149:擦れ違い
コチ、コチ、と――秒針の刻む音が、静寂に満たされた空間を埋め尽くしてゆく。
時計、時計、時計――無数の時計が壁に飾られた空間。
時計と時計の間に隙間など無く、様々な形の時計が、まるで壁紙のように部屋の壁面を埋め尽くしている。
その中に、二人の人影が存在していた。
一人は女性。備え付けられた机の前の椅子に座り、不機嫌そうな様子を見せている二十代後半ほどの女だった。
そしてもう一人は――黒いカソックに身を包み、手に持った白い仮面で顔を隠した人物。
「分かってると思うけど――協力はこれっきりだよ。わざわざこんな所に声を掛けてくるなんて」
「はははっ、君ほどの適任もいなかったからねぇ。感謝しているとも、我が同胞よ」
「よく言うよ。感謝なんて言葉、君には似合わないにも程がある」
女が、嘆息交じりに肩を竦めて声を上げる。
その表情の中には苛立ちや嫌悪が混ざっていたが、彼女は決して仮面の男を――『無貌』を排除しようとはしていなかった。
そんな彼女の態度に気を良くしたように、『無貌』は芝居がかった仕草で歩き回りながら声を上げる。
「いやいや、君に対する敬意は本物だとも。時間干渉系の術式においては、流石の僕でも君にのそれには及ばない」
「効率が異なるだけで、行使自体は問題ないだろうに。それが君と言う存在だろう、混沌の源流」
「万が一にも失敗があってはならない。君の術式を操るのは、君であるべきだと思わないかな?」
「ああ言えばこう言う……全く、私は関わる気は無かったんだけど」
ぶつぶつと文句を言いつつも、彼女はパソコンを操作する。
その画面に表示されているのは、精緻極まりない複合魔法陣だった。
複雑に線が絡み合ったそれは、普通の魔法使いが見ても術式を読み取るどころか、それが魔法陣であることすら見抜けないだろう。
それはさながら一枚の絵画。術式をパーツにして術式を組み上げ、一つの形とした積層構造の魔法陣だった。
それを観察して、『無貌』は愉快そうに声を上げる。
「流石は一万年に一度の天才だ。方程式の答えに辿り着くだけはある。これを現実に投射したら、ドーム球場一個分ぐらいの規模になるんじゃないかな」
「立体にしたらそうね。平面構造だったらこの街を丸ごと中に入れるぐらいにはなるよ」
『無貌』の称賛に、彼女は誇ることも無くそう返す。
彼女にとって、この程度の術式は大して難しいものではないのだ。
用意することこそ時間がかかるものではあるが、一度準備できてしまえば、制御自体は難しくはない。
尤も、その術式構造を考える頭脳そのものが一種の異能とすら言えるほどの物であったが。
しかし彼女はそんな称賛を聞き流しながら、エンターキーを叩いてパソコンの操作を終了する。
『無貌』の方へと振り返った彼女の表情の中には誇らしげな様子など一切なく――ただ、一仕事終えたと言わんばかりの倦怠感だけが存在していた。
「はい、これでお終い。これ以上手を出すつもりは無いよ」
「分かっているさ、それで十分だとも」
顔は見えないが、『無貌』が機嫌よく笑っていることを察知し、女性は嘆息を吐き捨てる。
大した手間ではなかったことは事実だ。だがそれでも、この男が傍にいるというだけで精神的な苦痛は否定できない。
それほどまでに厄介な相手であり――同時に、共感できる相手でもあったのだ。
彼女はしばし沈黙し、そして改めて、白い仮面に隠された顔を見上げる。
「もう巻き込まないで欲しいね、『黒の王』。それとも『神父』かな?」
「どちらでも構わないとも。どちらも僕だからね」
「『時計人間』もって? まぁ、間違っちゃいないけど」
呟き、女性は再び嘆息を零す。
言い合ったところで詮無いことだ。自分たちの関係は、最早変えられない所まで来てしまっているのだから。
「ご協力感謝するよ、親愛なる第七位――《数術王》カール・フリードリッヒ」
「それは私の機構人形の名前でしょうに。私は観客席から移るつもりは無いよ、第一位」
