140:慈愛の黄金
詩織から伝えられた事実に、私派思わず言葉を失っていた。
丈一郎とウェンディを止めることはできない。その唯一の方法は、丈一郎の命を奪うことだ。
認めがたい――だがそうしなければ、一般市民にも被害が拡大する。
私は『八咫烏』として、四大の一族として……何よりも魔法使いとして、彼を殺してでも止めなければならないだろう。
だが――
「アアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
「ぐ……ッ!」
あの時の言葉は、丈一郎のものだったのか、はたまたウェンディのものだったのか。
そのどちらであろうとも、助けを求められていたのだ。
水鏡氏からは二人を託された。二人からは助けて欲しいと懇願された。
これが、これが犯人のシナリオということか。水鏡氏が『最悪の相手』と表現したことも頷ける。
これは最低の愉快犯による犯行だ。人の思いを嘲り、踏み躙ることを快楽とした行動だ。
――私の、最も嫌う類の存在だ。
「灯藤君、どうするつもり!? これは流石にヤバいわよ!?」
「分かってます……!」
舞佳さんの言葉に答えながら、私は拳を握り締める。
分かっている。彼を解き放つことはできない。彼を殺すことこそが、『八咫烏』としての最適解だ。
私たちが倒れれば、周囲には甚大な被害が及ぶことになる。
そして恐らくは、父上か母上によって丈一郎は処分されることになるだろう。
被害を抑えるためには、ここで討たなければならない。
『然り――暴走したあ奴らは、人の手の及ばぬ怪物だ。あ奴らも、無辜の人々を手にかけることは望むまい。討ち取ってやることこそが、あ奴らにとっての救いになろう』
千狐の声が、耳に響く。
丈一郎にも見えているはずの我が精霊は――私の肩の上で、楽しそうに笑みを浮かべていた。
「アアアアアッ!」
「はああああっ!」
私の拳と丈一郎の拳が打ち合わされ、互いに後方へと吹き飛ばされる。
凍り付いて砕け散った『黒百合・夜叉王』の拳を再構成しながら、受け身を取りつつ体勢を立て直し、私はじっと丈一郎の姿を見つめていた。
戦闘人格のままに暴走する、今の彼。その支配を乗り越えてまで届かせたあの言葉は、決して無視してはならないものだ。
『死もまた救いとなろう。それこそが、人間にできる限界じゃ。妥協することも、罪ではあるまいて』
「ああ――だが、それを認めるつもりは断じてない」
私は、水鏡氏に宣言した。私は、丈一郎の言葉を聞き届けたのだ。
ただ純粋に、まだ幼いウェンディを助けようとした二人。途方もない悪意に晒されてなお、一縷の希望を捨てていなかった彼ら。
ああ、その奮闘を、その決意を、無為にすることなどあってはならない。
「最初から決まっているぞ、千狐。道筋は既に示された。答えはたった一つだけだ」
『それでも、手を伸ばすと。そう言うのじゃな?』
「ああ、そうだ――」
右手を伸ばす、前へ。
体勢を立て直した丈一郎、その彼へと、己が右手を差し伸べるように。
それと共に、確信の笑みを浮かべた千狐に対して、私は強く告げていた。
「――私は、絶対に諦めない!」
『――お主の魂、しかと見届けた!』
千狐の声が、耳元で響く。
前へと伸ばす、私の手へと――千狐は、己の右手を重ねていく。
楽しそうに、嬉しそうに、歓喜に満ちた声を私だけに届けながら。
『我があるじよ! 敬愛すべき我があるじよ! その強き想い、朽ちぬ魂、お主こそが我が糧に相応しい! この逆境の最中、この窮地の最中、この絶望の最中――それでも諦めぬと叫ぶならば!』
右手が重なる。感じるのは、あの日と同じ灼熱の感覚。
だが、そこに感じる熱さを、私は確かに《掌握》していた。
そして、右手の光に浮かび上がるのは――双銃と炎を意匠とした、銀色に輝く紋章。
その輝きを見つめ――千狐は、叫ぶ。
『――汝、不屈であれ!』
声が響く。何よりも力強く、私を勝利へと導くその声が。
だからこそ私は、その衝動に抗うことなく、己の右手に宿る炎の名を叫ぶ。
「――《王権》ッ!」
刹那――紋章が、輝きを放つ。
