012:僅かな異変
「ねえ、仁。どうして、今日はあんまりれんしゅうしなかったの?」
「練習はしていただろう? お前も、いつも通り頑張っていたさ」
「んー……でも、魔力を使ったれんしゅう、あんまりやらなかったよね」
隣を歩く初音の言葉に、私は思わず胸中で苦笑を零していた。
全く持って正解だ。子供の直感というものは、なかなかに侮りがたい。
頭の凝り固まった老人に比べれば遥かに柔軟な発想が飛び出してくるし、時にはそれが有用な意見になることもある。
事実、初音の問いは、紛れも無くその通りであったのだから。
しかし――生憎と、それに対する答えは私も持ち合わせていなかった。
「ああ、そうだな……まあ、あまりはっきりした理由があるわけではないんだ」
「そうなの?」
「精々、母上たちが来るまでに、疲れきらないようにしようという程度だ。余り気にしなくてもいい」
「そっか、仁がそういうなら」
私の言葉を素直に聞き入れる初音の様子に笑みを零しつつ、私は初音と共に自室へと歩いていく。
少々、私の言葉を鵜呑みにしすぎであるとは思う。
今の所彼女の親族の姿を見かけたことはないし、何かと都合がある様子ではあるが、このまま彼女を一人にして、私に対する依存が強くなり続けるのも良くないだろう。
もう少し自主性を重んじる教育方針にすべきだろうか――そんなことを考えながら、私はふと窓の外へと視線を向けていた。
見えるのは、広い庭と病院の周囲を囲む外壁。その向こう側の町並みは、私にとっては未知の世界だ。
(一度もこの病院の外に出たことが無いというのは……我ながら、数奇な生い立ちだな)
まるで物語の中の話のようだと胸中で呟き、視線を戻そうとして――ふと、病院の外の道路に一台のワゴン車が停車していることに気がついた。
何のことは無い、よくある光景だ。中の様子が見えないようにはなっているが、別段見咎めるようなものではない。
――それが、病院の周囲に四台も無ければ。
「…………」
「仁? どうかしたの?」
地上からでは分からないだろう。離れた位置に停車されており、一台一台だけで見れば普通の乗用車でしかない。
だが、この病院の上層階からならば、同じ様相の車が病院の周囲に配置されている様子が見て取れる。
偶然という可能性もあるだろう。だが、私の勘が、その光景から危険の気配を告げていた。
病院に来るのが遅れるという母上、鞠枝の言葉、そして現在のこの状況。
確かなことなど何一つ無いが、これまで頼ってきた私の直感が、私に警鐘を鳴らしていたのだ。
「仁? ねえ、仁ってば。なにかあったの?」
「いや……何でもないよ、初音。少し、遊びを考えていただけだ」
「遊び?」
初音の言葉に頷きつつ、私は周囲に視線を走らせる。
何とかして周囲の状況を調べる方法は無いか。
子供の身では動き回れる範囲も狭く、まともな情報は手に入らないだろう。
とりあえず、当初の予定通り初音からは目を離さぬようにしておくとして、何か異常を発見することはできないか。
そう考えていた私の視界に、ふと一人の男性の姿が飛び込んできた。
――この五年間過ごしてきた中で、一度として見た覚えの無い背中が。
『……千狐。お前は、私からどの程度まで離れられる?』
『む? そう遠くまでは離れられんが……何をするつもりじゃ、あるじよ?』
『あの男を見張って欲しい。できれば、私たちはどこかに隠れていたいが……』
『距離によっては難しいのう。まあ、あのリネン室辺りからならばそれなりに見張ることもできよう』
『……分かった。頼む、千狐』
この階層は、私や初音が利用するだけあって、セキュリティが非常に強固なものとなっている。
その為か、たとえ医者であったとしても、簡単には入ることができない場所なのだ。
新たに許可を得た人物であるという可能性は否定できないが、今は慎重に行動する必要がある。
杞憂に終わればよし。だがそうでなければ――
「よし、初音。かくれんぼをしよう」
「かくれんぼ? ここでやるの?」
