165:正常なる狂気
「――精霊契約者。この世の根幹に根差す法則の一欠片を与えられた存在。君たちという存在は、つまるところ己の意志によってその在り方を確定させる」
黒いカソックを身に纏い、片手に持つ白い仮面で顔を隠した男。
十秘跡第一位、この世における魔法使いたちの頂点――世界最強にして最悪と称される魔法使い、『無貌』。
彼は仮面の奥で、口元を嘲笑に歪めながらその光景を眺めていた。
「同じ力を持っていようと、その意志一つで千差万別。ああ、だからこそ君たちは面白い。だがそんな君たちも、大別すれば二種類になる」
僅かな人数で、あのハストゥールを追い詰めた手際。
最大の切り札を封じられながら、それでも持てる手札を出し切って肉薄して見せたあの度胸。
必死にもがき、手を伸ばす彼の姿は、『無貌』にとっても非常に好ましいものであった。
何故ならば――その足掻きに意味が無いことを、知っていたから。
「つまり――自己で完結したタイプと、他者に依存するタイプだ。君は典型的な後者だろう、灯藤仁」
ハストゥールは、他でもない『無貌』自身が、己の次に強い存在であると認めた人物だ。
例えトップクラスの魔法使いたちが集結していたとしても、彼に傷一つ付けることは叶うまい。
彼を打倒しうる存在があるとすれば、それは他でもない、灯藤仁の持つ《魔王之理》のみ。
それが封じられた現状では、ハストゥールに剣を抜かせたことそれ自体が偉業であると、『無貌』はそう判断していた。
――だからこそ、それは当然の結末なのだ。
「どちらが優れているという訳ではない。だが傾向として、前者は安定性が高く、後者は不安定な代わりに高い出力を発揮する場合もある。ただし……その不安定さは、時に致命的なものにもなるがね」
ハストゥールの一刀を受けた少年は、胸から腹部にかけてを抉り取られたかのような傷を負っていた。
あの黄金の剣は、ただの一振りで大地を割るほどの宝剣。
例え優れた魔法使いが鍛えた刀であろうとも、ただの人間の技術で受け止められるようなものではない。
詳しく観察するまでも無く、それは紛れもない致命傷だった。
「そんな人物から、その『他者』を奪ったらどうなるのか。結果として生まれるのは、感情と論理の破綻した怪物だ。そしてそんな存在が、彼の《白銀の魔王》の権能を有していると言うならば――一体君は、どんな怪物になってくれるんだい?」
白い仮面の奥で、貌無き男は嗤う。
この世の全てを嘲笑するかのように。そして同時に、この世の全てを愛しむかのように。
人の感情に、人の理に非ざる怪物。その果てに在る彼は――期待を込めた視線を、崩れ落ちた少年へと駆け寄る灯藤仁へと向けていた。
「ゆっくりと、観察させておくれ。ハストゥールには、その為に協力して貰ったのだからね」
* * * * *
「刀祢、刀祢ッ!?」
「か、ふ……ッ! 仁、さ……ま」
それは、悪夢のような光景だった。
ハストゥールが無造作に振るった剣。まるで力も込められていないようなその一閃は、刀祢の刀を容易く両断し、その上で彼の体を深く抉り取っていたのだ。
血は吹き上がることも無く血煙となり、刀祢の体は糸の切れた人形のように地面へと投げ出される。
そこに至ってようやく刀祢の血は流れ始め、傷だらけになった地面を瞬く間に赤く染め上げていた。
――手が、震える。あの時と同じように、私は。
「申し、訳……あり、ま……」
「……私は」
気づけば、私は彼の傍に駆け寄り、跪いていた。
頭の中の、どこか冷静な部分が告げる。これは紛れもない致命傷だ。この状態では、例え先生でも死を覆すことは出来ないだろう。
