104:異次元の偵察
仁からの指示を聞き、久我山は僅かに笑みを浮かべる。
先日彼から受けた恩、それに報いるタイミングが早速やってきたのだ、と。
仁は久我山をあくまでクラスメートとして扱いたい様子ではあったが、久我山にとっては、十年の鎖を解き放ってくれた恩人なのだ。
配下として扱われることに拒否感はなく、むしろ彼の下で働けることに対する歓喜の感情すらあった。
故に、久我山は笑みと共に、耳に装着したカフスを軽く指で弾いていた。
「聴いてたかい、ルルちゃん?」
『聞いてましたよ。けど、その呼び方は止めてください。あのショゴスと似たような名前とか、虫唾が走ります』
「んー、じゃあハリルちゃんかな」
『まあ、それならいいですけど……お前、妙に度胸ありますね。僕に対してその口調とは』
「君、僕に危害を加えるつもりもないし、そもそも出来ないんでしょう? なら、警戒して距離を置くより、仲良くしておいた方がお得じゃないか」
『……人間の考えることは良く分からないです』
どこか嘆息を零したような口調のルルハリルに、久我山は僅かに苦笑を浮かべる。
久我山自身、命知らずなことではあると考えていたのだ。
いくらリリによる封印がなされているといっても、相手は一級の禁獣。
久我山程度の魔法使いなど、十把一絡げに一蹴できてしまうような存在だ。
危機感の強い久我山は、その点に関してはきちんと理解している。
だが、それ以上に――
「単純な話だよ。君と仲良くしていたほうが、皆ハッピーだからさ。君だってそうだろ?」
『……知らないです。それより、僕に何をさせるつもりですか?』
ぶっきらぼうに言い放つルルハリルの言葉に、久我山は昨日の出来事を思い返して笑みを浮かべる。
契約を済ませ、ルルハリルを自宅に連れ帰った久我山であったが、あまり時間がなかったため食事をファーストフードで済ませていたのだ。
その購入時、ルルハリルは突然、メニューのハンバーガーに対して興味を示し始めたのだ。
若干興奮気味にハンバーガーの購入を要求してきた使い魔の様子を思い返して、久我山は軽く苦笑する。
それも、ルルハリルに対してあまり恐怖心を抱かなくなった理由の一因であった。
それはともかく、と思考を切り上げ、久我山は改めて声を上げる。
「じゃあ、ハリルちゃん。詩織ちゃんのことは分かるかな?」
『お前がさっき話をしていた人間のメスのことでしょう。それがどうかしましたか?』
「メスって……まあいいか。その彼女から、三つ後ろの席に座っている女の子がいるだろう?」
『ふむ。捕捉しました』
ティンダロスの猟犬に捕捉されるって大丈夫なのだろうか、と内心で呟きつつ、久我山は頷く。
相手が分かっているならば話は簡単だ。
話の全容が掴めない以上、まずは分かっている手がかりを辿る他に道は無い。
となれば――
「さっき詩織ちゃんに話しかけてきた人物。彼女なら、今回の件に多少なりとも絡んでいるだろうからね。彼女のことを監視して欲しいんだ」
『監視だけですか? 気づかれぬように始末することも出来ますが』
「いやいやいや、それやっちゃったら拙いから。別に敵って訳じゃないんだから、今回の情報を探るだけだよ」
『情報、ですか。例えば?』
「彼女が魔法の練習をしているところを発見して欲しい。そして、彼女に指導している人間もね。とりあえず夜に報告を聞くから、それまでは自由に探ってくれ」
『……いいでしょう。ハンバーガーは用意しておくことです』
その言葉と共に、イヤーカフスの中からルルハリルの気配が消える。
一応、このイヤーカフスを介せば移動中のルルハリルとも会話を行うことができるのだが、久我山は現状それを行うつもりはなかった。
とりあえずは、ルルハリルが自主的に動いた場合、どのような行動を取るのか確かめるつもりなのだ。
「さて……ハリルちゃんは、どこまで調べてくれるかな?」
人間と禁獣の間にある認識の違いはかなり大きい。
まずは、ルルハリルとの距離感を掴んでおかなければ、今後の行動を依頼する際にも不都合が生じる可能性があるからだ。
相手は禁獣。しかも一級の、人知を超えた力を持つ存在。
仲良く付き合いながら、その力を享受するための距離感――久我山は、必死にそれを測ろうとしていたのである。
いざというときに、その扱いを過たぬようにするために。
(とりあえずは報告次第。ハリルちゃんのこともそうだけど……起こっていることについても、気をかけておかないとね)
授業の合間に、久我山は思考をめぐらせる。
現状、大きな問題が起こっているわけではない。ただ、少し奇妙な事態が起こっているのと、灯藤家にとっての不都合が生じる可能性があるというだけだ。
目くじらを立てる必要があるかどうかは、ルルハリルの報告次第だろう。
(まあ何にせよ、僕のやることは変わらない。灯藤くんの味方でいるだけさ)
小さく胸中でそう呟き――久我山は、意識を授業へと戻していた。
* * * * *
『ただの監視、ですか。まあ、普段から似たようなことはしていましたが』
人の近く領域から外れた空間。
人の住まう『曲線』の時空からは外れた、『直線』の概念が織り成す時空。
その空間の片隅に身を置き、ルルハリルは形成された鋭角を覗き込むようにして、命ぜられた相手の監視を続けていた。
時空を監視し、その領域を侵犯する者を狩る猟犬――それがティンダロスの猟犬だ。
