125:第二の始まり
第7章 蒼風の騎乗士
格子の付いた窓、その隙間から夜空に浮かぶ月を眺める。
部屋の中を照らすのは、その僅かな月明かりのみ。暗闇に近い部屋の中、一人の少年が、無言で月を見上げていた。
茶髪に染められ、無造作に切られた髪。擦り切れたジーンズとジャケットを身に纏い、彼は一人空虚な時間を過ごしていた。
と――ただ月だけを見つめていた少年の視線が、ふと横に動く。
その先にあるのは、木製の格子。座敷牢の様相を呈しているこの部屋の外側から、話し声が響いて来ていたのだ。
「クソっ、苦労して手に入れてきたっていうのに……」
「お、おい、ここに入れといて大丈夫なのか?」
「他に隠しておける場所もないだろ!」
近づいてくる気配に、しかし少年は部屋の隅から動くことなく、正線だけで相手の動きを観察する。
格子の向こう側、その先から現れたのは二人の男――そして、その二人に連れられた一人の少女だった。
握られた手首を引かれるままに歩む少女は、そのまま何ら抵抗することもなく、座敷牢の中に放り込まれる。
勢いでバランスを崩した少女は床に座り込んでしまったが、それに対して抗議の声を上げるようなことは無かった。
それが尚更に不気味だったのか、彼女を連れてきた男は、若干裏返り気味な声を上げる。
「おい、ここで大人しくしていろ! 勝手な行動をするんじゃないぞ! それからお前も、余計な真似はするなよ!」
最後の言葉は少年へと吐き捨て、男はもう一人の男を連れ立って部屋を去ってゆく。
残されたのは、座敷牢の中に閉じ込められた二人の姿だけだった。
少年は、しばし無言で少女の姿を観察していたが――彼女が全く動かないことに眉根を寄せていた。
「おい、お前。一体何してこんなところまで連れて来られたんだ?」
少年の言葉に、少女はゆっくりと顔を上げる。
――そして少年は、彼女の容姿に思わず息を飲んでいた。
人間の物とは思えぬほどに整った顔立ち、肩にかかる程度の、異様な魔力に染まった薄い蒼の髪。
その中で、碧玉の瞳は、まるでそれ自体が魔力を帯びているかのように淡い光を放っていた。
そして何よりも――前腕とふくらはぎから先が漆黒に染まり、奇妙な紋様に浮かび上がっているその姿が、何よりも彼女の異常を際立たせていた。
「お前、お前は……誰だ?」
彼女の姿に見覚えが無いというのもあるが、何よりもその人間離れした容姿に驚愕し、少年は壁際から立ち上がる。
しかし、少女はそれに対して反応らしい反応を見せることは無かった。
ただ小さく小首を傾げるだけで、唐突な動きを見せた少年を警戒する様子もない。
埒が明かないと嘆息して頭を掻いた少年は、そのまま遠慮なく彼女へと接近していた。
動きを見せない彼女の傍に跪き、床についていた彼女の手を持ち上げる。
「こいつは何だ……手袋じゃないんだよな」
「ん……」
直接触れた手の感触は、やはり普通の肌と変わるものではない。
ただ、その手の甲に刻まれた奇妙な紋様だけは、若干硬い手触りを残していた。
だがどちらにしろ、これが上から被せたものではなく、彼女の肌そのものであるということだけは間違いない。
そしてだからこそ、彼女の得体の知れなさに、少年は困惑を隠せずにいたのだ。
(だが……)
それでも、目の前でじっと己を見つめてくるこの少女が、警戒に値する存在には思えないと少年は感じていた。
害意などまるでなく、外界から与えられる刺激に対してわずかながらの反応を返しているだけ。
まるで赤ん坊のような反応に、抱いていた警戒心を大幅に削ぎ落とされながら、少年は彼女に対して問いかけていた。
「お前、名前は?」
「名前……」
「そう、名前だよ。お前、何て呼ばれてるんだ?」
「わたし……『ウェンディ』」
「ウェンディ、ね。俺は丈一郎だ」
彼女が日本語を話せたことに安心しながら、少年――丈一郎はウェンディに対してそう返す。
だが、ウェンディは若干困ったようにもごもごと口を動かしていた。
「じょう、いち……ろー?」
「あー、そうだな。呼ぶのが難しいんだったら、ジョウとでも呼んでくれ」
「じょう……ジョウ。あなたは、ジョウ」
「ああ、そうだ。よろしくな、ウェンディ」
ウェンディが名前を呼んでくれたことに僅かながらの達成感を覚え、丈一郎は彼女の手を握りながらそう返す。
その言葉に、ウェンディは僅かにだが、その口元を綻ばせていた。
ようやく見えた少女らしい姿に、丈一郎もまた相好を崩す。
だが、そこで今一度状況を思い出し、丈一郎は再び眉根を寄せていた。
