120:異形の果て
床も、壁も、天井も、全てが赤黒い肉塊に包まれた部屋。
この世の物とは思えぬような、凄惨で悍ましいその光景に、私は吐き気を覚えて顔を顰めていた。
これは間違いなく、あのブレスレットによるものだ。
だが、これまでに見た変異体とは異なり、その規模も大きさも段違いとなってしまっている。
それだけで、目の前にいる存在が、これまで相対してきた魔法使いたちとは異なる存在であることが窺えた。
『――き、たか』
「っ!?」
酷くくぐもった、聞き取りづらい声。
まるで反響しているかのような声であったが、それがどこから発せられているのかはすぐに理解できた。
私は視線を細め、正面の壁――そこに張り付いている、一際大きな肉塊へと視線を向ける。
目を凝らしてよく見れば、そこには確かに、人間の顔を形作るかのような穴が開いていた。
眼球もない眼窩と、僅かながらに蠢く口。辛うじて顔であると思わせるようなその穴は、声に合わせて確かに蠢いていたのだ。
『魔法院、の者、か』
「……その状態で尚、意識を保っているのか」
これまでの変異体とは異なる、自意識を保った存在。
彼が何者であるのかは想像に難くはないが、確認のために私は彼へと問いかけていた。
「仙道家の当主とお見受けするが、間違いはないか」
『いか、にも……私は、仙道家、当主……仙道、啓麻、だ』
一応、ここに来るにあたり、当主の情報についてはあらかじめ頭に入れていた。
仙道啓麻。彼はまだ代の浅い新興の魔法使い一族である仙道家を、大きく発展させた才人である。
魔法使いとしての技量も高いが、何よりも彼は野心家でありながらカリスマ性にも優れていたのだ。
人々を惹きつけ、集め、それらを率いて仙道家を四大に準ずる規模にまで押し上げた。
その手腕のみを見れば、四大の一族の中にも並ぶ人間はそうそう居ないだろう。
だが――
「魔法院の名により、強奪された古代兵装の回収を行う。大人しく明け渡せ、と言いたいところだが――」
『この、身では……それ、も叶わん、な』
ひゅう、と小さく空気が鳴る。
それは恐らく、仙道啓麻の発した自嘲の声だったのだろう。
彼には、人の形など全くと言っていいほど残っていない。
辛うじて、顔に見えなくもない瘤が浮かび上がっているだけだ。
その状態では、道具を受け渡すことなどできはしないだろう。
そもそも、どこに装備しているのかも全く分からない状況だ。
彼はこちらには全く敵意を見せることもなく、私は半ば拍子抜けした思いを抱きながらも、どう対処したものかと頭を悩ませていた。
と――そこに、再び仙道啓麻の声が響いていた。
『古代兵、装、か……ああ、私、が……愚か、だった』
「……貴方は、どうやってそれを手に入れた?」
『私の、腹心が……持ち込ん、だもの……だ。強力な、術式兵装だ、と……』
確かに、強力な術式兵装ではあるだろう。
だが、その効果はあまりにも強大すぎる。
彼ほどの魔法使いであれば、その異常に気づいてもおかしくない筈だ。
「そんなうまい話があるはずがないと、貴方なら分かるはずだ。何故そんなものに手を出した?」
『初め、は……それほど、強力、では……なかった、のだ』
「……魔力が集まるにつれて、効果が増大したのか」
『気づいた、とき、には……手遅れ、だっ……た。我が、仙道家、は……汚染、され、た』
この古代兵装は魔力を溜め込むという性質を持っている。
その性質上、魔力が蓄積していない段階では、それほど高い効果を得られなかったのだろう。
そして、それが逆に仇となった。仙道啓麻が異常に気付いた時には、既に精神汚染が進んでしまっていたのだ。
彼が正気を保っているのは、彼の持つものが親機にあたるためか、あるいは彼自身の精神力によるものか。
何にせよ――彼の言葉が事実であるならば、この状況は彼の意図するところではないということだ。
