137:幼き心
――ウェンディが己自身と言う存在を認識した時、周囲には多くの人間の姿があった。
黒い服を纏い、手に仮面を持った一人の男、そしてそれに向かい合う複数の人間たち。
箱の中から取り出されたウェンディは、有無を言わさず、その人間たちに引き渡されたのだ。
『先の事件は中々楽しかったが、素早く逆転されてしまったからね。君はもう少し面白くなってくれることを期待しよう』
黒い男から告げられた言葉の意味は、ウェンディには理解できなかった。
だが、意味を問いただすことも出来ない。どの角度から見ても顔が隠されてしまうその男は、それだけ告げると早々に立ち去ってしまったのだ。
ウェンディはそのまま男たちに連れられ、彼らの拠点である屋敷まで連れて来られた。
狙いなど容易に分かる。彼らは、ウェンディの持つ力を欲していたのだ。
古に製造された兵器、人を核として形成された術式兵装。その力を使いこなせれば、確かに人間の魔法使いなど歯牙にもかけぬほどの力を得ることが出来るだろう。
だが――それは、使いこなせればの話だ。
(……だめだ)
集う人間たちを眺め、ウェンディは胸中でそう呟く。
彼らに、この力を使うことはできない。
ウェンディの力は、使い手の肉体に強大な負荷がかかる。ロクに鍛えられてもいない人間では、一分と持たずに体がバラバラになってしまうことだろう。
そしてそれ以上に、ウェンディの精神と接続されることによる意識の乖離を御しきれない。
二つの意識が交われば、強大な力を得た肉体は意思の制御を離れ、無作為に暴れまわることになるだろう。
そうなれば、周囲に待っているのは惨劇だけだ。
だからこそ、ウェンディは絶対に、彼らに対して力を使おうとはしなかった。
使えば、全てが壊れてしまう。たとえ異形の力を有していようとも、ウェンディは人間の心を持っている。
心優しい彼女は、見ず知らずの相手であろうと、人間が壊れることを望んではいなかった。
そうするうちに、彼女の力を引き出せなかった人間たちは、業を煮やして彼女を牢へと放り込んだ。
――その先で出会ったのが、ジョウと名乗る一人の少年だった。
『ウェンディ、ここを一緒に出るか?』
暗闇の中に在って、輝くような瞳を失わない人。彼の告げた、力強い言葉。
ウェンディは、彼の姿を、もっと見ていたいと願ったのだ。
世界を認識してからこれまで、何かに惹かれるということは一切なかった。
あらゆるものに微塵も興味を抱かず、そのまま朽ち果てることすら構わないと断じていた意識が、初めて興味を抱いた相手。
――彼に手を引かれて飛び出した世界は、不思議と輝いて見えていた。
けれど、ウェンディを連れ出された比嘉家の人間たちも黙ってはいなかった。
すぐに追手がかかり、二人は逃亡生活を余儀なくされたのだ。
二人は追っ手を撃退しながらも逃げ続け――その先で、一人の老婆に出会った。
『また妙な組み合わせだが……仕方ない。うちに来るんだね、小僧共』
水鏡松月と名乗る、老いた魔法使い。
追っ手と勘違いして襲い掛かり、あっという間に返り討ちにされたものの、二人は安全な拠点を手に入れることが出来た。
考えもしなかった、穏やかな日々。
荒々しくも優しい少年と、ぶっきらぼうではあるが慈悲深い老婆。
過去の記憶が無いウェンディにとって、その穏やかな日々は、何よりも大切な宝物であると言えた。
けれど――
* * * * *
「はぁっ、はぁっ……こっちだ!」
「ん……っ!」
ウェンディの手を引き、丈一郎は街中を走り抜けていた。
悔しい思いを抱きながらも、足を止める訳にはいかない。
まずは、この追っ手を振り切らなければならないのだから。
(比嘉の連中、どうやってあの婆さんの結界を……!)
