151:時間の異常
――転移が終わった瞬間、私が感じたのは途方もない違和感だった。
体を締め付けるような奇妙な感覚、鈍い感触のずれ、直感の鳴らす警鐘。
何かがおかしい。目に映る景色は、確かに私の知るマンションである筈なのに。
「っ……リリ、何が起こった!?」
『何か……分からない。ただ、私たちの転移地点を受け止めるような結界が張られていた』
『……あるじよ、時計を見てみよ』
「千狐? 何を――なっ!?」
腕時計に視線を落として、絶句する。
そこに表示されていた時間は、私が転移した時間よりも少なくとも二時間は後の時間となっていたのだ。
大精霊がどのような術式を使ったとしても、この時間はあり得ない。
これでは、普通に移動した方がまだ早いというような時間だ。しかしそうであるにもかかわらず、私の認識している時間はそのような時間が経過したという自覚は無い。
転移したら突然、数時間後の時間に放り出されていたとしか考えられないのだ。
「ッ……!」
状況に対する理解が追い付かない。あり得ない事象に対する動揺を抑えきれていなかった。
けれど――私はその動揺を抱えたままに思考を巡らせる。
状況は理解できない。だが少なくとも、良くない方向に転がっていることは確かだ。
であるならば、事実はありのままに受け止めて、次なる行動に打って出なければならないだろう。
一体何をしたのかは分からないが、こちらに都合の悪い事態であれば、『無貌』の仕業であると考えた方が精神衛生的にも気が楽だ。
「初音、初音! 部屋にいるか!?」
『えっ、仁!? いつの間に!?』
私の声に驚愕の声を上げ、初音が部屋から顔を出す。
その姿に安堵の吐息を零しながら、私は周囲の気配を探っていた。
他に感じるのは薫さんの気配だけ。つまるところ、私が出発する前までいた凛や刀祢、そして桐江の気配は存在していなかった。
彼女たちの姿が無いことに、私は胸中で舌打ちする。あまりよろしいとは言えない事態だった。
「仁、どうしたの? って言うか、どうやってここに?」
「色々と裏技を使ってな……それより、凛たちはどうした?」
「凛さんたち? それなら、三人で話があるからってちょっと外出してるけど……」
「ッ……くそっ、このタイミングでか」
思わず毒づきながら呟く。とんでもなく厄介な状況だった。
この時間で凛たちが外にいるとなれば、戸丸と遭遇してしまう可能性は高い。
向こうがもし私を標的として動いているのであれば、凛たちを無視するという選択肢は取らないだろう。
そしてもし、凛たちが彼と遭遇してしまったならば――正直なところ、例え凛と言えど、分が悪い戦いにしかならないだろう。
それほどまでに、戸丸白露の持つ力は強力で、厄介なものだった。
「リリ、位置は掴めるか?」
『一時接続が切れていた……けど、復旧した。既に場所は関知できてる』
「よくやった。初音、すまないが拠点の防御機能を起こしておいてくれ。凛たちが来たら中に匿っておいて欲しい」
「……何か、事件が起きてるんだね?」
「ああ……この拠点のことはお前にしか頼めない。頼む、初音」
本当は、初音も凛たちを助けに行きたいだろう。
だが、それを許可することは出来ない。
初音の能力は、戸丸とは特に相性が悪いのだ。彼と初音を戦わせるわけにはいかなかった。
そんな私の様相に、初音は僅かながらに悔しげな表情を浮かべるが、それでも決意を込めた視線で頷いていた。
「分かったよ。仁、凛さんのことをお願い」
「言われるまでもないさ。サポートは任せるぞ」
「うん……気を付けて、仁」
初音の言葉に頷き、軽く彼女を抱きしめてから、私は拠点の外へと飛び出してゆく。
今は一刻も早く、凛たちの元へ向かわなくては。
例えそれが、『無貌』が描いた通りの筋書きであったとしても――
「……認める訳には、いかない」
私はそう、小さく呟いていた。
* * * * *
――存在自体が冗談のような相手だと、桐江は内心で吐き捨てていた。
横合い、知覚の外から首を狙って放たれた一閃を、あらかじめ予想していた桐江はタイミングを合わせて打ち落とす。
戸丸白露の放つ攻撃は、二種類の攻撃が存在する。
