、リリが動かない。
本来であれば、私の思考と同調して動いていたはずの『黒百合』が、指一本すら動けなくなってしまっているのだ。
硬直した私の様子に、『無貌』は実に楽しげな声を上げる。
「あの愚かな人間たちを利用して、君たちの国に送り込んだ古代兵装は四つ。君はずっと、そのショゴスを纏って事件を解決に導いてきた」
「ッ……一体、何を、した……!?」
「簡単だとも。君は――一体幾度、そのショゴスで、古代兵装たちに触れてきた?」
その言葉に、背筋が凍る。
まさか、この男は、まさか――!
「リリに、何を――!」
「簡単だとも、その根源に立ち返って貰っただけだよ。彼女は、数多く存在するショゴスという種族の中でも、もっとも初期に造られた存在。《母なる沼》と呼ばれる魔神の欠片から生まれ出でた、オリジン・ショゴスだ。ならば、その根源を呼び覚ましてやれば――ああ、全てを飲み込む泥の海の完成だ」
――最初から、リリのことを狙っていたのか。
その正体を理解して、利用するために。リリ自身を、私にとっての敵にするために。
私に……家族と、戦わせようというのか、この男は――!
『が、ぐ、あああああああああああああああああああああああッ!』
「リリ!?」
次の瞬間、私の体の自由が戻る。
否、私の体を覆っていたリリが、強引に私の身から離れたのだ。
弾かれるように私の身から剥がれた彼女は、しかし普段のように人の姿へ擬態することも出来ず、離れた場所に黒い粘液塊となって崩れ落ちる。
ぼこぼこと、沸騰するかのようにリリの身は蠢く。
泡立つように現れたのは、巨大な瞳や口――異形の身を形成しながら、リリはその場で徐々に肥大化を始めていた。
その傍で、『無貌』は私たちへと向けて笑みを浮かべる。黒く歪んだ、嘲笑を。
「さあ、ハストゥールが約束した通り、君たちは無事に返してあげよう。まあ、一足先に彼女には帰って貰うがね」
「ッ、『無貌』、貴様――!」
「では、さらばだ。君たちは、ハストゥールに帰して貰うといい――待っているよ、灯藤仁」
その瞬間、リリの黒い体は、爆発的に肥大化し――『無貌』と共に、その姿は一瞬で消え去っていた。




