150:遭遇
「おや? 驚いたな。まさか、この距離で気付かれるとは思わなかった」
路地の奥に立った、細身の青年――戸丸白露は、鋭く発せられた桐江の声を気にした様子もなく、落ち着いた様子でそう声を上げる。
その立ち姿からは、殺意や敵意の類は感じ取れないだろう。ただ自然体で、在るがままそこに在る青年。
だが、その手に携えられた一振りの刃故に、三人は強い警戒心を彼に対して抱いていた。
ここは人気は無いとはいえ、ごく普通の住宅街だ。そのような場所で武器を手にしているなど、どう考えてもおかしな話である。
既に武器に手を掛けている刀祢と桐江であるが、対する戸丸はそれを警戒した様子もなく立ち止まり、三人に対して声を掛けてきていた。
「どうも、こんにちは。灯藤仁君の関係者の方、で合っているかな?」
「……ッ!」
「ふむ、成程。良かった、どうやら辿り着けたようだね」
誰かの返答を聞くことも無く、戸丸は納得したように頷く。
ただの勘とも、三人の反応を見たが故の推察でもない。彼は今この瞬間、何かの事実を知り、納得したのだ。
その異質な動きに不気味さを覚えながら、刀祢は離れた場所に立つ青年に対し問いかけていた。
「……仁様にどのような御用でしょうか」
「ああ、彼と戦う必要があるんだ。それも、本気でね」
その言葉に、凛と刀祢は視線を細める。
目の前の相手を、正体不明の存在から、明確な敵として定めたのだ。
しかし、相手の立ち振る舞いだけでも、非常に高い実力を有していることは理解できる。
その上――
(拙い……住宅街じゃ本気で戦えないわ)
相手の姿を睨みつけたまま、凛は胸中で舌打ちする。
凛の得意とする戦闘は、圧倒的な魔力に物を言わせた殲滅戦だ。
高威力・広範囲の魔法を連発できるだけの魔力を有する彼女であるが、半面こういった人気の多い場所では本気で戦えないのである。
一応こういった場所でも戦闘できない訳ではないのだが、本気と言うには程遠い出力しか出せないだろう。
対する相手は、その立ち姿だけで達人級と理解できるほどの怪物――状況を把握し、凛は即決する。
「――逃げるわよ!」
「っ、はい!」
「了解です!」
仁を狙っているという点は気に食わないが、この場で彼と戦うことはあまりにも危険すぎる。
そう判断した凛は、目の前に対して即座に炎の壁を発生させ、そのまま踵を返していた。
破壊力を持たせなければ、周囲に燃え移らぬように制御することは可能だ。
その結果、路地を埋め尽くす炎が周囲の壁を焦がすことなく燃え盛るという異様な光景が広がっていた。
しかしその結果を見届けることなく、凛は二人を連れ立ってその場から駆け出す。
――キン、と。
甲高い音が耳に響いたのは、ちょうどその瞬間だった。
「――判断が速い。流石は火之崎の一族だ」
ありえない声が響く。炎の壁に阻まれ、こちらの姿など見えない筈の相手の声が。
しかし、己の魔法が手応えを失ったことを察知した凛は咄嗟にその方向へと振り返っていた。
路地の出口、抜き放たれた白刃を右手に、左手にキャリーバッグを引きずる青年は――真っ二つに裂かれて霧散し始めている炎を背後に、凛たちの姿を見つめていた。
(魔法を、あたしの炎を、斬った……!?)