彼は死ぬ。彼は、私にとって身内の一人である赤羽刀祢は――ここで、死ぬのだ。
――酷く、耳鳴りがする。この声は、一体なんだ。
「僕、は……貴方、に――」
――ああ、この声は。この、慟哭は。
『黒百合』を解き、私は左手を伸ばす。
ピクリとも動かすことが出来ていない刀祢の手を握り、彼の顔を見つめ――その最期を、私は目に焼き付ける。
「……よく、仕えてくれた。誇りに思う、赤羽刀祢」
「――――……っ」
『どうして、どうしてだ!? どうして救えなかった、俺は――――!』
――これは、かつての。
血に塗れた顔で、真っ白に色を失ったその頬を、僅かに緩めて。
赤羽刀祢は――無念の中にも、僅かながらの矜持を抱えて、その目を閉じていた。
――すべてを失ったあの日の、私の声だ。
『俺は、君の、■■■■になると、そう誓って……ッ!』
――何が悪かったのか。
刀祢はもう目を覚ますことは無い。
彼は死んだ、どうしようもなく、終わってしまった。
全ては――
――そんなものは、最初から決まっている。
『俺は――君を救えないなら、俺は……ッ、私はッ!』
――これは、ただ――
『――私自身の無力を、憎み続けるッ!!』
――私の弱さが悪かった、ただそれだけの話なのだから。
息を吐く。呼吸を整える。やることは、私の為すべきことは決まっている。
自失してしまった己を恥じながら、私はようやく立ち上がっていた。
幸い、これほどの隙を晒していた私に、ハストゥールが攻撃してくることは無かった。
一体何の思惑があるのかは分からないが、助かることに変わりはない。その猶予は遠慮なく頂いておくしかないだろう。
「……行くぞ、千狐。まだ、やれることは残っている」
『あるじ、お主……大丈夫なのか?』
「大丈夫ではないさ。腹の内側が煮えたぎるようだ。正直、消化しきれないほどの怒りを持て余している。だが、それでも――私の為すべきことは変わらない」
「……く、はは。腑抜けるかと思えば、良い気迫だ。では、改めて」
私は、家族を護らなければならないのだ。
それこそが私の願いであり、私の為すべき戦いだ。であるならば、ここで立ち止まっている暇はない。
摩耗したかつての己を思い出し、より強まった憎悪の中で――その想いだけは、変わらずに輝き続けていた。
顔を上げ、目を開き、私は私が妥当すべき相手を見据える。
――声が響いたのは、ちょうどその瞬間だった。
「……ちょっと待ってくれるかい、ハストゥール。僕は、彼に問いたいことがある」
「水を差すつもりか――と言いたい所ではあるが、此度は貴様に協力する約定だ。よかろう、しばし待つとしよう」
剣を持ち上げようとしたハストゥールを、いつの間にか傍らに現れた『無貌』が押し留めていた。
正直なところ、剣を抜いたハストゥールを相手にする手立ては未だにない状態だ。
僅かであれ時間稼ぎが出来たのは、私たちにとっても都合の良いことだ。
相手が『無貌』であるということが不気味であるが、それでも息を整えるだけの時間は欲しかった。
そんな私の内心を知ってか知らずか、『無貌』は仮面の奥で、どこか淡々とした調子で問いかけてきた。
「……君は何故、何も変わらない? 君にとって、それは庇護の対象だっただろう?」
「一体、何を言っている?」
「言葉通りだとも。『家族を護る』――それが君にとって、果たさねばならない願いであったはずだ。その想いを目の前で傷つけられ、君が……精霊と契約を交わしたものが、正気でいられるはずがない」
一体、この男は何を言っている?