「ああ、存分に我が歌劇を楽しんでくれたまえ。では、また会おう」
「来なくていいわよ、全く」
吐き捨てながらひらひらと手を振り――『無貌』はそれに苦笑しながら姿を消す。
後に残るのは、無数の時計に囲まれた小さな部屋。
その中心で、名を隠された秘跡の一角は、小さな笑みと共に声を上げていた。
「まぁ……君の脚本だけは楽しみにさせて貰うよ。ねえ、我が半身」
* * * * *
「全く……タイミング悪いわよねぇ」
「それは、その――はい。このタイミングでお仕事とは」
「まあ、あいつの仕事はそういう類のもんだし、仕方ないのは知ってるけど」
反応に困った様子で曖昧に頷くのは、先ほどの言葉を発した凛の後ろに続く桐江だった。
仁が仕事で呼び出された後、凛はこうして桐江を伴って外へと外出していたのだ。
桐江は仁の忠告通り、凛に対する謝罪を行っていたのだが、話はそうすぐに解決するようなものではない。
しばしゆっくりと話がしたいと、凛は桐江を伴って散歩に出ていたのだ。
尤も、この場は彼女たち二人だけ、という訳ではなかったが。
「……凛様。やはり僕は、別々に話をした方が良いのでは?」
「二度手間じゃない。今は仁だって仕事でいないんだから、別に気にしなくてもいいでしょう?」
「それは……確かに、このような機会がそうそうあるとは思えませんが」
凛は、刀祢も伴って灯藤家から出ていたのだ。
相談相手となった仁を除けば、今回の件に関する当事者が三人。
全員が全員立場を持っており、予定を合わせることは困難だ。
そういう意味では、今回の外出はまたとない機会であると言えるだろう。
しかし――
(性急に過ぎると思うが……それも凛様の性格だしな)
流石に、まだきちんと話もついていない内から単刀直入に切り込んでいくのは、流石に後々拗れる可能性が高いのではないか。
そんな危惧を抱きながら、刀祢は胸中で嘆息していた。
とはいえ、自らの主ではない上に宗家の人間である凛に対しては、刀祢も苦言を呈することは出来なかった。
それが出来る立場にあるとすれば桐江であっただろうが、彼女は凛に対する負い目もあり、強くは出られない状態だ。
初音に助けを求めることを躊躇っている内に外へと連れ出されてしまった刀祢は、最早逃げ場は無いと観念し、凛の言葉に耳を傾けていた。
「とりあえず、さっき桐江と話をした訳だけど……元はと言えば、アンタが原因な訳よね、刀祢」
「……ええ、まあ。その……桐江の話では、僕が発端であることは事実です」
「別に責めてる訳じゃないわよ? ただ、アンタは紛れもなくこの件に関わってるんだから、きっちり話には参加しときなさい」
「……承知いたしました」
複雑そうな表情を浮かべている桐江を横目に見ながら、刀祢はその言葉に頷いていた。
桐江の感情を考えるとやはり性急に過ぎるとは思ったが、凛の言葉も決して間違いではない。
自分だけ逃げようとするのは卑怯だろうと、刀祢は覚悟を決めて首肯する。
その様子に満足げに頷き返した凛は、人通りの少ない住宅街を再び歩き始めながら声を上げる。
「あたしはまだるっこしいことは苦手だし、はっきりと聞くわよ。桐江――アンタ、どうしたいの?」
「どう、とは……?」
「あたしの護衛をしたいの、したくないの? どっち?」
「――――ッ!?」
遠慮のない凛の問いに、桐江は息を飲む。
胸の奥底の核心を突くような、その言葉。言い逃れは許さないと言わんばかりに真っ直ぐと見つめてくる彼女の瞳に、桐江は縫い留められたように硬直していた。
誤魔化すことは出来ない。そんなことをすれば、二度とチャンスを得ることなどできなくなる。
桐江は震える唇を噛み締め、ひりつくような喉から揺れる声を吐き出していた。
「私、は……護衛の任に、就きたいです。それが、私の昔からの夢だったから……!」
「そ。だったら、どうすればいいのかしら」
桐江の言葉に、凛は僅かに笑みを浮かべる。
余裕のない桐江はその表情には気付いていなかったが、若干距離を置いていた刀祢はその笑みに目を見開いていた。