「それで、ウェンディ。お前、どうしてこんな所にいるんだ? お前、ここの一族の人間じゃないだろう?」
「……わかんない。気づいたら、このおうちにいたの」
「誘拐か……? チッ、堕ちるところまで堕ちやがって、クソ共が」
小さくこの家の一族を罵倒しながら、丈一郎は顔を顰める。
丈一郎は確かにこの家の一族を嫌っている。己をこんな座敷牢に閉じ込めている人間たちを好きになれる筈がない。
だがそれでも、これほどあからさまな犯罪行為を行うとは考えていなかった。
それだけの価値がこの少女にあるのかと、丈一郎は眉根を寄せて――ふと、口元に笑みを浮かべる。
「なあウェンディ、お前、ここに来る前はどうしていたんだ?」
「わかんない、覚えてない。ずっと、眠ってたような、そんな感じ……」
「ってことは、ここから出ても帰る場所は分からないのか……流石に、無理やり記憶を奪ったってことは……できないとは思うんだがな……」
手口については分からないが、何にしろ、帰る場所のない少女を攫ってくる理由がこの家の一族にはあったのだろう。
そう判断して、丈一郎はウェンディの手を取って立ち上がっていた。
手を引かれるままにウェンディも立ち上がり、急に動いた丈一郎に対して疑問符を浮かべた視線を向ける。
そんな彼女に、丈一郎はにやりと笑みを浮かべて告げていた。
「ウェンディ、ここを一緒に出るか?」
「ジョウ……?」
「この家のクソ野郎どもにはほとほと嫌気が差した。これ以上付き合ってやる義理もねぇ。そろそろ出て行ってやろうかと思ってたが……一人ってのもつまらねぇしな。一緒に遊ぼうぜ」
「ジョウと、一緒に?」
「ああそうだ。どうする、ウェンディ。お前がここから出たいっていうんなら、俺は喜んで手を貸すぜ?」
笑みを浮かべた丈一郎の問いに、ウェンディは薄暗い部屋をぐるりと見渡す。
何もない、ただ狭い部屋。ここに来るまでの記憶が無く、ここがどこなのかも理解できていない彼女であったが、それでもこの場所にいつまでもいたくないという思いは抱いていた。
そして――今手を握ってくれている彼ならば、信頼できるのではないかという確信も。
故に、ウェンディは――
「……うん。わたし、あなたと一緒に行きたい」
「決まりだな」
丈一郎はにやりと不敵に笑う。 これからは、多少は退屈しなさそうだという確信を抱きながら。
そしてその日、手を取った二人は――夜が明けるその前に、座敷牢から姿を消していた。
* * * * *
「はぁ……ようやく終わったか。お疲れ様だったな、詩織」
「うー……」
自宅へと戻り、リビングのソファに腰かけた私は、反対側のソファにぐったりと身を沈める詩織にそう声を掛けていた。
彼女が疲労困憊であることも無理はない。何故なら先ほど、火之崎と水城共同の会談に出席していたからだ。
集まったのは何と、現当主夫妻と前当主、そしてその護衛たち。
文字通り、四大の一族二家分のトップが集合していたのだ。
そのような環境など、私ですら緊張を余儀なくされる。ましてやほぼ一般人に近い詩織では、それもひとしおだろう。
何しろ、詩織は始まって数分で、青白い顔色のまま質問に対して『はい』と答えるだけの機械と化していたほどだ。
まあ、母上や水城久音はその様子に苦笑していたようだったが。
「いろいろと衝撃的な会談だったけど、何とか落ち着いてよかったね……」
「全くだ……父上も、幾ら水城を前にしているからといって、あそこまで気を引き締めなくてもいいだろうに……」
「その視線に晒されてたお父様がちょっと可哀想だったよ」
「まあ、あの中で平然としてたのは水城の前当主様ぐらいだったわねぇ……しっかし、まさか本当にここまでやって来るとは」
しみじみ呟く私たちに同意したのは、詩織に付き添ってやってきた舞佳さんだった。
流石の舞佳さんもあの環境は緊張したのか、襟元を緩めて深くソファに身を沈めている。
私としても勘弁して欲しかったのだが、会談場所は何とこの灯藤家だったのだ。
まあ、灯藤家は確かに火之崎と水城に跨る家であり、リリによる情報の封鎖も含めて、ここが最も適していたことは間違いないのだが――ほぼまともな人員もいない状況で歓待せざるを得なくなった、こちらの苦労も考えて欲しかったものだ。
結局、多数に分裂したリリの尽力によって、お歴々の対処もどうにかこなすことが出来た訳だが、せめてもう少し余裕を持って欲しかった。
……まあ、それだけ詩織のことが緊急の案件として判断されたということなのだろうが。