それに関しては同情するが、しかし現状を放置することもできない。
「それを持ち込んだという腹心は?」
『分から、ん……既、に異形と……なり、果てたか、或いは……』
その人物がこの古代兵装をどこから手に入れてきたのかを知りたかったが、現状ではその居場所を聞き出せそうにない。
しかし何にせよ、彼から兵装を確保しなければならないのだ。
このまま放置していても、何も良いことは無いだろう。
「何にせよ、この状態を看過することは出来ない。古代兵装はどこにある?」
『私の……体内、だ』
「っ! しかし、それでは――」
『構、わん……だが……この、体、は……既に、私の制御、から……外れて、いる。奪おう、とすれ、ば……体は、自動、的に迎撃する、だろう』
「……貴方は、それでいいのか?」
正気を保った貴重な証人ということもあり、彼のことは出来れば確保したかった。
だが、この状況ではそれも難しいのは確かだろう。
彼の肉体はすでに変異しきっており、それを元に戻すことは不可能だ。
他の変異者と同じように、とどめを刺すことに躊躇いはない。
だが――彼だけは、変異しながらも自意識を保っている。その意思を無視することはしたくなかった。
しかし彼は、私の言葉に苦笑するかのような様子を見せていた。
『我が、一族、は……これ、で終わり、だ……だが、四大に、討たれ、るならば……それほど、の、敵と認め、られた、ならば……それも、いいだろう』
「……分かった」
その言葉に敬意を表し、私は拳を構える。
相手は、どれほどの魔力を持つかも分からないような怪物だ。
油断すれば、敗北するのはこちらになってしまうだろう。
「火之崎が分家、灯藤家が当主――灯藤仁。火之崎の名の下に、貴方を討とう」
『お、おお……っ!』
感動か、戦慄か、仙道啓麻は慄くような声を零す。
そしてそれと同時――この部屋全体から、膨大な密度の魔力が噴出していた。
飲まれればこちらの魔法が使えなくなってしまう程の、即ち《纏魔》にも近いような魔力密度。
尤も、魔力を循環させているわけではないため、これを《纏魔》と呼ぶことは出来ないだろうが――
(魔力量だけなら、父上すらも超えているか……!)
あの、実力の果てが見えぬ父上の領域すらも超える魔力量。
当然ながら、私では足元にも呼ばぬほど。あの凛ですら、魔力量では負けているだろう。
まともにぶつかれば敗北するのはこちらだと理解し、気を引き締める。
――瞬間、《掌握》がこちらへと向けられた術式を感知していた。
「――――ッ!?」
全力での回避行動。背後の扉を蹴破り、室内から全力で退避する。
瞬間――荒れ狂う暴風が、一瞬前までいた部屋を丸ごと飲み込み、天井ごと吹き飛ばしていた。
否、私が逃げた先である廊下までも巻き込み、内側から膨れ上がるかのように爆散させる。
その巨大な暴風に飲み込まれそうになりつつも、私は辛うじて瓦礫と共に屋敷の外へと退避していた。
「何だ、今のは……!?」
詠唱は無かった。完全なる無詠唱で、術式の規模は確実に三級以上。
それは最早、父上ですら使えるかどうかわからないほどの超高難易度の術式構築だ。
その上、更に膨大な魔力によって威力が増強されているとなれば、まともに受ければひとたまりないだろう。
全力で防御すればまだ何とかなるが、それではじり貧だ。
崩れかけた屋根の上に着地し、眼下で蠢く肉塊を見つめながらも、私は戦慄を隠せずにいた。
『見た目以上の怪物じゃな。さて、どうする、あるじよ?』
「……あの規模で暴れられるのは流石に拙いな」
仙道家の屋敷が立っているのは住宅街の中だ。
幸い、広い敷地の中央部であるため、今のところ外まで魔法が届いている様子はないが……あの規模の魔法を下手に放てば、住宅街にまで被害が及ぶ可能性がある。
屋敷の周囲に張り巡らされている結界も、度重なる攻撃を受ければ破られてしまうだろう。
