163:決死
言葉と共に、ハストゥールはゆっくりと立ち上がる。
手に持っていたはずの剣は姿を消し、彼はただ自然体でその場に立ち上がっただけだった。
だが――たったそれだけであると言うのに、膝が砕けそうになるほどの圧力が私を襲う。
「ぐ……っ!」
「その力は、我らの住まうこの世界とは異なる領域にて作り上げられたもの。そうでありながらこの世界の在り方に寄せて作られているということは、それを作り上げた者は初めからこちらの状況を熟知していたということだ」
砕け散りそうなほどの圧力に耐えながら、私はその言葉の意味を模索する。
千狐の言葉では、《王権》を――即ち千狐そのものを作り上げたのは《賢者》と呼ばれる存在だ。
《魔王》の眷属であるその存在は、初めからこの世界の精霊に合わせて千狐を創造したとハストゥールは告げてくる。
考えてみればその通りだ。今まで使ってきた力は紛れもなく精霊魔法であり、この世界の法則に沿ったもの。
つまり――千狐は最初から、この世界に送り込まれるために創造されたと考えられるのだ。
「彼の《魔王》は、果たして何の意図があってその精霊をこの世界へと送り込んだのか――余は、それに興味がある」
「興味、とは……何を、するつもりだと?」
「ふむ。先ほどまでは暇潰しであったが……今回は、もう少し楽しむとしよう――戯れだ」
ハストゥールは半分だけ覗く口元に笑みを浮かべ、僅かながらに腕を掲げる。
瞬間――爆発的に発生した暴風が、私たちへと向けて放たれていた。
「リリッ!」
『てけり・りッ!』
それを察知して、私は瞬時に『黒百合』を纏い、足元にスパイクを生成しながら防御魔法を展開していた。
果たして瞬間風速何十メートルあったと言うのか、地面をめくり上げるほどの風は、私の防壁に衝突して分断される。
思わず拍子抜けしかけたが――そこに至って、私はようやく気づいていた。
今のは、攻撃でも何でもない。ただ、彼が魔力を励起させただけであるということに。
黄金の魔力のオーラを纏う風の魔神は、ただそれだけで暴風雨の如き風を巻き起こしながら、その中心で笑みを浮かべる。
「その力、余に示してみよ。余に一撃でも届かせて見せたのであれば――我が名において、貴様らを元居た場所に送り返すことを約束しよう」
「っ、ならば――!」
ただ一撃、それが途方もないほどに難しい課題であるとは理解している。
しかし、ハストゥールが《王権》に並々ならぬ興味を抱いている以上、隙を突いて逃げ出すことは困難を通り越してほぼ不可能。
であるならば――この困難に挑戦せねばなるまい。
「皆、どうか――」
「ああ、分かってるっての!」
叫びながら真っ先に飛び出したのは、《放身》によって魔力を滾らせる臥煙だった。
その放出の勢いによって何とか周囲の風に対抗した彼は、その爆発的な魔力を魔法へと変換する。
「【集い】【逆巻き】【貫け】ッ!」
「――【集い】【連なり】【爆ぜよ】!」
放たれたのは巨大な炎の槍。
灼熱の熱量を帯びて放たれたその一撃は、周囲の風を斬り裂きながらハストゥールへと直進する。
そして、それを追うかのように、大焚の魔法もまた放たれていた。
臥煙の槍を囲むように弧を描いて放たれた火球は完璧なタイミングで同時に着弾し、込められた魔力を爆裂させる。
種別の異なる二つの魔法、特に貫通式の付与された臥煙の術を受けながら大焚の波状攻撃を受けきることはほぼ不可能。
だが――これが通用したと考えるほど、我々はお目出度い頭はしていなかった。
「散開ッ!」
留まっていれば一網打尽にされる。
あれだけの攻撃を受けながら、ハストゥールの魔力は一切揺らいではいない。
様子見をする余裕も無く、我々はそれぞれの防御策を打ちながら散開していた。
「羽々音さん、前衛お願い!」
「ちょっと!? 朱音さん、貴方は――」
「そんなこと言ってる場合じゃないのよ! こっちも全力出すしかない!」
「っ……了解!」
姉上は舞佳さんを護衛に立てながら何かの術式を準備している。
