116:疾走する黒影
遠くに響く爆発音を聞きながら、私は屋敷の中を音もなく疾走していた。
どうやら凛が派手に暴れている様子であるが、とりあえず火事にはしないように注意して貰いたいところだ。
これだけの規模の屋敷となると、火事が起こってしまった場合、死者が出ることは免れないだろう。
今の凛ならば周囲の物体に影響を及ぼさぬよう制御することも可能だろうが、それでも万が一と言うことはある。
「それに、相手が相手だからな……」
『あまり人の心配をしている暇はないぞ、あるじよ』
「……分かっているさ」
凛が派手に暴れているおかげで多くの魔法使いがあちらに集っているが、それでも全てがそちらに向かっているわけではない。
一部残っている者たちもいたし、この屋敷の中でも奥に入って行けば行くほどそういった人間の数が増えてきている。
凛のことはその辺りにいた魔法使いたちに任せ、自分たちは待機する、と言うことなのだろうが……まあ、わざわざ戦力を分割してくれるというのならば、凛としても戦いやすいことだろう。
問題は、私がそういった連中とかち合ってしまう可能性があるということだが。
『ご主人様、そこの角から二人来る』
「考えていた傍からか……まあ、やることは同じだ」
小さく呟き、私はその場から跳躍する。
そのまま、無駄に高い天井に手を付き、蜘蛛のようにその場に張り付いていた。
身に纏っている装甲である『黒百合』は、結局の所ほとんどがリリの体組織によって作られている。
粘性の高い彼女の体を活用すれば、取っ掛かりが無くとも天井に張り付くことなど難しくもなんともない。
天井に張り付いて気配を殺した次の瞬間、向かおうとしていた先の廊下の角から、二人の男が姿を現していた。
「四大が現れたってのは本当なのか?」
「ああ、一階にいた連中の大半が応戦してるらしいが、仕留められないそうだ……クソ、役立たず共め」
「たった一人が相手だってのに、苦戦してるのか!?」
「今の俺たちなら勝てるはずだろうが……一体何をしてやがるんだ、あっちの連中は」
ここに来るまでに何人か相手をしたが、この仙道家の魔法使いたちは、どうにもあまり対人戦闘と言うものに秀でていないように感じる。
禁獣を相手にするときのセオリーなどには精通している様子ではあったのだが、個人個人の戦闘技能からは特筆すべき部分を感じないのだ。
一応、仙道家についてはあらかじめある程度の情報を仕入れてはいた。
どうやら彼らは、魔法院からの仕事に関しては、主に禁獣討伐の仕事を請け負っていた傾向にあるようだった。
つまるところ、仙道家の魔法使いたちは、対人戦に関してはそれほど経験を重ねていないのだ。
(四大の一族を意識しすぎた結果、と言うのは流石に自意識過剰か? あながち間違ってもいなさそうな気はするがな)
あの仙道少年を観察した印象からも、仙道家からは随分と四大の一族に対する対抗意識が感じられる。
まあ、魔法使いの大家という連中は、大なり小なり四大の一族を目標に掲げているところが多いし、それ自体が悪いという訳ではないのだが……道を誤ってしまった以上、それは断罪せねばならないものだ。
小さく嘆息しつつ、私は天井から飛び降り――着地と同時に、後ろを走っていた男を床に叩き伏せていた。
「がッ――!?」
「んなっ!?」
後ろを走っていたといっても、半歩ほどしか相手無かったため、もう一人の男が異常に気付いてこちらを見る。
そしてそれと同時に、私の姿を視認して、男は驚愕と共に硬直していた。
今の私の姿は、全身を黒い装甲に包んだ異様な出で立ちと言えるものだ。
ともすれば、ヒト型の禁獣にも見えかねないような姿であるとも言える。
そんな存在が唐突に現れたためか、男は驚愕して動きを止めてしまっていたのだ。
無論――そんな隙を見逃す私ではない。
「寝ていろ」
「ちょ――ごふッ」
男が動くよりも先に、その腹部へと拳を埋め込む。
そのまままともに声も出せず、男はその場に崩れ落ちていた。
近くには他に気配はなく、《掌握》で見える範囲では魔法による監視もない。