その信じがたい光景に、凛は絶句する。
決して不可能と言うことではないだろう。魔法を斬る術式自体は赤羽家にも存在しているし、より高い魔力による干渉や、特殊な武装でも可能ではあるはずだ。
だが、凛にはそのどれもが可能であるとは考えられなかった。
魔力量に関しては当代一とも謳われる凛の魔法、その魔法出力は父のそれにも匹敵する。
その魔法に魔力量で上回れるとは考えづらく、あの刀からも特殊な魔力を感じ取ることは出来ない。
だからこそ、凛はあの炎が消えるまでは足止めが出来ると確信していたのだ。
「凛様ッ!」
「【集い】【貫け】ッ!」
呆然としていたところに届いた刀祢の叱責に、凛は反射的に反応して頭上に炎の槍を発生させる。
周囲に延焼させぬよう、撃ち降ろして地面に突き刺すようにその槍を放ち――戸丸は、頭上に迫ったそれを無造作に斬り払っていた。
その姿に、何か別の方法を有している可能性を考えていた凛は舌打ちする。
誤魔化しようがない。目の前の相手は、何の変哲もないただの刀で、凛の魔法を斬り払って見せたのだ。
(最悪……! 今以上の魔法は、ここじゃ使えないのに!)
本気で魔法を使えるのであれば、斬り払わせない自信は十分にあった。
だが、住宅街で使えるような魔法では、今の魔力密度を超えるような魔法を放つことは不可能だ。
今この場において、凛が戸丸を撃退する術は存在しないと言っていいだろう。
「大したものではあるが……それ以上の魔法は使えないだろう? 大人しく、従ってくれるとありがたいのだけど」
「く……っ!」
打つ手がない。だが、素直に相手に従うことも出来ない。
己が仁にとっての弱みになることなど、凛には到底許容できることではなかった。
故にこそ、何とかしてこの場を切り抜けなければならない。
その為に凛は必死に思考を巡らせながらじりじりと後ずさる。
背中を見せれば、一気に肉薄されるだろう。10メートル以上離れた距離も、彼相手にどれほどの意味があるのかの確証はない。
かといって、正面から挑むことは悪手以外の何者でもないだろう。
何とかして、この場を脱しなければならない――そう考えた、その直後だった。
「凛様、お逃げください」
「ここは僕たちが。凛様は早く安全な場所へ!」
「ちょっと、アンタたち!?」
刀祢と桐江が、戸丸の道を塞ぐように立ちはだかる。
その二人の背中に、凛は仰天しながら叫び声を上げていた。
相手は、間違いなく達人級の剣士。いかに二人が優秀な剣士であると言えども、この相手には到底及ばないだろう。
二人もそれを理解していたからこそ、あの場から逃げることに同意していたのだ。
けれど――
「これも赤羽家の務めです。貴方を矢面に立たせて逃げるなど、僕らに出来るはずがない」
「私はまだ不出来ですが……それでも、赤羽として背を向ける訳にはいきません」
「ッ……!」
二人の言葉に、凛は唇を噛む。
分かっているのだ。二人の言葉は間違いなく正しい。
赤羽家の二人の仕事は宗家の護衛であり、凛は護られるべき立場なのだ。
凛が圧倒できる相手であれば、危険を冒す必要は無いだろうが――今この場において、凛が無理に戦う理由は無い。
むしろ、今この場に凛が残れば、彼らの責務の邪魔にしかならないのだ。
納得は出来ない。だが――赤羽家の誇りを、蔑ろにすることも出来なかった。
「……必ず、生きて戻りなさい」
「承知いたしました」
「分かっていますとも」
当然とばかりに応える二人に、凛は顔を顰める。
だがそれ以上何も告げることは無く、凛はすぐさまその場から踵を返して走り去っていた。
刀祢と桐江は振り返ることなくその気配を見送り、油断なく構えたまま戸丸の前に立ちはだかっていた。
だが、彼は未だ動きを見せない。刀祢と桐江、二人を相手にしてもなお余裕があるであろう達人であるにもかかわらず、だ。
もしや別動隊がいるのではと危惧を抱きつつ、刀祢は戸丸へと向けて声を上げる。