溢れる光は、千狐の毛並みの如き銅の輝き。熱せられて赤熱したかのような、灼銅の閃光。
八条に分かれた光は螺旋を描き、私の右腕を覆いつくしていく。
絡みつく光は、私の右腕を覆いながら肩口まで伸び、そしてそのまま虚空へと飛び出して揺れ始める。
私の肩口から虚空に消える光の帯は八条。まるで尾のように揺らめくそれは、千狐の後ろ髪そのものであった。
そして、光が絡み付き肥大化した私の腕は、ゆっくりとその形を変貌させてゆく。
それは獣の腕だ。鋭い爪と、灼銅の毛並みに包まれた異形の腕。
そして最後に、右の瞳が変貌する。
鏡は無く、直接見れるわけではない。だが、私はそれを確かに感じ取っていた。
私の右目が、千狐のそれと同じものに変貌していることを。
瞳孔の切れ上がった紅の、獣の瞳へと姿を変えていることを。
半身を異形と化したこの姿。だが、右腕の中で燃える灼熱は、確かにあの日と同じものであった。
「灯藤君、貴方――」
「チャンスは一瞬。見ていてください、舞佳さん」
「オオオアアアアアアアアアアアアアッ!!」
丈一郎が叫ぶ。荒れ狂う暴風と氷雪を纏って、それと共に真っ直ぐと突撃してくる。
対する私は、変貌した右腕を前へと翳したまま、静かにその名を告げていた。
「《王権》――《水魔之理》」
――昏く、深く、月影を映す水面へと沈む少女の幻影。
その水底を覗き込むように、私は異形と化した右腕を伸ばす。
瞬間、肩口より伸びる光の尾の一つが深緑に染まり――
「アアアアアアアアアアア――――」
私を打ち砕こうと突撃してきた丈一郎に触れた瞬間、彼の動きがまるで空間に縫い留められたように静止していた。
《水魔之理》の力は物体の静止。例えどれほどの運動エネルギーを持っていようとも、一切の慣性を無視してその動きを止めることが出来る。
だが、魔力を以て押さえつけている以上、この拘束は長続きしない。
故に、もう一手。彼を救うために、もう一つの力が必要だ。
それこそが――
「《王権》――《女神之理》」
――高く、優しく、大いなる天の果てより総てを見守る女神の幻影。
その最果てを仰ぎ見るかのように、私は異形と化した右腕を伸ばす。
瞬間、肩口より伸びる光の尾の一つが黄金に染まり――
「見ているがいい、悲劇作家気取り! これが私の答えだ!」
――その大いなる力を、拘束された丈一郎の頭へと押し付けていた。
* * * * *
――唐突に明瞭化した意識に、丈一郎は目を見開いて息を飲む。
そして周囲の状況を確認して、茫然とその場に立ち尽くしていた。
「俺は……ウェンディの力を使って、暴走して……それから――」
はっと息を飲み、丈一郎は周囲を見渡す。
そこは、見知った景色。己が長い間暮らしていた、比嘉家の座敷牢だった。
何故己がこの場所にいるのか、先ほどまでの戦いは一体どうなったのか。
状況が理解できず混乱する頭で、丈一郎はひとりごちる。
「仁の奴と、戦って……あいつの腕が、化け物みたいになって――それから、どうなったんだ?」
丈一郎は、ウェンディの力に飲まれて暴走しながらも、己の意識を失ってはいなかった。
ただ、ウェンディだけは助けて欲しいと願いながら、荒れ狂う意識の中で必死に抗っていたのだ。
相対していた仁は最後の瞬間、奇妙な鎧を纏いながら、右腕を獣の如き姿に変貌させて迎え撃っていた。
丈一郎の攻撃は、その謎の力によって受け止められ――記憶は、そこで途絶えている。
「どうなってんだ……ウェンディは、無事なのか!? おい、誰かいないのか!?」
仁に敗れたのであれば、己はどうしてこの場所にいるのか。順当に考えれば、彼の拠点に拘束されているはず。
そもそも破壊された筈の座敷牢がそのままの姿で残っていることも不自然極まりない。
ひょっとしたら、今まで見ていたものはすべて夢だったのではないか。
自分はずっと、この座敷牢の中で眠っていただけなのではないか――そんな考えが脳裏を過ぎり、丈一郎は頭を振ってその考えを打ち払っていた。
(そんなことがあってたまるか! ウェンディにあったのも、婆さんに助けられたのも、仁と戦ったのも……全部、夢なんかであるはずがない!)