とりあえず気絶した二人を縛り上げたうえで近くにあった空き部屋に放り込み、腕に嵌っていたブレスレットを回収してから再び前進を開始していた。
と――そこで、私の耳に聞き覚えのある声が届いていた。
『もしもーし、こちら舞佳よ。灯藤君、聞こえてるかしら?』
「こちら灯藤。お早い到着ですね、舞佳さん」
『ま、到着したばかりだけどね。そっちはどんな状況?』
「私はすでに内部に潜入しています。当主のいる地点へ向けて前進中です」
『またあの使い魔で調べたの? 優秀な子よねぇ』
「ええ、私の自慢ですよ」
建物の内部構造については、潜入してすぐにリリの分体を先行させて調べさせている。
当主がいるであろう位置も、既に割り出し済みだ。
だが、例の古代兵装による影響なのか、やたらと魔力が充満しており魔法による探査は行いづらい。
おおよその位置こそ特定できているものの、内部の探索までは不可能だった。
「私はこのまま先行するつもりですが、舞佳さんはどうしますか?」
『あたしはまあ、コソコソ入り込むのとかは苦手だからね。暴れながら真っ直ぐに進むわよ。既に暴れてる子もいるみたいだけど』
「……そちらは大丈夫そうですか?」
『ん? ああ、あの子、火之崎の子か。ええ、大丈夫そうだから安心なさいな。まあ、あたしが暴れれば、その分だけ貴方やあの子の負担も減るでしょう』
「ありがとうございます、舞佳さん」
『あたしはあたしの仕事をするだけよ。それじゃあ、後で合流するとしましょうか』
そこまで告げて、舞佳さんの通信が切れる。
そんな彼女の言葉に、私は内心安堵で胸を撫で下ろしていた。
さすがに、私たちだけで一族全てを相手にするには不安があったのだ。
だが、私以上の戦闘能力を持つ舞佳さんが加勢してくれるならば心強い。
……まあ、その頼もしさの分だけ、後で詩織に関して相談した時のことが怖いのだが。
「……まあ、何とかするしかないか」
後のことは後回しにし、私は屋敷の中を影から影へと移動する。
相手は対人戦に優れていない魔法使いとはいえ、戦闘回数を積み重ねればその分だけ消耗は重なってしまう。
しかも敵の本拠地である以上、手間取っていればあっという間に敵が集まってくるだろう。
可能な限り、奇襲からの一撃必殺が望ましいのだ。
『ご主人様、この先を進んだところに、上に上がる階段』
『どうやら、本丸は三階にあるようじゃな。その分、警備も厳重じゃろうが』
「合流を待っている時間が惜しい。突入するさ」
遠くから振動が伝わってくる。どうやら、舞佳さんも突入を開始したらしい。
凛に手を焼いていたところに、突然横槍を入れられた形だ。
待機していた者たちも泡を食っているところだろう。
それによって待機戦力まで出払ってくれるならばありがたい。
いかに対人戦闘に秀でていない仙道家の魔法使いであるとはいえ、当主の側近クラスともなれば高位の魔法使いたちも増えてくることだろう。
そんな者たちがブレスレットで強化されたうえ、精神汚染まで受けているとなると、流石に苦戦を禁じ得ない。
「っと、噂をすればか」
階段の方から接近してくる気配を察知し、私は再び身を潜める。
こちらへ――正確には舞佳さんの方へと向かって行っているのは、七人の魔法使いたちだった。
全員、魔力を高度に制御できている形跡があり、さらに全員一様に例のブレスレットをはめていた。
彼らは、仙道家における高位の魔法使いなのだろう。実際、私一人で相手をして、精霊魔法無しに仕留めきれる自信はほとんどなかった。
奇襲をすればその限りではないが、流石に七人同時に気絶させるような方法は無い。
ここは大人しく見送り、舞佳さんに任せた方が得策だろう。
慌ただしく駆けてゆく彼らの背中を見送り、私は廊下に着地する。
「ふぅ……行ったか」
『一級クラスの魔法使いが七人、羽々音舞佳で対処しきれるかのぅ?』
「あの人は精霊魔法を発動した私に匹敵する人物だ。正直、相手を心配した方がいいレベルだろうさ」
こと戦闘技能に関して言えば、舞佳さんは間違いなく私より上だ。
正直なところ、彼女の本気の戦闘はまだ見たことが無いのだが、少なくともあの程度の魔法使い相手に負けることはあり得ないだろう。