今更になって一体何故、私の正気などを気にしているのか。
それがまるで理解できず、異様さと不気味さに私は眉根を寄せていた。
――そんなものは、最初から決まっているだろうに。
「私は、家族を護りたい。家族を護らねばならないのだ。それは間違いなく、貴様の言う通りだろうさ」
「ならば、それを失うことは、君にとって許容しがたいことだろう?」
「当然だ、許せる筈もない。私は、絶対に赦すものか」
私はその為に強くなってきた。
力を磨き、手札を増やし、小細工を重ね、少しずつ少しずつ積み上げてきたのだ。
そう、それこそが、私が生涯を賭してやらねばならないことなのだから。
だからこそ、それを私は赦せないのだ――
「私は絶対に、私自身を赦さない……ッ!!」
「――――っ!」
声が、手が、体が――己の全てが、憎悪に震える。
嗚呼、許せない、赦せない。絶対に認めてなるものか。
何も為せない己自身の弱さを、何も護れない己自身の無力を、私は生涯憎み続けた。
そして、それは生まれ変わった今でも変わらない。私は、何よりも私自身を憎んでいる。
「ああ、絶対に許容などできるものかッ! 私のこの弱さを、それ故に齎した結果を――それを成した私自身をッ! 家族を護れぬ弱い私に価値などないッ! だからこそ、私は止まらない、止まるものか!! 私は――」
そう、私はあの時、前世で家族を失ったあの時から、何一つ変わってなどいない。
私の心はあの瞬間に砕け散り、そして歪な形のままに組み直された。
後に残ったのは、己への憎悪を原動力に動き続ける機械人形。
今だからこそ分かる。機械仕掛けとなったこの銀の腕は、私の魂の形そのものだ。
そうだ、機械ならば止まらずにいられる。壊れて砕けるその瞬間まで、私は――
「――私は絶対に、諦めないッ!」
「は、ははは」
私の叫びを一身に受け、『無貌』は僅かに声を零す。
その声色は、以前と変わらぬ笑い声。しかし――その内側に秘められたものは、これまでの嘲笑とは異なる、心の底からの笑い声だった。
「はっ、ははははは! あっはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは――――!」
響き渡る哄笑。それと共に、膨大な魔力が彼を中心に吹き荒れる。
その巨大すぎる圧力に思わず息を飲むが、『無貌』は私たちなど気にした様子も無く笑い声を発し続けていた。
息苦しささえ覚えるほどの魔力の中、『無貌』はゆっくりと交渉を収め、顔に当てていた白い仮面をずらしていた。
――刹那、言い知れぬ怖気が背筋を駆け上がる。
「ッ、顔が……!?」
仮面を外した『無貌』――その顔面には、『顔』が存在しなかったのだ。
黒い絵の具を塗りたくったような、黒い闇が逆巻く顔面。
その中に赤と橙で輝くのは、炎のように燃え滾る三つの瞳。
それは、人に非ざる怪物の貌。『無貌』と呼ぶに相応しい姿だった。
「ああ、素敵だ、素晴らしいよ灯藤仁! ははははっ、君は僕が壊すまでも無く、とっくの昔に壊れていたという訳か!」
「貴様、一体何を――」
「君は、他者依存型と見せかけた自己完結型だ。他人を標榜しておきながら、実のところ他人などどうでもいいのだろう! 人を救うために強くなろうとしていたのに、いつしか手段と目的は逆転した。自らの力を証明するために、誰かを護ろうとしているだけなのだからッ!」
『無貌』は、ただただ愉快そうに笑い声を上げる。
いつしか再び嘲笑へと変わっていたその言葉は、すとんと私の胸の中に落ち着いていた。
嗚呼、だとするならば――私はとんだ怪物だ。
目の前にいるこの怪物を笑うことなどできはしない。私もまた、彼と同じように、当の昔に壊れ果てていたのだから。
――ならば、私は。敢えて、『無貌』の言葉に乗るとしよう。
「ああ……私は、私の願いは、己自身が強く在ること。己自身の弱さを破却すること! その価値を証明するまで、私は諦める訳にはいかないッ!」
そう宣言した――その、刹那。
『――全く、実にいい妄執だ』
――その声が響くと共に、全ての時間が凍結していた。