あの日々も、あの戦いも、己の全霊を懸けて走り抜いたものだ。
それを否定することは、己自身であっても許さない――そう断じて、丈一郎は拳を握る。
例え仁に敗れるという結末であったとしても、それまでの日々は決して否定する訳にはいかなかったのだ。
だが、同時に途方に暮れる。結局、ここは一体どこなのか。自分は何故、こんな場所にいるのか。
「……ひょっとして、俺はもう死んでて、ここは死後の世界だってオチじゃねーだろうな……」
だとしたら、何と滑稽な話だろうか。
逃げて逃げて逃げ続け、その果てに死して行きついた先が、己がずっと縛り付けられていた場所だとは、一体どんな皮肉だというのか。
自嘲しながら、丈一郎は宙を仰ぐ。
「結局俺は、何もできずに――」
「――ううん、違うよ」
不意に――涼やかな声が、響く。
それと同時に吹き込んできたのは、凍えるほどに冷たい風。
けれど、同時に酷く心地よくも感じるそれは、丈一郎の背後から吹き付けてきていた。
咄嗟に振り返り、丈一郎はその光景に絶句する。
背後には、狭い座敷牢の景色は無く、雪に閉ざされた山脈の姿があったからだ。
凍える風が吹き荒ぶその中心で、黒く染まった手足を晒したウェンディは、ゆっくりと丈一郎の方へ歩いて来ていた。
「ジョウは、わたしに教えてくれたよ。楽しいこと、素敵なこと、いっぱい」
「ウェンディ……」
「だから、そんなことを言わないで」
歩み寄り、丈一郎の前に立ったウェンディは、その黒い手で丈一郎の手を取り、両手で包み込んでいた。
かじかむ冷たいその手の中に、けれど確かな温かさを感じ取り、丈一郎は目を細める。
そんな彼の表情を見上げながら、ウェンディは淡く笑みを浮かべていた。
「まだ、大丈夫だよ。まだ、取り戻せる」
「……けど、俺じゃあの力を止められない」
「うん……でもね。二人で一緒なら、止められるよ」
――冷たい風が止む。
二人の足元から広がるように、周囲の景色が変貌する。
それは、この数日を過ごした、見覚えのある小さな家の景色。
決して、広いものではなかったけれど――それでも、生まれて初めて得られた、満ち足りた日々。
その象徴となった景色の中心で、二人は確かに、温かな黄金の残滓を目にしていた。
それは、二人を一緒に抱きしめる、温かな腕の感触で――微かに見えた黄金の瞳は、二人に対する慈愛に満ち溢れていた。
「その為の力は貰ったよ。だから……お願い、ジョウ」
「……ああ、そうだな」
ウェンディを見下ろし、丈一郎はようやく、その口元に笑みを浮かべる。
いつからだろうか。己とウェンディの胸から黄金の鎖が伸びており、それがお互いの体を繋ぎ合わせている。
奇妙な光景ではあったが、それが一体何を意味しているのか、今の丈一郎は正確に理解していた。
互いの感情が、流れ込んできている。お互いが何を考えているのかを理解し、その上でそれに同調することが出来ている。
これこそが、ウェンディの語る『その為の力』なのだと、丈一郎は直感的に理解していた。
「行こう、ウェンディ。今の俺たちならきっと――いや、必ずやれる」
「うん……頑張ろう、ジョウ」
ふわりと、浮かび上がるような感覚。
それと共に周囲の景色は光に包まれるように白く消え去ってゆく、二人の意識はゆっくりと薄れてゆく。
けれど、それでも――繋いだ手だけは、離さなかった。




