146:赤羽桐江
マンションの外で待機していたらしい桐江は、凛に呼ばれるとすぐさまその姿を現していた。
行動はかなり早く、赤羽家らしい動きであると言えるだろう。
この辺りにも、彼女の実直な性格が現れているように思える――が、それだけでは凛は満足できないだろう。
何とかして、彼女の心の内を知らなければなるまい。
「……とりあえず、第三者である私が話をしよう」
「まあ、当事者と言えるかどうかは微妙だけど……アンタが第三者って言うのも微妙じゃない?」
「自覚はしているが、他に適任もおるまい。一応火之崎の内部の話であるし、初音に話をさせる訳にもいかないだろう?」
「そりゃ、否定しないけど」
唇を尖らせる凛の様子に、私は苦笑を零す。
この話で、自分が蚊帳の外に置かれるのは納得がいかないのだろう。
だが、主人である凛や、競い合う相手である刀祢が目の前にいては出来ない話も多かろう。
問題の解決には、第三者からの意見が重要なのだ。
「とりあえず、二人は桐江のことをこの部屋に呼んできてくれ。直接話をしてみよう」
「んー……ま、いいわ。それじゃあ、頼むわよ」
「よろしくお願いします、仁様。あ、それと――」
「む? 何かあるのか?」
部屋を出る直前、立ち止まり振り返った刀祢が、私へと声を掛けていた。
若干言い淀んだ様子に、何かあるのかと首を傾げる。
そんな私の問いに対して、刀祢は僅かに苦笑を浮かべつつ話を続けていた。
「ええ。桐江は、精神的に追いつめられるとどんどん意固地になっていく悪癖がありますので……」
「成程。まあ、あまり突っ込みすぎないようにしよう」
「お願いいたします。それでは、桐江を呼んで参ります」
凛に続いて刀祢も私の部屋から退出し、私は一人になった部屋の中で思案する。
赤羽桐江は、話に聞いていた通り、真面目なタイプの人間なのだろう。
実直であるが、同時に意固地になりやすいタイプ。経験は少ないが、そういった人間から事情を聴いたことは前世でも幾度かある。
協力し合える関係であるならば、距離感さえ間違えなければかなり扱いやすいタイプだ。
だが、警戒心を抱かれている場合はそうもいかない。ああいった手合いは、非常に分厚い壁を作るタイプなのだ。
『しかしお主も、妙なことに気を揉むものじゃな。今抱えている問題を忘れた訳ではあるまい』
「分かってはいるが、今は動きようがないことも事実だ。それに、凛から持ち掛けられた相談だしな」
『くく、そうであったな』
上機嫌に笑う千狐の様子に苦笑しつつ、私は桐江のことを待ち構える。
そして程なくして、私の部屋の扉からは、大きすぎぬ程度のノックの音が響いていた。
『赤羽桐江、参上いたしました。入室させて頂いてもよろしいでしょうか』
「ああ、入ってきてくれ」
『失礼いたします』
最早固すぎるのではないかと言いたくなるほどの丁寧さと共に、殆ど音を立てずに部屋の扉が開かれる。
以前見た時と同じように、短めの黒髪を揺らす桐江。その神経質そうな表情は変わらず、眼鏡も相まってかお固い印象は以前よりも増しているように思えた。
表面上はあまり変わらないが、やはり多少はストレスを抱えているようだ。
「よく来てくれた。そこに座ってくれ」
「は、失礼いたします」
私の言葉に一礼し、桐江は指定した座布団に行儀よく正座する。
その所作は洗練されており、彼女が護衛以外の教育もしっかりと受けていたことが理解できるだろう。
やはり、彼女はかなり勤勉な性格のようだ。妥協が無い、とも言えるのかもしれない。
「さて、桐江。私は、お前が優秀な赤羽の剣士だと考えている。だからこそ、お前はもう、私がお前を呼んだ理由を察していると考えている」
「……過分な評価です」
「ふむ。では私から言うことになるが……それでもいいのか?」
その言葉に、桐江は沈黙する。
彼女も、内心では理解できているはずだ。現状が、赤羽の剣士としてはよろしいものではないということが。
だからこそ、まずは彼女自身に口に出して貰いたい。認められなければ、先へと進むことは出来ないのだから。
