001:プロローグ
第1章 灼銅の王権
視界を埋め尽くす紅。
既に見慣れてしまった赤黒いものではなく、煌々と世界を照らす橙混じりの色。
その色は周囲の空気を犯し、そしてその只中にいる私を蝕んでいく。
――炎。その危険性は、十二分に承知していたはずだ。だが、今こうなってしまっては意味も無い。
「はぁっ、はぁっ……!」
呼吸が荒い。だが、息を吸うたびに焼けた空気が入り込み、肺を内側から焦がしていく。
しかし、それでも息を吸わずにはいられない。既に、周囲の酸素は少なくなってしまっているのだろう。いくら息を吸ったところで、呼吸は楽にはならなかった。
どうしようもないジレンマだ。唯一の解決策は、すぐにでもこの炎の中から逃げ出す他にはない。
分かってはいるのだ。だが――最早、逃げ道はどこにもない。
「く、そ……だが……!」
分かってはいる。既に助かりはしない。
この建物の内部構造は把握している。幾度も訪れたショッピングモールだ、案内板など見ずともあらゆるものの場所は思いつく。
だが、この火災の中ではそうも行かないだろう。
崩れ落ちた瓦礫、閉ざされた防火扉、非常口の案内も既に焼け落ちてしまっている。
分かってはいるのだ――だが、それでも。
「必ず、助ける……もう少しの、辛抱だ、お嬢ちゃん……私が、必ず」
――この手の中には、護らねばならぬ命がある。
水で濡らしたコートに包まれた、一人の幼い少女。
既にコートを湿らせている水分も蒸発しかかっていたが、まだ何とか彼女の身を護ってくれていた。
彼女の意識は既にない。酸欠と暑さによって朦朧としているのだろう。だが、まだ死んではいない。
ならば、救わねばならないだろう。この子は、私の部下の娘なのだから。
「そう、救う……救うんだ……あいつを、あの馬鹿者を……私のようにしては……」
うわごとのように呟きながら、炎の中を縫うようにして進む。
自分が呟いている言葉も、あまり理解はできていない。ただ、私の脳裏にあるのは、かつて私が護れなかったものの姿だった。
かつて、私は大切なものを失った。妻と、幼い娘を――何物にも代えがたい、私の宝物を。
きっかけは些細なことだっただろう。刑事としての実績もそれなりに積み、犯罪者を捕らえた経験も幾度もあった。
正義感に溢れるほど若かったつもりはないが、それでも刑事としての誇りと自負は持っていたつもりだった。
だからこそ、気づけなかったのだろう。我々の行いは、例え正しくあったとしても、それを憎む存在があるということを。
「もう、二度と……私は……」
強盗殺人と、一言で片付けてしまえばそれまでだろう。
私は護るべきものを護れず、失意と憎悪の感情を、己の職務にぶつけ続けていただけだ。
都合は良かった。私の仕事は、犯罪者を捕らえることなのだから。
そのためならばどのようなことでもした。必要悪を受け入れ、外道を狩り、時に危険を冒しながら自己満足を続けていた。
『狂猟犬』などと犯罪者の間で噂され始めたのはいつの頃だったか。
呼び名などはどうでも良かった。そうして有名になることで、奴らが恨んで自分から向かってくるのであれば都合がいい、ただその程度にしか考えていなかった。
警戒して離れていく連中もいたが、そういった連中は逆に動きが読みやすい。捕らえるのも難しくはなかった。
実績を積み、けれど幾度もの危険・越権行為から、役職は万年巡査部長止まり。
しかしそれでも、付いてこようとする部下はいた。私の危険行為を止めようとしてくれる男はいた。私のような愚か者を、『おやっさん』などと呼んで慕う馬鹿な男が。
私は当の昔にブレーキを壊してしまった男だ。だが、彼はそうではない。
だからこそ――この娘を死なせてはならない。あいつを、私のようにしてはならない。
私のようなものは、私一人で十分だ。
「だから、私は――」
『しかし、お主には何も出来ぬじゃろう』