「どういうつもりだ? 凛様を見逃すと?」
「言っただろう。僕の目的は、灯藤仁君だよ。彼が本気で戦ってくれるならば、別に彼女を狙う必要もないんだ」
さも当然と言うかのように、戸丸はそう口にする。
彼は既に、離脱した凛からは興味を失い、目の前にいる刀祢と桐江に集中していた。
危険な相手ではある。だが、刀祢達からすれば逆に好都合でもあった。
少なくとも凛の安全を確保することは出来る。最低条件を満たすことが出来るならば、後は生き残ることに全力を傾けるまでだ。
「さて、どの程度なら彼も本気を出してくれるかな――」
ゆらりと、戸丸の体が揺れる。
否――揺れたように見えたのだ。その一瞬の揺らぎと共に、彼は桐江へと肉薄し――
「ッ、ァああ!」
「――――!」
振るわれた刃を、桐江は瞬時に抜き放った刃によって迎撃していた。
刀を弾き返された戸丸は僅かに目を見開きながらも僅かに重心をずらし、体勢を安定させると共にもう一閃を放つ。
続け様に振り下ろされる刃。肩口を狙うその一撃を、桐江は振り上げた刀の鎬で受け止めていた。
その様を目視しながら驚愕し――けれど、訓練を繰り返してきた刀祢の体は本能と反射のままに動く。
雷光のように抜き放たれた一閃は強化の輝きを纏いながら戸丸の脇腹へと吸い込まれ――戸丸は、大きく跳躍しながらその場を離脱する。
「……驚いたな。君は見えているのかい?」
「どうかしらね。そういうあなたの剣は、随分とつまらないわ……まるで、将棋みたい」
「その評価は初めてだけど、まあ、間違ってはいないかな」
桐江の言葉に、戸丸は苦笑交じりにそう答える。
そのやり取りに、刀祢は内心の驚愕を抑えきれずにいた。
今の攻防を見れば、戸丸の剣が極限まで無駄を省いた合理化の極致であることは察することが出来る。
恐ろしく隙が少なく、予備動作を察知することも難しい。その動きは、刀祢でも見切ることは出来なかった。
それを、桐江は相手の動きを計算し、予想することで防いで見せたのだ。
(全く、これで僕に劣っているなんて言うんだから……!)
実際のところ、純粋な剣の腕と言う意味では刀祢に軍配が上がるだろう。
だが、桐江はそれとは異なる部分で――状況把握と計算の速さと言う点で、刀祢に勝っているのだ。
次に来る攻撃を、それこそ何十手も先まで予測して、少しずつ相手を追い詰めていく。
将棋のような剣と言うのは、むしろ桐江の扱う剣術のことを指していると言っても過言ではない。
先ほどの発言は、自己嫌悪からの皮肉も混じった言葉だったのだ。
つまり――
(相手は、桐江と同じ理詰めの剣。とはいえ、剣の腕は数段上、同じ土俵で戦えばこちらが不利。ならば――)
相手の性質を理解して、刀祢は警戒を絶やさぬまま術式を紡ぐ。
ただし、それは攻撃のためのものではない。
目の前にいる桐江へと、念話を繋ぐための術式だった。
『桐江、端的に伝える。君は――』
『相手の攻撃を読んで、受け止めろっていうんでしょう? 刀祢は相手の動きが止まった瞬間を狙って。長くは持たないだろうから』
『分かってる。ただし、こちらを狙って来たら――』
『すぐに伝えるわ。しくじらないでよ?』
『勿論だよ』
刀祢では戸丸の攻撃を見切ることは出来ない。
桐江では相手に有効な攻撃を放つことが出来ない。
それ故の役割分担を即座に割り振り、二人は構える。
思うところはあるが、互いに協力しなければ蹂躙されるだけだ。
対し、二人の姿を眺める戸丸は――僅かに、口元に笑みを浮かべる。
楽しいと、そう言うかのように。
「成程、成程。やはり引きこもっているのは駄目だね。こうも面白いことが起こるなんて。さあ……次はどうかな?」
切っ先が揺れる。その体がぶれるように動く。
一瞬でも気を抜けば押し切られるであろう戦場で、二人は決死の覚悟と共に戸丸の攻撃を受け止めていた。