これまで、干渉するどころか通り抜けることも出来なかった結界。
比嘉家の者たちが、いかにしてそれを破ったのかは、丈一郎には想像することも出来なかった。
一つだけ言えるのは、彼らがこれまでとは比べ物にならないほどに力をつけているということ。
精霊魔法で強化した丈一郎が降り切れないほど、追っ手の魔法使いたちは高い実力を有していたのだ。
「どうなってやがる、クソがッ!」
毒づきながら跳躍し、壁を蹴って建物の上へと登る。
比嘉家の魔法使いたちは確かに優秀で、高い実力を有していた。
彼らも、古くからある魔法使いの大家なのだ。四大の一族には及ばずとも、十分すぎるレベルの魔法使いであると言える。
だがそれでも、彼らは展開式や刻印式に特化した、どちらかと言えば拠点防衛を得意とする魔法使いなのだ。
とてもではないが、接近戦型の精霊と契約している丈一郎と正面から戦えるような存在ではない。
丈一郎がウェンディを抱えて本気で走れば、あっという間に振り切れる程度の相手だったはずなのだ。
しかし――
「ジョウ、後ろ……!」
「まだ来てやがるか!」
壁を走るように屋上まで駆け上ったにもかかわらず、彼らは同じような方法で丈一郎に追いすがる。
ウェンディを背中に乗せ、さらに加速しながら隣のビルへと向けて跳躍し――目の前に、輝く魔法陣が展開されていた。
丈一郎には瞬時に術式を読み取れるような技能は無い。
だが、直感的に危険なものであると判断し――けれど、それに対する対抗策を取る暇もないまま、丈一郎は瞬時に覚悟と拳を固めていた。
「おおおおおおッ!」
魔力を込め、精霊魔法による強化を限界まで引き上げ、丈一郎は拳を振るう。
空を裂くその一撃は、空間を丸ごと打ち砕かんとするような衝撃と共に魔法陣へと叩き付けられ――強烈な衝撃が、魔法陣から迸っていた。
「が……ッ!? お、あああああああああッ!!」
皮膚が裂け、血が吹き出る。
けれど、丈一郎は構うことなく、さらに拳を強引に突き込んでいた。
拳と魔法陣は僅かに拮抗し――その均衡を、丈一郎は強引に力ずくで打ち破る。
不可に耐え切れず崩壊した魔法陣は、小さな光の欠片となって砕け散り、丈一郎はその先の屋上へと着地していた。
「ぐ、ぅ……」
「ジョウ……!」
「だい、じょうぶだ……くっ!」
夥しい血が流れ落ちる腕を抱える暇もなく、丈一郎は左手だけでウェンディを支えながら足を進めようとする。
だが、その足はすぐに止まることとなる。何故なら、進もうとしたその先に、既に幾人もの人影が存在していたためだ。
丈一郎は忌々しげに彼らを睨み据え、ウェンディを背後に庇う。
そしてふと――彼らの後ろに、一人見覚えのない人物がいることに気が付いた。
黒い服を纏い、不気味な白い仮面を手に持つ人物。顔に装着することもなく、手に持った仮面で顔を隠すその人物は、足を止めた丈一郎の姿を確認して声を上げる。
「いやはや……つまらない展開にされてしまうかと思いきや、ここに来て予想以上の巻き返しだ。思わぬ収穫、と言うやつかな?」
「……誰だ、テメェ。比嘉の人間じゃねぇな?」
「いかにも。まあ、僕は善意の協力者と言うやつさ」
善意と言う言葉がこれほど似合わぬ相手もいないだろうと、丈一郎は胸中で吐き捨てる。
それほどまでに、その男からは悪意と不気味さがにじみ出ていたのだ。
だがどちらにしろ、彼が比嘉家の側についている以上、敵以外の何者でもない。
ウェンディを背中に庇ったまま左の拳を構え、丈一郎は彼らを強く睨みつけていた。
しかし対する男は、その様子に対して大仰に手を振りながら、非常に楽しそうな声を発する。
「これだから人生と言うものは面白い。僕が手を下さなかったにもかかわらず、こうも数奇な出会いを演出してくれるのだから! 君も気に入ったのではないかな、風の眷属よ」
「ああ? 何言ってやがんだよテメェは!?」
「無論、君が背後に庇っている相手に対してだとも。それを連れて来たのは僕だからねぇ」
その言葉に丈一郎は息を飲み――湧き上がる怒りに、歯を食いしばっていた。
今の言葉が事実であるとするならば――