一つは、今放たれたような、正しく剣戟の理想と呼べるような至高の一閃。
そしてもう一つは、そこまで辿り着く布石となるような牽制の攻撃だった。
後者に関しては、刀祢と桐江は二人とも何とか対応することが出来ていた。
だが、前者に関しては知覚することも難しい。これに対応するためには、桐江があらかじめ相手の動きを読み、その行動を予測しなければならなかった。
一手間違えれば即座に斬り捨てられる、細いロープの上を全力疾走しているかのような戦慄。そんな感覚の中で、刀祢と桐江は共に手傷を負いながらも、辛うじて戸丸に対して拮抗していた。
「し……ッ!」
「――――っ!」
剣戟を打ち落とした瞬間に、踏み込んだ刀祢が戸丸に対して一閃を放つ。
いかに腕の極まった剣士と言えど、剣だけで攻撃と防御を同時に行うことは出来ない。
戸丸は刀祢の攻撃を半身になって回避し、反撃の為に剣を引き寄せようとするが、それよりも僅かに速く桐江が動いていた。
体の芯を捉えた突きは、生半可な回避では避け切れない。当然、戸丸は大きく後退することでその攻撃を回避していた。
互いに距離を空けて構え直し、幾度目かの仕切り直しとなる。極度の集中に荒れそうになる呼吸を整えながら、じっと戸丸の動きに注視しつつ念話を発していた。
『……次、そっちに来る。止めるから攻撃を』
『了解、頼むよ』
『そっちこそ』
長々と話している余裕などない。手短に言葉を交わしながら、桐江は戸丸の動きを注視し続けていた。
動きを見てから対応したのでは追い付かない。相手の出方を読み取り、その先回りをして対応しなければならないのだ。
とはいえ、先読みが通じるのは数手まで。それ以上の駆け引きとなれば、桐江は成す術無く押し切られてしまうだろう。
その押し切られる数手までに相手を止めるのが、戸丸でも片手間では対処しきれない腕を持つ刀祢の役割だった。
――ほんの僅かに、切っ先が揺れる。
しかしそれよりも僅かに速く、呼吸のタイミングから相手の動きを予測した桐江は、刀祢との間に割り込むように刀を振るっていた。
瞬間、互いの武器が弾かれて、その軌道が僅かにずれる。
それと同時に、僅かにできた隙間へと潜り込んだ刀祢は、戸丸の胴へと向けて横薙ぎの一閃を放っていた。
軌道が逸らされなければ自ら刃に飛び込むことになっていたであろうそのタイミング。けれど、危険を冒したことによって手に入れたチャンスは絶好と呼ぶべきものだ。
しかし、戸丸もまた読んでいたかのように体をずらし、刀祢の一閃は相手の服を僅かに裂いた程度で終わる。
舌打ちし――刀祢は、さらに踏み込んでいた。
「――っ!?」
刀を振り切ったはずの刀祢の手、その左手に握られていたのは、銀の光で構成された短刀。
その光を目の当たりにして、戸丸の表情が僅かに強張る。
ここまでひたすら逃げと時間稼ぎに徹してきた刀祢が、ここまでの捨て身に出るとは考えていなかったのだ。
瞬間、向けられた刃が煌めいて――
「――【伸びよ】!」
「【壁よ】!」
銀の魔力で構成された刃が、一瞬でその長さを変える。
瞬時に伸びた刀祢の魔力刃は、光の如く戸丸の脇腹を狙い――瞬間、発生した防御魔法によって受け止められていた。
極小サイズをピンポイントに発生させることで強度を増したその防壁は、鋭い刀祢の一撃を受け止めていた。
けれど、その場に留まることは出来なかった戸丸は、刃の勢いに押されるようにして後退する。
「【集い】【斬り裂け】ッ!」
――そこを狙って放たれたのは、桐江の振るった刃より飛び出した光の刃。
飛ぶ斬撃と化したその魔力は、跳躍した直後の戸丸へと向けて回避しようのないタイミングで放たれていた。
地面に足が付いていない、そのタイミングで飛び出した魔力の刃は、瞬く間に戸丸へと向けて殺到し――振るわれた刃によって、真っ二つに斬り裂かれていた。
だが、それによって後退の勢いが増した戸丸は、そのまま後方へと向けて大きく弾き飛ばされる。
大きく距離を空け、仕切り直し。だが、先ほどとは違い、刀祢と桐江は隠しきれぬ消耗を顔に浮かべていた。
(あそこまでやって、手傷一つ負わせられないとは……!)