私の言葉に、桐江はしばし沈黙する。だが、最早宗家の籍は無いとはいえ、私は分家当主――彼女にとっては上位者だ。そんな私からの言葉を無視することは、赤羽としての矜持が許さないだろう。
桐江はしばし口を噤んでいたが、やがて決心したのか、ゆっくりと顔を上げて口を開いていた。
「……凛様に、ご迷惑をおかけしてしまっている件、ですね」
「そうだな。お前も、現状は理解しているのだろう?」
「はい……申し訳ございません」
「謝罪は要らん。と言うより、私に対して謝罪されても困る。私は別段、お前から迷惑を被った訳ではないからな」
まあ、凛に迷惑をかけていることを何とも思っていないのか、と問われれば否定しきれないが、それでも私個人として桐江を疎んでいる訳ではない。
その謝罪を受け取る筋合いはない、ということだ。
とはいえ、事情を知りたいことは事実。認めたと言えど、そこで話を終える理由にはならない。
軽く肩を竦め、私は再度声を上げていた。
「では、改めて問おう、桐江。今の態度を貫こうとしている? それは、赤羽の理念とは異なるものだろう」
「それは……」
桐江は、私の問いに言葉を詰まらせる。
胸に抱えている思いがあるのだろう。恐らくは、彼女自身が恥ずべきものだと考えている感情が。
私はただ、じっと彼女の言葉を待つ。意固地な彼女は、急かせば急かすほど自らの殻に閉じこもる可能性が高まる。
彼女自身が、自らその言葉を発さなければならないのだ。
しばし迷い、視線を揺らす桐江。しかし、この無言に耐えかねたのか、彼女はおずおずと口を開いていた。
「私は……自分自身に納得が出来ないのです」
「納得、か。それは、一体どういった意味だ?」
「私は、私自身が、宗家の護衛役として相応しいとは思えないのです」
そう告げて、桐江は視線を上げる。
私の目を見つめる彼女の瞳は、不安と劣等感に揺れていた。
やはり、と言うべきか――彼女の抱える問題は、どうやら彼女自身の心の中にあったようだ。
「桐江、お前は赤羽の当主の推薦を受け、そして火之崎の宗家に認められた人材だ。お前は、その判断に否と返すつもりか?」
「お言葉ですが、仁様。宗家の護衛剣士とは、その世代で最も強い剣士が就くべき役割です。私では、その条件に合致しません」
「お前は、刀祢に匹敵する剣士となるまで鍛え上げられた筈だぞ?」
「確かに、彼の領域に手を掛けている自覚はあります。しかし、『匹敵する』と言うだけであって、決して『勝てる』訳ではないのです」
感情が昂ぶってきたのか、桐江の口数が増え始める。
彼女の瞳の中にあるのは――恐らくは、嫉妬。己よりも高い実力を持ちながら、それでも宗家の護衛役を辞退した刀祢に対する、嫉妬の感情だった。
無理は無いだろう。宗家の護衛役は、赤羽の剣士にとっては憧れであり名誉である役職だ。
その得られた名誉を、自ら放り出した刀祢に対しては、複雑な感情があるのは当然のことだ。
だが――桐江は同時に、刀祢の強さを認め、尊敬している部分もあるようだった。
「私はまだ、一度たりとも彼に勝てたことは無いのです。匹敵する実力を持っていたとしても、私は彼に届いていない」
「……だからこそ、己は凛の護衛として相応しくないと?」
「名誉なことであるとは分かっています。ですが、だからこそ……」
「刀祢に勝てる剣士であるという実感が無ければ、納得は出来ないか」
私の言葉に、桐江はこくりと頷く。
結局は、桐江の中の問題であるということだろう。
実力で刀祢に勝利するか、或いは今の己に対して折り合いをつけるか。
どちらの結末であろうとも、そう簡単に達成できるようなものではないだろう。
とはいえ、それは結局の所甘えでしかない。その感情を否定はしないが、だからと言って凛に迷惑をかけていることを見逃すわけにはいかないのだ。
「お前は、刀祢が凛の護衛をすべきだと考えているのか?」
「……正直に申し上げれば、その通りです。私よりも、彼がその役目に就いた方が問題は少ないでしょう」