「出来れば手の内を探った上で戦いたかったが……仕方ないか」
被害を出さぬようにするためには、早急に蹴りをつける必要がある。
しかしながら、生半可な攻撃では、彼を倒すことは不可能だろう。
私の普段の攻撃能力は、自分で言うのもなんだがそれほど高くはない。
こういう時に攻めあぐねてしまうのは、私の弱点の一つだろう。
「……リリ、解析を頼む。彼の持つ古代兵装の位置を割り出したい」
『わかった。ご主人様は?』
「頃合いを見て、切り札を使う。無闇に使っても無駄に消耗するだけだ」
もしも切り札を――《王権》を使わないのであれば、全力を賭した捨て身の一撃でようやく通用するかどうかというレベルだ。
市街への被害がかかっているこの現状、そのような博打を打つ訳にもいかない。
やるならば、全力で叩き潰さなければならないだろう。
『妾たちはどうする?』
「《掌握》は攻撃の予兆察知に割かないと拙いだろう――こんな風にな!」
不規則に蠢く触手、そのうちの一本が、私の方へと先端を向ける。
紡がれる術式と、収束する魔力。それを一瞬前に察知した私は、即座に回避行動を取っていた。
そして次の瞬間――目を灼くような閃光が、光の砲撃が放たれていた。
空の彼方までもを貫く巨大な光芒に、私は思わず頬が引きつるのを感じる。
改めて見ても、無詠唱とは思えない威力だ。しかもその展開速度も速く、術式を感知してからでは防御魔法の詠唱も間に合わないだろう。
『呆けるな、あるじよ! 続けてくるぞ!』
「ッ、冗談じゃない!」
蠢く触手が二つ数を増やす。
一つは鋭い風の刃を、もう一つは爆裂する巨大な火球を。
二つの魔法を同時に展開し、私へと向けて放っていたのだ。
(複数の魔法を並行して詠唱するだと!? 無茶苦茶なのも大概にしろ!)
内心で悲鳴を上げながら、私は『黒百合』に刻印された術式を起動する。
効果は足元に一瞬だけ足場を構築するという単純なもので、これを用いれば空中を駆け回ることも可能だった。
というより、これが無ければ避け切れる気がしない。
私は空中へと飛び出しながら、飛来する魔法を回避しつつ相手の様子を観察していた。
無詠唱で放たれる魔法は三級の魔法。威力に関してはかなり強化されているが、付加されている術式はごく普通の物だ。
そして、上手く喋れないせいなのか、圧縮詠唱を使う様子はない。
これで二級の魔法を圧縮詠唱などされたら手が付けられなくなるため、それに関しては不幸中の幸いだと言える。
その代わり、複数の魔法を同時並行で展開することが可能であり、たった一体で波状攻撃を実現している。
正直なところ、厄介と言う他ない性質だった。
『避けるだけならまだ何とかなっておるが、どうするつもりだ? ジリ貧でしかないぞ、あるじ』
「言われずとも分かってる」
思わず舌打ちしながら、私は相手の観察を続ける。
この波状攻撃が続いては、《王権》を発動するタイミングを見ることも難しい。
悔しいが、私一人で対処することは難しいだろう。
――だが。
「凄い音がしたから急いできたけど、またけったいなことになってるわね」
場にそぐわぬ暢気な声が響くと共に、黒い影が走る。
携えられた二振りの刃は魔力を帯びて鋭く輝き――空間を裂くかのような銀光の一閃と共に、伸びていた触手が一気に斬り払われていた。
その先で、屋敷の屋根の上に着地したのは、刃を構えて鋭い眼光を向ける一人の女性。
彼女に向け、私は笑みと共に声をかけていた。
「少し手古摺りましたか、舞佳さん?」
「急いで来てあげたんだから、感謝しなさいよー?」
「ええ、それはもう。さて……」
一人では正直かなり厳しかったが、彼女がいればいくらでも方法はある。
体勢を立て直し、再び触手を生やし始めている相手を見下ろして、私は小さく笑みを浮かべながら宣言していた。
「――大詰めと参りましょうか」