「ま、条件についてはあたしもおおよそ満足できる結果だったわ。改めて……ありがとう、灯藤君。おかげで、詩織の立場はかなり安定したわ」
「礼には及びません。それに、結局四大に取り込むことになってしまったのは事実ですから」
詩織の身柄は、私の睨んだ通り、灯藤家の預かりとなることで確定した。
と言うより、他の家で預かろうとした場合、火之崎と水城の全面戦争になりかねないのだ。
詩織の頭の中には、今それほどの情報が眠ってしまっているという事になるのである。
だからこそ、今回の協定が必要になるのだ。
まず第一に、詩織の魔眼は封じることのできないものだ。
何しろ、意図的に発動しようとせずとも、一目見るだけでその効力が発揮されてしまう。
どのような術式であれ、瞬時にその性質を細部まで理解してしまうのだ。
封じることは出来ず、理解できてしまった術理を忘れさせることは彼女にとって悪影響を及ぼしかねない。
その悪影響を恐れる程度には、彼女の魔眼は貴重な存在なのだ。故にこそ、それを有効活用しようという流れになることは当たり前とも言えた。
少なくとも、私が口を挟むこともなく、その流れに入っていたのは確かだ。
「まあ、今回のメイン参加者全員の許可を得られた時のみ、術式の聞き取りを許可するって条件は安心したわ。あのお歴々がそろって許可することは滅多になさそうだし」
「あったら相当まずい状態でしょうけどね」
「そりゃあそうだけど、常日頃からヤバいものを見せられそうな魔法院よりはマシよ。四大だったら、大体の場合はそんな回りくどい真似をせずに自力で何とかするでしょうし」
それに関しては否定できず、私は無言で肩を竦める。
詩織の魔眼の使用許可は、かなり面倒な手続きを踏む必要がある。
そんなことをしている暇があれば正面からとっとと叩き潰すというのが火之崎のやり方だ。
まあ、燈明寺という一部不安のある分家もいるのだが。
とはいえ、抜け道が無いわけではない。
「不安があると言えば、緊急時の措置ですが……」
「それはあたしも思ったけど、あれは無いと逆に困りそうでしょ」
「まあ、私としても切り札として考えていた部分はありますが」
その条件に加えて、緊急時――つまり、詩織の生命が危ぶまれる状況下においては、それを脱する手段として術式の聞き取りが許可されることとなった。
簡単に言えば、詩織個人、あるいは灯藤家全体が狙われる状況となった場合に術式の聞き取りが許可される。
先日の活躍から、久我山とコンビを組んででの運用に可能性を見出していたため、この条件はありがたいと言えばありがたいのだが……それでも、抜け道があることの不安は残る。
「それに関しちゃ、あたしも気にはしてるけど……貴方たちって、他の分家もおいそれと手を出せない存在でしょう? 気を抜いていいとは言わないけど、気にしすぎる必要は無いと思うわ」
「……楽観的ですね、舞佳さん」
「っていうより、あなたが悲観的なんだと思うけど。ま、詩織の上司が慎重な人だっていう風に考えとくわ」
僅かな警戒は残し、しかしいつも通りの笑みを浮かべる舞佳さんに、私は軽く肩を竦める。
まあ、舞佳さんの言うことも紛れもない事実だ。いざという時に護り切れるよう、保険をかけておくことにしよう。
そう決意したところで、ぐったりと天井を眺めていた詩織が、ようやくその視線を降ろしていた。
「……あの、仁くん」
「ああ、どうかしたか、詩織?」
ちなみにではあるが、今回灯藤家に所属するにあたり、詩織は私に対する敬語と苗字呼びをやめていた。
一族に入るのに、いつまでも他人行儀な呼び方はおかしいから、ということらしい。
初音もいずれ同じ苗字になるのだから、という発言に対する初音の反応については、まあ割愛しておくこととしよう。
「えっと、その……色々とお世話になりました。ありがとうね、仁くん」
「礼には及ばない、と言いたいところだが……お前の場合は納得しないだろうからな。礼は素直に受け取っておこう」
「あはは……うん。じゃあ、これからよろしくね。四大の一族として、っていうのはまだまだ分からないけど……私、頑張るから」
「ああ、期待している。だが、慣れるまではほどほどにな」
「うん。雪斗君と、一緒に勉強しておくから」
ちなみに、私が名前呼びになるのと同時に、久我山についても名前呼びとなっていた。
その時の久我山の表情は――まあ、中々に見物だったと言えるだろう。
当時の様子を思い出し、私は笑みを噛み殺しながらも、詩織の言葉に頷いていた。