「それ自体は否定しない。だが、既に決定は下されている。刀祢は私の護衛であるし、お前は凛の護衛だ。それに変わりはない」
「それは……はい、その通りです。私も、分かっています」
小さく嘆息する。どうにも、融通の利かない性格のようだ。
真面目であることは美点であると思うが、しきたりを破ることにどうしようもない忌避感を感じてしまうのだろう。
何とか、穏便に納得させる方法があればいいのだが。
私はしばし思案して、再び口を開く。
「お前の考えは分かった。今の己が宗家の護衛役として相応しくないと思うのならば、それも仕方あるまい」
「良いのですか……?」
「良くは無い。お前も分かっているだろう? だが、結局はお前の心の問題だ。私が何か言ったところで、お前自身が折り合いをつけられなければ意味が無い」
納得と言うものは非常に面倒だ。人が物事を認められる最低限のラインであり、逆に言えばそれが無ければ上辺だけ従うことにしかならない。
桐江自身が心から今の己を認められなければ、彼女は真に凛へと仕えることは出来ないだろう。
しかし、だからと言って現状維持では何も変わらない。凛の抱える悩みを何とかするため、その解決の糸口ぐらいは探らねばならないだろう。
私は軽く溜め息を吐き出し、改めて桐江へと声を掛けていた。
「お前は、このことをきちんと凛へと話せ」
「こ、この話をですか? しかし――」
「これは命令だ。お前の内心がどうであれ、お前の取っていた態度は護衛対象に対するものではない。それ故の罰則であると思え」
「っ……承知いたしました」
まあ、己の恥を晒すような行為だ。抵抗があるのは当然だろう。
だが、この話はきちんと凛に伝えておく必要がある、
私が伝言しても良いが、それよりも二人きりで話した方が効果的だ。
その方が、多少は距離も縮まるだろうからな。こう言っておけば、真面目な桐江が報告を怠ることは無いだろう。
「話はこれで全てだ。必ず、凛と対話をするようにな」
「はい……失礼いたします」
私の言葉に頷き、桐江は一度礼をしてから立ち上がって踵を返す。
流石に不満はあるのだろう。彼女の表情は、少し複雑そうな色が混じっていた。
だが彼女自身、このままでは拙いと考えていることだろう。
であれば、必ず話し合いの場は設けるはずだ、
それが、本当に解決策になるかどうかは分からないが――一人で悩んでいても、見つからない答えは必ずある。
二人で良い落としどころを見つけられれば、多少は先へと進むことが出来るだろう。
僅かな満足感を噛み締めていた私に、横合いから声がかかる。だが、この場に人の姿などない。当然、その声を発したのは千狐だった。
『仲良くできるよう態度を改めろ、と言ってやらんで良かったのか?』
「あの様子では、言葉の上だけで受け止められても、決して好転はしなかっただろうさ」
千狐の言葉に、私は肩を竦めてそう返す。
桐江は融通の利かない性格をしている。そのそもそもの原因は、『己が納得できるかどうか』を重要視していることだ。
同意した上であれば彼女は素直に、それも積極的に動いてくれるだろう。
だが、納得が出来なければ、例え上位者が相手であろうとも反感を持つ。
凛の望むように、仲の良い関係を築いていればそれも長所として働いているだろう。案外、母上もそれを見越した上で桐江を認めていたのかもしれない。
「まあ、真面目なだけあって、己が不適切な態度を取っていたことに自覚はあったし、それに対する後悔もしていた。罰としてと言い含めたから、あの言葉にはきちんと従うだろうさ」
『ふむ……そういうものかの』
まあ、何かしら進展はあるだろう……多分。とりあえず、その辺りは凛に期待するしかあるまい。
そう考えて嘆息し――電話が着信音を鳴り響かせたのは、ちょうどその時だった。
響き渡る音は、無機質な仕事用携帯の着信音。私は視線を細めて、取り出した端末の着信に応える。
「……こちら灯藤です」
『崎守だ。悪いが灯藤――緊急事態だ』
重苦しく響く、室長の声。
その言葉に、私は意識を研ぎ澄ませながら立ち上がっていた。




