138:風に乗りて歩むもの
水鏡氏の住居を出て、丈一郎たちの痕跡を辿りながら進むこと数分。
私は、マンションの立ち並ぶ住宅街に足を踏み入れていた。
路地裏を選んでいた様子ではあるが、このような場所で魔法戦を行うなど、正気の沙汰ではない。
例えどのような理由があろうとも、国家を護る魔導士の所業ではないことは確かだ。
「例の、最悪の魔法使いとやらか……! リリ!」
『方角は、合ってるはず! 多分……上を移動した!』
「了解だ!」
地を蹴り、壁を蹴り、建物の上へと駆け上がる。
丈一郎の身体能力ならば、この程度の動きは容易いだろう。
確かに彼ならば、屋上を移動した方が手っ取り早く移動できるはずだ。
とはいえ――振り切るとなると視線が通りやすくなってしまうため、一長一短であると言えるが。
「方角は――」
『そっちであってる』
「そのようだな!」
《掌握》で見れば、魔力の痕跡を僅かに感じ取ることが出来た。
しかしそれはつまり、魔力を発しながら移動をしているということに他ならない。
ここまで移動してなお、丈一郎は追っ手を振り切れなかったのだろう。
急がなければ――そう、胸中で呟いた瞬間だった。
『――――ォアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ!!』
「っ!?」
突如として響き渡った、巨大な咆哮。
そして、それと共に巻き起こったのは、数百メートルという距離を置いてなお感じ取ることのできる凍えるほどの冷気だった。
視線の先、夜の闇に包まれ始めた建物の上――この冷気の発生源は、そこに巻き起こっている巨大な蒼白い竜巻だろう。
余波だけで、『黒百合』越しに冷たさを感じるほどの冷気。
考えるまでもない。あれは、尋常ならざる者の力によって発生されたものだ。
その発生源へと向けて跳躍しようとしたその瞬間、竜巻から弾き出された物体が飛来し、咄嗟にそれを回避する。
足元にぶつかり、砕け散ったそれは――
「人間!? いや、これは――」
『っ、月の魔獣……!』
元々は人間の体だったのだろう。だが、その体は肌が全て白く染まり、割れた体の内側にはピンク色の触手が詰まっていた。
少なくとも、人間ではありえない。だが、私の知識の中に、このような生物は存在していなかった。
「リリ、これが何なのか知っているのか?」
『……禁獣の一種。とても残忍で狡猾。けど、他の生物に化けるような性質なんてなかったはず……』
「……妙な状況だな。どうしてその禁獣が、あの中から弾き飛ばされてくる?」
体の芯まで凍り付いて砕け散った月の魔獣は、間違いなく絶命していることだろう。
それを成したのは、まず間違いなく、あの冷気を発生させている張本人である筈だ。
と言うことは、あれを起こしている存在は、この禁獣と敵対しているということになるが……果たして、どんな状況なのか。
「とにかく、ギリギリまで接近するぞ」
『……あるじよ、気を抜くでないぞ。あれは、かなり危険じゃ』
「ああ……結界は最大限だ。行くぞ」
禁獣の死体をその場に放置し、私は冷気の渦へと接近する。
耐冷結界を展開した上で『黒百合』の護りもあるため、寒さ自体は何とかなっているが、やはり尋常ではない冷たさだ。
建物の上で発生しているのは、不幸中の幸いだと言えるだろう。
これが人通りの中で発生したら、考えるまでもなく大惨事になっていた筈だ。
『突入する気か、あるじよ? どう見てもお主一人で何とかできる規模ではないぞ』
「だが、このまま放置する訳にも行くまい」
『放置していたら間違いなく拙いことになる。今は――っ、ご主人様!』
リリの鋭い警告。それと共に、冷気の渦は弾けるように霧散していた。
白く漂う霧のような冷気は吹き散らされ――都市部に突如として現れた異界の姿を露わにする。