監視を行うこと自体は、以前と何ら変わりはない。違うのは、監視対象を既に捉えているにもかかわらず、その相手を狩る必要がないことと、この監視に報酬が出るということだ。
『報酬、というのは面白い概念ですね。この監視作業に対して、何らかの見返りが存在するとは』
ティンダロスの猟犬にとって、監視と狩猟は最早生きることそのものと言っても過言ではなかった。
曲線の時空に住まう存在が己の領域に足を踏み入れることを、直線の時空の者たちは決して許さなかったから。
だが、灯藤仁と呼ばれる人間と、その使い魔であるショゴスに捕らえられてから、その生き様は変化した。
しばしの時間、鋭角の存在しないショゴスの体内に捕らえられ、肉体に改造を受けることになってしまったが、ルルハリルは現状については悪くないと考えていた。
無論、リリの体内にいた頃の事は思い出したくもない記憶であるが――
『思考操作を受けているのは癪ですが、今はそれなりの自由もあるし、報酬を受け取ることもできる。使い魔としての生活そのものは決して悪いものではないですね』
自分よりも遥かに弱い人間に従うということについてはある程度の抵抗感はあったが、それを差し引いても決して悪い状況ではない。
だからこそ使い魔という扱いにも同意したし、今現在、こうして久我山の指示に従っているのだ。
とはいえ――大した強さも有していないただの人間の監視など、ルルハリルにとっては退屈以外の何物でもなかったが。
『ですが――』
ピクリと鼻を動かして、ルルハリルは監視対象を睥睨する。
己が戦った灯藤仁と比較すれば、天と地ほども差が開いているであろう人間。
どこを取っても特筆するようなことはない、ただの魔法使いであるはずなのに――
『……妙に古い臭いですね。この時代にはそぐわぬ、古臭い臭いです』
どこか古い時代の魔力を感じさせるその気配に、ルルハリルはのそりと体を起こす。
少女から感じる臭いは、他の人間と大差ない。特筆するところもない、現代の魔法使いだ。
だが一点――彼女の身につける装飾品からは、彼女とは異なる魔力の臭いを感じ取ることが出来たのである。
『あの腕輪、ですか。この時代の物には思えませんが……ん? どこかで見たことがあるような』
首を傾げ、ルルハリルはそう呟く。
時間の概念は適応されないとは言え、人間の体感時間で言えば数千年以上監視の任務を続けてきたルルハリルだ。
過去に一度や二度見た程度のものでは、正確には思い出すことができないのである。
そもそも、領域を犯した者を刈り取ることだけが彼女の存在意義だった。
相手の外見などには頓着していなかったため、僅かにでも思い出せたこと自体が奇跡であると言えるだろう。
『ふむ……ただの人間というわけでもないようですね』
その呟きと同時、標的であった少女が立ち上がる。
授業の終わりと共に、彼女は移動を開始したのだ。
授業という概念そのものを理解していないルルハリルには、その移動の契機については読み取れなかったものの、彼女を追うように直線の時空間を移動し始める。
建物の中を進み、外へと出て、更に先へと進む。
向かっている先は、広いスペースが取られた空間。どうやら、魔法の修練場となっているスペースのようだった。
幾人もの人間がその場で魔法の修練に明け暮れていたが、少女は迷うことなくその奥、十人弱ほどの人間が集まった場所へと向かう。
『また、あの臭い。あの連中、全員があの腕輪を着けている?』
鼻を動かし、ルルハリルは呟く。
一人だけならば小さな違和感で済んだものも、あれだけの人数が同じものを装着していると、流石に偶然では済まされない。
予想していたものよりも遥かに奇妙な状況に、ルルハリルは疑問を覚えながらも接近していた。
『――良く集まってくれたね。熱心なようで、僕も嬉しいよ』
『い、いえ! こちらの方こそ、よろしくお願いします!』
『今日も頼むぜ、仙道さん。まさか、一組の生徒がこうして教えてくれるなんてな!』
『君たちには才能があるからさ。三組で燻らせているには勿体無いよ』
才能がある、と言う言葉を耳にして、ルルハリルは思わず失笑する。
あの程度で才能などとは言える筈もない。極限まで技を磨き上げた灯藤仁、特殊技能を自覚し、それを独自に磨き上げた久我山雪斗。
彼らは才を持ち、それを努力によって磨き上げた。ルルハリルからすれば、この名も知らぬ人間の力など、塵芥にも等しいものにしか感じない。
多少力を持っているのは、指導している側の人間であるが――
『センドウ、といいましたか。あの臭いが少し強い。同じような腕輪をつけていますが……少し、気配が強いのか』
考察を続けるルルハリルに気づくはずもなく、仙道たちは魔法の訓練を開始する。
未熟な人間の魔法使い。その力など、大した物ではない。
――そう判断していたルルハリルは、観測された光景に驚愕の声を零していた。
『これは……!?』
魔力の量と、制御力。それが、彼らの持っている力よりも大きく強化されて顕現したのだ。
放つ魔法の威力のみで言えば、一組のそれにも迫るほど。
とてもではないが、彼らの保有する魔力や制御力で扱いきれるものではない。
にもかかわらず、その魔法は完全な形で発現し、威力を発揮していたのだ。
『……何か、妙な仕掛けがありそうですね』
想像していたよりも大きな異変に、ルルハリルは思わずそう呟いていた。