「ああ。看護婦さんに見つかると怒られそうだが、ちょっとした悪戯だ。すぐに許してくれる」
「ん……仁がそういうなら」
この自己主張の無さは後で注意しておかなければならないが、今はそうも言っていられない。
千狐に目配せをした私は、前方を歩く男に気づかれぬよう、初音の背中を押して開いていたリネン室の中に足を踏み入れていた。
この階で利用する枕やシーツ、そして布団が積み重ねられたこの部屋。
隠れようと思えば、隠れられる場所はいくらでもある。
一度リネン室の扉を閉めた私は、初音に向かって可能な限りいつも通りの姿を装いながら声をかけていた。
「よし、では始めるとしよう。最初は私が鬼をやるから、初音は隠れてくれ」
「ん、わかった!」
何だかんだで遊びとなれば楽しいのか、素直に頷いた初音はリネン室の奥へと走っていく。
その間、私は自室に近い壁によって、千狐が動ける距離を少しでも稼げるようにしていた。
私の気にし過ぎであればいいのだが――
『……戻ったぞ、あるじよ』
『早かったな、千狐。部屋を通り過ぎたのか?』
『逆じゃ。あまりにも分かりやすい行動をしおったからな。あれは敵に間違いない』
壁をすり抜けて表れた千狐の言葉に、私は思わず眉根を寄せていた。
当たって欲しくない予想であったが、どうやら私の勘は間違っていなかったようだ。
『一体何があったんだ?』
『あの部屋に入り、お主が見当たらんことを知ったあの男は、お主の姿を探し回るように部屋の中を物色しておった。時折妙な機械も仕掛けておったぞ。おまけに、武器も携帯しておったようじゃしな』
『……目当ては私か』
苦い思いと共に、私は胸中で呟く。
相手は大人、しかも武器を持っている。ここまで入り込めたということは、かなり計画的にことを運んだ人物であると言えるだろう。
今の私には手に余る相手だ。見つかってしまえば、逃げることすら難しいだろう。
『千狐、再び監視に当たってくれ。できる限りでいい。少しでも情報が欲しいんだ』
『承知した。お主はここに隠れておるといい。看護師にも見つかるでないぞ』
『分かっている』
下手に見つかって騒ぎになれば、あの男にも捕捉されかねない。
この場所に隠れたのは失敗だったかもしれないが、今更言っても仕方が無い。
下手に外にでは、見つかってしまうかもしれないのだから。
「もういいよー」
『では千狐、頼むぞ』
『うむ。異常があればすぐに知らせる。気をつけることじゃ』
千狐の言葉に頷き、私たちは互いに踵を返す。
相手が私を狙っているとして、どう動くべきか。
初音の気配を探りながら、私は静かに思考を整える。
(今のところ、相手は強硬手段に出ている様子はない。周囲に異常を感知させていないとなれば、かなり周到に準備を整えてきているのだろう)
つまり、完全に後手に回っている。
私が先にあの男の姿を発見できていなければ、何も出来ずに終わっていた可能性が高いだろう。
不幸中の幸いというべきか、首の皮一枚で繋がり、こちらの手を打てる時間を稼ぐことが出来ている。
だが、果たして私に何が出来るのか。
(私だけでは何も出来ない。無論、初音もそうだ。魔法を多少使える程度の子供では、話にもならないだろう)
故に、誰かの助けが必要だ。
情けない話ではあるが、今の私たちに状況を打開する力は無い。
だが、その場合誰に助けを求めるべきか――筆頭は母上だろう。
だが、母上が遅れるこのタイミングでの襲撃となれば、あまり期待はできない。
何とか、母上に状況を知らせるべきなのだろうが――
(……難しいな)
姿を見たことも無い水城の人間は接触できないし、他に力ある人物に心当たりが無い。
活動範囲の狭さがこのような形で仇となるとは思わなかった。
とりあえず、可能ならば母上に電話をかけてみるべきだろう。
ここの婦長ならば、恐らく母上に電話番号を知っているはずだ。
連絡さえ取れれば、後は状況次第なのだが――
「……そこだな。見つけたぞ、初音」
「見つかっちゃった!? どうして分かったの?」