この距離では良く分からないが、かなり大規模な術式であるようだ。
本当ならば姉上には下がっていて欲しい所であるが、この場での最大戦力は私を除けば姉上になる。
その力を遊ばせておく余裕はない、それは臥煙と大焚も承知していた。
「ならば、私は――」
覚悟を、決意を固める。
本当ならば逃げる為に使う筈だったこの力。
今切り札を切れば、確実に逃げる為の余裕は無くなるだろう。
だが――逃げられないならば、力を温存しておくことに意味は無い。
故に、私はこの右腕を伸ばしていた。
『死中に活を求めるか。であれば、お主の決意に応えよう!』
「往くぞ、千狐――《王権》!」
その私の呼びかけに呼応するように、右手の甲に浮かび上がった双銃と炎の紋章から、銀の炎が燃え上がる。
炎は渦を巻くように私の腕を駆け上がり――それが通り過ぎた後から現れるのは、機械仕掛けの白銀。
関節から灼銅の光を滲ませながら、私の右腕は変貌を完了させる。
白銀の輝きを放つ右手を握り締め、私は爆炎に包まれたハストゥールの姿を見上げていた。
瞬間――
「成程、それが《魔王》の力か」
吹き荒れていた炎が、千々に吹き散らされる。
その内話から現れたのは、先程と一切変わることのない姿のハストゥールだった。
やはりと言うべきか、あれだけでは効果が無かったらしい。
「やはり興味深い。それは既に、貴様に染まっているのか……己たちの意思を含めず、本当の意味で力だけを明け渡した――何故だ?」
「……その《魔王》は、それを懇切丁寧に教えてくれるような存在だとお思いで?」
「まさか。むしろ説明など皆無であろう。故に、ここで見極めるのだ」
告げて、ハストゥールは軽く手を振るう。
瞬間、詠唱など皆無で起動した術式によって、無数の風の刃が私へと向けて放たれていた。
「ッ……!」
初めから防御できるなどとは考えていない。
全方位から放たれる風の刃を、命中しそうなものだけを狙って右の拳で打ち砕きながら、私は死地から脱していた。
私が経っていた場所に着弾した風の刃は、まるで削り取るかのように足場を文字通り粉砕する。
命中すればひとたまりもない。防御の上から削り取られてしまうだろう。
「だが――」
安易に権能を使う訳にはいかない。
隙も見えない状況で力を使っては、貴重なリソースを無駄遣いするだけだ。
だが、この腕の強度は何とかハストゥールの攻撃に対応できている。
私自身の実力はともかく、この力自体は彼に通用しているのだ。
であれば、例え蜘蛛の糸ほどの細さであろうとも、道筋は見えてくる。
「ッ……千狐、初音たちは!?」
『安心せい、敵も最初から戦力外と見ていたか、眼中には無いようじゃ』
他の様子を見ている余裕もない。千狐に様子を確認して貰えば、最も心配だった初音たちはとりあえず無事な様子であった。
確かに、二人はこの中では能力そのものは低い。戦力として厳しいことは否めないだろう。
だが、そのおかげでハストゥールからは狙われずにいる。
王者たらんとするような堂々とした立ち振る舞いをしている人物だ、弱者を狙うことはないだろうし、人質を取るような真似もしないだろう。
とりあえずは安心なのだが、初音と刀祢がただ様子を見ているだけとも考えづらい。
いかにハストゥールと言えど、攻撃を受ければ反撃するだろう。とはいえ、初音とてそれは理解しているはずだ。
流石に安易に攻撃を仕掛けることは無いだろうが――
「ふむ、では次だ」
「ちッ!?」
余計なことを考えている余裕もない。
私を中心として風が渦巻き、竜巻を形成する。
即座に走り抜けようとしたのだが、あまりにも早すぎる魔法構築に対応しきれなかった。
余りにも強力な風圧に巻き上げられ、私の体は木の葉のように宙を舞う。
「づッ、おおおおおおおおおおおお!」
左腕からアンカーを射出、広間の壁へと固着させる。
同時に足元に展開した魔法障壁で風を受け止めながら体勢を立て直し、私は竜巻の外へと脱出していた。
その直後、無数の風の刃が竜巻の中へと投げ込まれ、爆散するように暴風が吹き荒れる。
(馬鹿な……!?)