氷に閉ざされた屋上の中心。そこには、異形の怪物たちの頭部を片手ずつ持ち上げる、一人の青年の姿があった。
「丈、一郎……?」
その姿は紛れもなく、探していた丈一郎のものだった。
だが、彼の傍にウェンディの姿は無く――その上、彼には奇妙な異常が発生していた。
彼の両手足には、蒼白い色をした奇妙な装甲が張り付いていたのだ。
よく見てみれば、装甲の下にある腕や足には深い毛が生えており、その太さも肥大化したかのように太い。
人間と言うよりは、どちらかと言えば類人猿に近いような手足。彼はその腕を用いて、凍り付いた月の魔獣を握り潰していた。
「あれは……まさか、ウェンディ、なのか」
『魔力の形質は同じ、だけど……』
私が呆然と呟いた言葉に、リリは歯切れの悪い様子でそう答える。
私の《掌握》でも、丈一郎の両腕からはウェンディの魔力を検知していた。
異常なのは、その魔力が、丈一郎のそれと完全に交じり合っていることだ。
異なる人間同士の魔力と言うものは、基本的に反発しあうものだ。
魔力の性質を極限まで似せることでそれを克服した水城の一族や、特殊な魔力特性を持つ久我山は例外であるが、基本的にその性質から逃れることはできない。
だが、今の丈一郎の場合、異なる性質の魔力同士が完全に混ざり合っているのだ。
それは、はっきり言って異常としか言いようのない状態だった。
そして、その異常を克服する可能性があるとすれば、一つだけだ。
「……あれが、ウェンディの持つ古代兵装としての能力か」
『氷雪、猿のような手足……まさか、ウェンディゴ……!?』
「……おい、リリ。その名前は、まさか」
聞き覚えのある、その名前。以前先生から学んだことのある、禁獣の一種族。
高き山奥ある特級禁域――禁獄に生息し、氷雪をその身に纏う、猿のような姿の禁獣。
その足は吹雪を踏み、風に乗りて歩む。人間を魂までも凍らせてしまうほどの冷気を纏い、その剛腕で打ち砕く――特級の禁獣。
目撃例は極めて少ないが、禁獄の侵入記録に残されていた記載からは、一級魔導士に相当する魔法使いの中隊をたった一体で壊滅させたとされている。
人の常識では測れない、正真正銘の怪物だ。
その両手足を身に着けた丈一郎は――月の魔獣の頭部を握り砕き、私の方へ蒼く染まった瞳を向けていた。
『――あるじっ!』
「ち……ッ!」
千狐の警告を耳に、私は即座にその場から跳び退る。
そしてその一瞬後、私がいた場所を、冷気を纏う丈一郎の拳が打ち抜いていた。
足元に突き刺さったその一撃は、コンクリートの床をまるで砂糖菓子のように粉砕する。
「ゥゥ……アアアアアアアアアアアアッ!」
私が回避したことが気に入らなかったのか、砕け散るコンクリートの破片の向こう側で、丈一郎が叫び声をあげる。
その声の中には、僅かな理性すらも感じられない。完全なる暴走状態にあった。
「拙いぞ、これは……!」
『あるじよ、先ずは人のいない場所へ!』
「っ……分かった!」
結界、および身体強化をさらに強化し、この場から退却するために走り出す。
丈一郎の放つ強大な魔力は未だ私を捉えている、彼は間違いなくこちらを追って来ることだろう。
ちらりと後方を確認すれば、予想通り彼は空中を自在に駆け巡りながらこちらに迫ってきていた。
速度自体は拮抗しているようだが、機動力は向こうの方が上。いずれ追い付かれてしまうことだろう。
この辺りで夜間人気のない場所と言えば、公園か河川敷――周囲の住宅を考えれば、河川敷の方が安全だ。
そう判断して川の方へと足を向けつつ、私はリリに対して指示を発していた。
「河川敷で戦う! リリ、室長に通信を!」
『ん、了解!』
背中に迫ってくる冷気を感じながら、私は全速力で川へと向かう。
距離はそれほど離れていない筈なのだが、遅々として辿り着けないような錯覚すら覚える。