脳裏で今後の行動方針についてまとめつつも、私は発見した初音に対して声をかける。
彼女は、部屋の隅にある籠の裏側に隠れていた。
確かに見えづらい位置ではあったのだが、周囲のものに動かした跡が残ってしまっていては、あまり意味は無いだろう。
首を傾げている初音の姿に癒されつつも、私は耳に届いた千狐の声に再び気を引き締めていた。
『気をつけろ、あるじよ! そちらに向かってきている。どうやら、周囲の部屋を調べまわっておるようじゃぞ!』
「……初音、今度は一緒に隠れよう。看護婦さんがこっちに来ている」
「えっ!? 見つかったらおこられちゃう!?」
「そういうことだ。だから一緒に隠れよう。見つからないようにしておけば大丈夫だ」
「う、うん……」
少々不安そうな初音を促し、私は積みあがった布団の間を広げる。
少々暑苦しいが、子供二人程度なら、布団の間に入り込むことも可能だろう。
先には常を押し込み、続いて私も布団の間に潜り込む。
可能な限り元のように、あまり布団が乱れていないように整え、そして息を潜めて相手を待った。
耳を澄ませれば、聞こえてくるのはこの部屋へと近づいてくる足音だ。
「仁……」
「静かに。大丈夫だ……」
初音をなだめ、意識を集中させる。
足音はこの部屋の前まで接近し――そして、扉を開ける。
確実に近づいてくる気配。見えるはずが無いのに、まるで見られているかのような緊張感。
まるで息遣いまで聞こえてくるかのような、そんな錯覚すら覚える。
リノリウムの床を叩く靴の音。徐々に近づいてくる足音は、私たちの潜む布団のすぐ傍まで接近し――そして、止まる。
「っ……」
初音の口を手で押さえ、相手の動きを探る。
見つかっているならば、ここからすぐにでも逃げ出さなくてはならない。
立ち止まった相手は、そこから動く気配を見せず――強く私たちの隠れている布団を叩く。
埋もれている形の私たちには大した衝撃は伝わらないが、僅かな圧迫感から、相手が私たちの真上を叩いたことが伝わってくる。
拙い、バレているのか――そう思い、動き出そうとした、その瞬間。
「あー……しんど。ったくあいつら、私がこの階の担当だからって、変に僻んでんじゃないっての」
――布団越しに耳に届いたのは、少し聞き覚えのある女性看護師の声であった。
布団を叩きながら愚痴を零すこの声の主は、普段から愛想のいい若い看護師だったように記憶している。
確か、なかなかの美人であったはずだが……まあ、このような仕事場だ、愚痴を言いたくもなることもあるだろう。
ともあれ、相手が例の男ではなく、その上こちらにも気づかれていない様子に、私は安堵の吐息を零す。
とりあえず、最悪の状況だけは避けることができたようだ。
だが、まだ何も解決したわけではない。
「やだわー、全く……はぁ、こうしてもいられないか。続き続きっと……」
こつこつと、足音が遠ざかっていく。
隣で初音の体が弛緩するのを感じ取りながら、私は尚も周囲の様子を探り続けていた。
遠ざかった足音は再び扉を開き、その外へと出て行く。
と――そこで再び声が聞こえた。
「きゃっ! あら、申し訳ありません」
「い、いえ」
入り口のところでぶつかりそうになったのか、男性の声が聞こえる。
二人とも、その場から離れていったようだが――
『千狐、どうだ?』
『今ので離れていったようじゃな。この部屋も探ってくるかと思ったが』
『潜入の場合、人の印象に残らないようにすることが重要だからな。この場に留まっては、余計な印象を持たれかねない。まあともあれ……ひとまずの危機は脱したか』
初音を促して布団の中から抜け出し、私は大きく息を吐き出す。
さて、とりあえずは見つからなかったものの……何も解決はしていない。
現状であれば相手に見つからないように行動することは難しくないだろう。
だが、いずれは相手も形振り構わず行動してくる可能性は高い。
「さて……どうしたものか」
初音には聞こえぬよう、私は嘆息と共にそう呟いていた。