内心の戦慄に、刀祢は胸中で呟く。
捨て身で飛び込み、危険を冒してまで放った一撃は、初めて戸丸に届きはした。
だが、それは僅かに服に傷をつけた程度であり、彼の体には未だ傷一つついていない。
それに対して、刀祢と桐江は既に傷だらけだった。
致命的なダメージこそ受けていないが、いたるところに浅い傷をつけられている。
即座に動けなくなるダメージではないのだが、このままいけばそう遠くない内に力尽きてしまうだろう。
(凛様が逃げる時間は、十分に稼げたはず……あとは僕たちが逃げられればいいんだが)
勝ち目はない、それは十分に理解できている。
もしも一人で相対していれば、十合と持たずに斬り伏せられていただろう。
そう考えれば、既に十分すぎる戦果ではあった。
だが、逃げるには力が足りない。そして、逃げれば凛に危害が及ぶ可能性が高い。
赤羽として、それだけは認める訳にはいかなかった。
これ以上は危険。それを理解しつつ刀祢は構え直し――そこに体勢を立て直した戸丸が声を掛けていた。
「想像以上だ。本当に興味深いよ、君たちは」
「……突然、何のつもりだ?」
「率直な感想だよ。剣士を相手にした経験は多々あれど、ここまで粘られたのは初めてだ」
切っ先を降ろした戸丸は、純粋な賞賛を二人へと向けていた。
敵意は無い――と言うより、彼は元より二人に対する敵意も殺意も持っていなかった。
ただ必要だから戦い、必要とあらば殺す。それはただの作業であり、二人は敵としてすら認識されていなかったはずだ。
しかし、今彼は、二人のことを認識して賞賛の言葉を告げていたのだ。
「そこの彼女が僕の動きを読めるのも驚きだが、それを信じて動ける君も大概だ。よほど仲がいいのかな」
「冗談じゃないわ。仲なんて良くないわよ」
「僕は別に嫌いという訳ではないけど……」
答える筋合いなどなかったが、相手が時間をくれるというのであれば、ありがたくそれを受け取っておくべきだと彼の言葉に応じていた。
戸丸は、二人の言葉に対して興味深そうに目を瞬かせる。
まるで、とても気になる話を聞いた、とでも言うかのように。
「そうなのか。仲が良くないのに合わせられるのは、どうしてなんだい?」
「……それはきっと、相手のことをよく知っているからだ」
宗家の護衛になることを目指して、桐江は常に刀祢の存在を意識していた。
そしてそれと同様に、自信を追いすがる桐江のことを、刀祢は意識していたのだ。
互いにどのような戦い方をするのか熟知しているからこそ、相手に合わせることが出来る。
その結果が、遥か格上の相手である戸丸に対する善戦だった。
そんな確かな現実を見せつけた二人の言葉を聞き、戸丸は僅かに視線を細める。
「そうか、相互理解か。僕に足りなかったのは、それだったのかもしれないな」
「……何を言っている?」
「個人的に話さ。君たちには関係のないことだよ。ともあれ、君たちを賞賛しよう――君たちは生き残った」
「何を言って――」
戸丸の言葉に対して桐江が疑問符を浮かべた、その刹那。
三人の間に、上空から落下してきた黒い影が割って入っていた。
地面を砕きながら降り立ったそれは、全身を黒く染めた人影。
その姿に、刀祢は目を見開いて驚愕の声を上げていた。
「仁様!? どうしてここに!」
「……済まんな、刀祢」
ゆっくりと立ち上がり、黒い人影――『黒百合』を纏った仁は戸丸に対して視線を向ける。
バイザーで隠されたその表情は見えなかっただろうが、彼の纏う怒気が、その感情を告げていた。
「――これは、私がやらねばならんことだ」
仁が告げたその言葉に――戸丸は、淡く笑みを浮かべていた。