それほど、背中に迫ってくる怪物の圧が強いのだ。
『――こちら崎守だ! 灯藤、どうなってる!?』
「精霊契約者が古代兵装を装備して暴走! 河川敷で戦闘に入る予定!」
『何だと!? クソ……分かった、こちらからも隊員を回す! 何とか持ち堪えろ!』
返事をしようかと思ったが、背後から打ち出されてきた冷気を纏う拳圧を回避するのに忙しく、対応している余裕が無い。
その間に通信は切れてしまったが、まあ要件は伝えたのだ、問題は無いだろう。
それよりも、今は更なる手を打っておく必要がある。
「リリ、分体越しに初音に通達。状況を伝えて、詩織の魔眼の使用許可を。詩織はあらかじめ待機を!」
『ん……!』
暴走する丈一郎を止める方法があるのか、それを知る最速の手段は、間違いなく詩織の魔眼だ。
今回は市街地における古代兵装の暴走、しかもその標的が私となっている以上、許可が下りる可能性は十分にある。
許可が下りた時のために、詩織には先に見ておいてもらった方がいいだろう。
見ること自体は別に制限されていないのだ。それを他者に伝えるのには許可がいるが、それをいちいち待っていたら時間がかかりすぎる。
――そのために、詩織には新たな装備を提供したのだ。
「さて、後は……こいつを捌き切れるかどうかか!」
河川敷は見えてきている。だが、それよりも先に丈一郎が私に追いつきそうだ。
場所は未だ市街地の上部。ここで戦闘に入れば、大きな被害は免れないだろう。
となれば――
「位置関係は――」
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
「――ここ、かっ!」
跳躍し、河川敷の方角と丈一郎の間に挟まるように位置取りしながら彼の前に出る。
当然、丈一郎は私に対してその鉄槌の如き拳を振るい――私は、後ろに跳躍しながらそれを受け止めていた。
丈一郎の拳は、まるで冗談のように私の結界を打ち抜き、ガードに構えていた腕を打ち据える。
だが、多重に張った結界と、耐冷性能を発揮した『黒百合』のおかげで、ガードを崩されるほどの威力ではない。
私の体はその威力に弾き飛ばされ、河川敷へと一直線に移動させられる。
だが、これでいい。体を捻って何とか着地しつつ、私は崩された結界を再度張り直していた。
「さて、厄介なことになったな……」
精霊魔法で強化された丈一郎の身体能力は強大の一言に尽きる。
その攻撃力がさらにウェンディゴの手足によって強化された上、強烈な冷気を纏うようになっているのだ。
しかも相手を殺さないように戦うとなると、もはや不可能と言う領域に足を踏み入れることになる。
ともあれ、今は時間稼ぎに徹するしかないだろう。
「……リリ、『黒百合・夜叉王』だ」
『てけり・り!』
私の言葉に従い、身に纏う『黒百合』に変化が生じる。
体を覆う黒い装甲そのものが一回り程肥大化し、それらが全て筋肉をかたどった形状に変化する。
否、これは実際に、リリの万能細胞を用いて筋繊維を構成しているのだ。
『黒百合』が外部装甲付きのスーツであるならば、この『黒百合・夜叉王』はパワードアーマーとでも呼ぶべきもの。
この『黒百合・夜叉王』は筋繊維を模しているが故、身体強化の法によって更なる強化を施すことが可能なのだ。
つまり、これはよりパワーに秀でた『黒百合』の形態と言える。
これならば――
「アアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
「おおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
《放身》により、体表面に灼銅の紋様が浮かび上がる。
振り上げたその一撃は、空を駆け抜けてきた丈一郎の拳と打ち合わされ――その余波にて地面を打ち砕きながら、巨大な冷気を迸らせていた。