どうやら、凛自身は桐江が護衛であることに抵抗はないらしい――それを察して、刀祢は彼女の出方を見守る。
特に発言が無いことに頷いた凛は、二人を見まわしてから続けていた。
「ねえ桐江。あたしの護衛をしたいのなら、どうすればきちんとその任を果たせるようになるの?」
「それは……」
「遠慮する必要は無いから、はっきり言いなさい。アンタは、どうしたいの?」
「っ……私は」
俯き、肩を震わせ沈黙する桐江。
しかし、その桐江に対して、凛が声を掛けることはない。
言葉に出さぬ限り、何もするつもりは無いと――そう宣言するかのように。
そしてそれと同時に、凛は沈黙する桐江を決して見捨てることは無かった。
容赦なく、だが慈悲深い。その姿は、果たして誰をなぞったものなのか。そんな想像を抱きながら、刀祢は二人の姿を見守っていた。
凛が諦めるつもりがないことを察し、根競べすることに意味が無いと気付いた桐江は、やがてゆっくりとその口を開く。
「……勝ちたい、です」
「はっきり言いなさい。誰に勝ちたいって?」
「私は……刀祢に、勝ちたい! 刀祢に勝って、名実ともに凛様の護衛としての立場を手に入れたいんです!」
「成程ね。ほら、やっぱり答えははっきりしてるじゃない」
ふふんと誇らしげに胸を張る凛の様子に、刀祢は思わず苦笑する。
かなり強引に聞き出されたため、桐江は羞恥と情けなさのあまり手で顔を覆っていたが、生憎とそれに対するフォローは無かった。
刀祢は、そんな桐江の様子を改めて確認する。
彼女は、刀祢に勝ちたいと口にした。一度も勝てないままでは、己を宗家の護衛役として認めることは出来ないと。
その考えは、刀祢自身には理解しがたいものだ。何故なら、彼は立場そのものに対する執着と言うものは少ない。彼が抱いているのは、あくまでも仁に対する忠誠心であり、仁に仕えることが出来るならばどのような立場でも構わないと思っているのだ。
しかしながら、自らが立場に似合わぬ実力しか持ち合わせていないという現状を憂う気持ちは理解できた。
他でもない、刀祢自身も、己の力不足を感じていたのだ。
「……であれば、話は簡単ですね」
「そうね。これだったら単純だわ」
「は、はい?」
小さな嘆息と共に刀祢が零した言葉に、凛は我が意を得たりとばかりに首肯する。
話の焦点となっている桐江自身は困惑していたが、凛はそんな彼女に対し、胸を張って言い放っていた。
「強くなりなさい、桐江。あたしが手伝ってあげるわ」
「は? り、凛様が、ですか!?」
「そうよ。自分が弱いのが許せないなら、強くなればいいのよ。火之崎の常識でしょう?」
「し、しかし! 凛様のお手を煩わせる訳には!」
「いいじゃない。あたしの護衛をあたしが育てる、結構楽しいと思うわよ」
そう告げて、凛は不敵に笑う。
無邪気で力強く、半ば傲慢とも取れるような言葉を口にする――火之崎の宗家らしいその気質に、刀祢は小さく笑みを浮かべる。
混乱する桐江は、やはりまだ火之崎宗家の性質を把握しきれていないようではあったが。
「とにかく桐江、アンタは次からあたしと一緒に訓練よ。その内、赤羽で最強の剣士にしてあげるから」
「ッ……承知、致しました。凛様、お手数をお掛け致しますが、どうぞよろしくお願い致します」
揺らぐことのない凛の言葉に頷き、桐江は跪いて首を垂れる。
その姿を見て、刀祢は笑みとともに首肯していた。
今、桐江が凛へと向けた感情。それが、己が仁に対して向けているものに近づいたことを感じ取ったがために。
今の彼女ならば問題ないだろうと、刀祢は安堵の吐息を吐き出し――
――次の瞬間、桐江は立ち上がって袋から刀を取り出していた。
「何者かッ!」
放たれる誰何の声。それは、横合いにある路地の先――そこから現れた、一人の青年に対して向けられていた。
そこに立っているのは、手に一振りの刀を携えた細身の青年。
彼は――その視線を、じっと凛の方へと向けていた。