彼女の心配はあまりする必要は無いと判断し、私は改めて彼らが下りてきた階段を見上げる。
一体どのような敵が待ち受けているのか。私は最大限の警戒を維持しつつ、三階へと足を踏み入れていた。
「――っ!?」
瞬間、何よりも先に私が感じ取ったのは、このフロア全体に漂う異様な臭気だった。
まだそれほど強いという訳ではないが、それでも日常生活内では決して嗅ぐことのない臭いが蔓延している。
どこか甘ったるいような、しかして不快な腐臭の混じったような、不可思議な臭いだ。
少なくとも、自然界に存在する臭いではない。何かの異常が、この階のどこかで起こっている。
「リリ、この匂いが何だか分かるか?」
『……少なくとも、魔法術式による干渉は無いから、攻撃の類じゃない。でも、何から発生してるかも分からない』
「術式による発生じゃない、となると」
信じがたいことではあるが、何らかの物体からこの臭いが発せられているということになる。
複数種の臭いが交じり合っているのか、それとも何か単一でこの臭いが発せられているのか。
どちらにしたところで、何かの異常が起こっていることは間違いないだろう。
それにこれは、ある種の指針になる。
「……臭いの強い方向に向かう」
『何かあるのは間違いなかろう。しかし、気を付けることじゃ、あるじよ』
「今更だな。分かってはいるさ」
何やら不気味な状況にこそなってきたが、やること自体は何も変わらない。
覚悟を決め、私は再び気配を殺しつつ前進を再開していた。
《掌握》は決して切らさず、仕掛けられているトラップの術式を回避しながら、更に敵に見つからないように行動する。
中々に神経を使う作業ではあるが、泣き言も言っていられない。
少なくとも、凛や舞佳さんが敵を引き付けてくれているおかげで、かなりマシな状況になっていることは確かなのだ。
(しかし……いくら迎撃に出払っているとはいえ、動くものの気配が少なすぎるような……)
ここまで踏み込んだならば、一切接敵せずに進むことは不可能だと考えていた。
例え舞佳さんが来ていようと、ある程度の戦力はここに残っているものだと。
だが、やはり積極的に動き回るような気配を感じ取ることが出来ない。
最悪、進むために邪魔者の命を奪うことも考慮に入れていたのだが――
(……こうなると、逆に不気味だな)
遠く響く戦闘音以外、一切の音が聞こえないこの領域。
まるで空間自体が死んでいるかのような、酷く停滞した空気。
これをあえて言語化するならば、『腐っている』と表現するのが最も正しいのだろう。
この臭いは、停滞したこの空間の死臭のようにも感じられる。
そこまで考えて、印象が固まった。これは、生前に幾度となく足を運んだ、あの死体安置所の空気に似ているのだと。
「……嫌な、予感がする」
あの空気感は、決して人間が生活を営む場所で発生するようなものではない。
死と無念が染みついた、あの無機質な部屋だからこそ生まれうるものなのだ。
しかしこの場の空気は、多少の差があるとはいえ、あの部屋の重苦しい雰囲気に近い。
無論、あの部屋にこのような妙な臭いなど存在はしなかったが――この場は最早、人の住まう場所ではなくなってしまっているのではないか。
湧き上がる嫌な予感に、私は一つの扉の前で足を止めていた。
『む? あるじよ、どうかしたのか?』
「どうにも、おかしい。リリ、今この場は調べていないのか?」
『ん、分体はこの階層への出入り口を見張っている。必要なら、わたしが調べる』
「いや……直接見た方が早いだろうな」
呟き、私は隣にあった扉を、慎重に開いていた。
北側にあるからか、昼間だというのに薄暗い室内。
その片隅にあるベッドの上に、一人分の人影が存在していることが見て取れた。
眠ってしまっているのか、その人物はベッドの上から微動だにしない。
「……いや、あれは――」
音を立てず、するりと室内に侵入する。
同時、鼻を突くのは、例の甘ったるい腐臭だった。
その発生源がどこなのか――それは最早、確かめるまでもない。
「……ッ!?」
臭いの発生源たるその人物は――崩れかかった人型の肉塊となり、今も細かく蠢いていたのだった。