「テメェが……全部、テメェの仕業って事かッ! ウェンディがこんな目に遭ってるのも、俺たちを追い立てたのも、テメェがッ!」
「いささか短絡的な決めつけだが、間違いではない。事実であると認めよう――その古代兵装を取り巻く現状は、全てこの僕の演出だ」
気が狂いそうになるほどの怒りに、しかし丈一郎はその場に立ち尽くしていた。
もしも、この場にいるのが己一人であったならば、一も二もなく飛び出していたことだろう。
だが、今背後にはウェンディがいる。彼女を一人置いて、怨敵に飛び掛かる訳にはいかない。
そんな丈一郎の姿に、男は満足そうな様子で声を上げる。
「さて、それでは仕上げと行こう。君はどのような選択をするのか、見せておくれ」
そう告げて、男は仮面を持っていない方の手を掲げる。
瞬間、その合図を待っていたかと言うように、立っていた比嘉家の魔法使いたちがゆっくりと前に進み出ていた。
その姿に、丈一郎は獰猛な笑みを浮かべる。
「はっ、舐めんじゃねぇぞ……刻印で仕掛けをしてるならまだしも、敵の前に姿をさらした比嘉の魔法使いなんぞ――」
相手にならない。己にはそれだけの力がある。丈一郎には、その自負があった。
けれど、その言葉は尻すぼみに宙に溶ける。
何故なら――月の光に照らされた彼らの姿が、異形としか表現できないものへと変貌していたからだ。
肌は真っ白に染まり、肥大した腹部が窮屈そうに服を押し上げている。
何よりもおぞましいのは、その眼孔や口から、何本もの触手が生えていることだ。
人間にはあり得ないその姿に、丈一郎は知らず知らずのうちに一歩後ずさっていた。
その背中に押されたウェンディは、彼らの姿を見つめ、僅かに震えながら声を上げる。
「月の魔獣……」
「ウェンディ? あれを知ってるのか?」
「ダメ、逃げないと……あれは、倒せない……!」
酷く怯えるウェンディの様子に舌打ちしつつ、丈一郎は逃げ道を探る。
だが、先ほど飛び移ってきた建物の上には、同じように月の魔獣の姿があった。
異形と化した人間に囲まれたこの状況。逃げ道はどこにもなく、徐々に包囲を縮められている。
輪を狭めている異形たちの手には、それぞれ白い槍のようなものが握られていた。
「抵抗しないことをお勧めする。そうすれば、苦痛もなく終わるだろう」
「テメェ……ッ!」
異形たちは一定の距離で立ち止まり、揃ってその槍を構える。
その姿勢は、明らかに槍を投擲する姿勢。放たれれば、全方位からの一斉射撃となるだろう。
己一人ならば避け切れる自信はある。だが、ウェンディがいる以上、彼女を護らなければならない。
異形たちの槍を持つ手は大きく引き絞られ――
「ッ、クソがぁッ!!」
「ジョウっ!?」
対処しきれないと判断し、丈一郎は咄嗟に、ウェンディを抱きしめる形で押し倒していた。
その体勢のまま、精霊魔法を使って身体強度を限界まで強化する。この状態であれば、己を貫通してウェンディに槍が刺さることは無いだろう、と。
丈一郎が下した決死の判断に――男は、笑みと共に告げていた。
「――さあ、選び給え」
――それと共に、槍が一斉に投げ放たれる。
刹那に飛来する白い槍。夜空に描かれる流星のように、白い軌跡を残しながら飛来するそれは、瞬く間に丈一郎へと殺到し――
「だめええええええええええええッ!!」
刹那――冷気を纏う暴風が、建物屋上と、その場を飛び交う白い槍を蹂躙していた。
渦を巻く蒼白い旋風、輝くような冷気を纏うそれは、氷の飛礫を纏って荒れ狂う。
その氷によって弾き飛ばされた槍は風に巻き上げられ、地面に次々と突き刺さる。
その中心に立つのは、一人の青年の姿。
「ふむ、いい選択だ。感謝しよう、これで面白くなる。僕は君の誕生を祝福しよう――『イタクァ・ザ・ウェンディゴ』」
従えていた魔獣たちを吹き飛ばされ、それでも仮面の男は楽しげに嗤う。
氷の嵐の中心にある、蒼白い手甲と足甲を纏った丈一郎の姿を見つめながら。
「さあ、これで舞台は整った。君はどう踊ってくれるんだい、灯藤仁?」
――ここではないどこかを見据え、そう呟いていた。