思わず、私は胸中で呻くように呟く。驚くべきことに、今のはたった一つの術式によって構築された魔法だったのだ。
少なく見積もっても二級、下手をすれば一級に類されるような魔法――それを無造作に、無詠唱で構築して見せたのだ。
魔法の技術ではそもそも勝負にならない、そのことを身をもって理解する。
やはり、何らかの隙を突くほかに道は無いだろう。
風に身を煽られながらも空中を駆け、私はハストゥールの様子を探る。
彼はこちらを注視しており、他のメンバーに対してはそれほど注意を払っていない。
《王権》を意識しているからこそだろう。あるいは、それだけが脅威であると認識しているのか。
どちらにせよ、私以外のメンバーは動きやすい状況だ。だからこそ、臥煙と大焚は積極的に攻撃を加えているが――
「オオオオオオッ!」
「はあああああッ!」
二人の攻撃は確かにハストゥールへと命中している。
だが、彼の纏う風によって、全てが吹き散らされ、効果を及ぼしていないのだ。
一応、多少は力を割かなければならないようで、全くの無駄という訳ではないのだが、それでも注意を払う程の相手ではないと認識されているらしい。
「くっ……回避専念、それと準備だ。頼むぞ、リリ」
『ん、接続開始……!』
こちらが狙われている以上、無理に攻撃に回ることは命取りだ。
であるならば、先ずはいくつか策を仕込む。
小細工以外の何物でもないが、相手に攻撃を届かせるにも準備と言うものが必要だ。
「逃げるだけか? 少しは楽しませよ」
「無茶を、言ってくれる……! リリッ、韋駄天だ!」
『てけり・り!』
壁に着地した瞬間、襲い掛かる風の砲弾が七つ。
凄まじい密度の大気が渦を巻いているそれは、命中したらそれを解放するのか、あるいは引きずり込まれるのか。
どちらにしろひとたまりも無いと判断し――私は、『黒百合』の形状を変化させていた。
装甲を薄く、軽量化を測り、一部には魔力の噴出口を作る。
これはリリと共に編み出した『黒百合』の形態の一つ。
防御に秀でた私が、あえて防御を捨ててスピードに特化した回避のための形態――
「『黒百合・韋駄天』!」
足や背中、肩に付いた噴出口から、《放身》で放たれている魔力が噴出される。
私はその推進力と共に、灼銅の輝きを宙に描きながら猛スピードで離脱していた。
風の砲弾は、着弾と同時に内包した風を炸裂させ、周囲を爆破したかのように蹂躙する。
間一髪その範囲から逃れた私は、ハストゥールの目視範囲から逃れるようにしながら疾走する。
だが――
「ほう? そのショゴスをそのように使うか……面白い」
「ッ……!」
どれだけの速さで駆け抜けても、常にハストゥールと視線が合う。
彼はこのスピードに対して、完全に対応していたのだ。
せめてほんの僅かでも視界の外に出られれば出来ることもあったのだが、これでは回避に専念するのが関の山だ。
とはいえ、それも決して無駄という訳ではない。ハストゥールが本気になっていない現状、時間稼ぎをすることは不可能ではないのだから。
そして――
「――準備完了。無視してくれたことを感謝するわ、《風神》!」
姉上の、力強い声が響く。
それと共に巻き起こるのは、火山の噴火もかくやと言う程の炎の魔力。
地面に描かれた巨大な展開術式、その中心に立つ姉上は、吹き上がる魔力に髪をなびかせながらハストゥールを見つめていた。
その声と魔力の権限に、ハストゥールは興味深そうに目を細め、初めて私から視線を外す。
そして、次の瞬間――
「――《灼身天星》ァッ!」
――姉上は、その術を発動させていた。