ふと、声が響いた。
鈴の音を鳴らすような、幼い少女の声。
酷く古風な話し方のその声は、灼熱に包まれたこの場で、いっそ涼しさすら感じるほどに冷静だった。
幻聴だろう。或いは、今際の際に聞いた神仏の声か。
私自身が死ぬのはいいだろう。だが、まだここで倒れるわけにはいかない。
霞む意識を必死に繋ぎとめながら、私は歩を進める。
『ただの人間、衰えた男。何も出来るはずがない。お主は、ここで燃えつき朽ち果てる運命じゃ』
再び、声が響く。
エコーの掛かったような、不思議な声音。
その幻聴を無視して、私は歩き続ける。
だがそれでも、燃え盛る炎の音を無視して届く声は、私の耳をくすぐっていた。
『諦めても良いじゃろう。お主は良く頑張った。人ではあり得ぬほどの努力じゃよ』
「だが……それに意味など、無い……」
一つの言葉に、無視することができなくなる。
諦めろと、この声はそう告げた。己の命を、この少女の命を諦めろと。
己の命などどうでもいい。だが、私が諦めた瞬間、この子の未来は全てが失われるのだ。
認めるわけにはいかない。この場において、実を結ばぬ努力など何の意味もない。
「諦めない……私は……諦める、訳には……いかない……!」
『最早手はない。ここから逃げ出すことは、お主には不可能だ……それでも、諦めぬのか?』
「無論、だ……絶対に、諦めは……しない!」
亀裂の走る音。決定的な破滅を告げる音が聞こえる。
床か、天井か。どちらが崩落したところで、助かりはしないだろう。
だからこそ進む。立て続けに響く崩壊の音を聞きながら、ただ前へ。
だがそれでも、音は止まらず。天井は、その瞬間に炎を吹き上げながら崩落し――
『――お主の魂、しかと見届けた!』
――唐突に、涼やかな空気が周囲を包み込んでいた。
音が止まっている。何もかも。崩落の音も、炎の音も、何一つ音がない。
否、音だけではない――全てが止まっているのだ。崩壊しようとする天井も、揺らめく炎の渦も、まるで時が止まったかのように動きを停止している。
ただひとつ――目の前にいる存在だけが、この異常な空間の中で動き続けていた。
『素晴らしい……その強き想い、朽ちぬ魂。お主こそが我が糧に相応しい』
「……お前は」
それは、異常な姿の少女だった。
年の頃は十歳にも満たないだろう。着崩した橙色の着物だけを纏う、幼い少女。
この危険な空間を、まるで散歩するかのように裸足で進む彼女の異常は、それだけに留まらなかった。
「……驚いた。近くの神社から神仏が抜け出してきたのか?」
『くくく、似たようなものではあるよ。妾の名は千狐……お主の言うとおり、神仏や精霊の類じゃよ』
耳と尾が生えている。その名前から考えるに、恐らくは狐のものだろう。
近くに稲荷神社などあっただろうか――益体もなくそう考えながら、私は彼女の姿を見つめる。
黄金とも違う。どちらかと言えば銅に近い――だが、まるで燃えて赤熱しているかのような、輝く毛並み。
後頭部でくくられた髪は八条に分かれながら、まるで炎のように輝き揺らめいている。
瞳孔の切れ上がった紅の瞳を輝かせる彼女は、私にゆっくりと近づきながら声を上げていた。
『お主、妾と取引をせぬか』
「取引……? 一体、何をしようというんだ?」
現実感のない光景であった。
けれど、疑問などを抱いている暇はない。
私が今すべきことは、抱えているこの少女を護ることだけなのだから。
今こうして、異常な状況ながらも体を休めることが出来ているのは、何よりも有益なことだ。
そして、この状況を創り上げているであろうこの神仏ならば、私にもできぬ何かを成し遂げることができるのかもしれない。
そう考え、私は千狐の言葉を待つ。彼女は、どこか楽しげに笑いながら、その取引とやらを口にした。
『お主が全てを差し出すならば、その娘を救えるだけの力を貸してやろう』
「……もっと具体的に話してもらいたい」
すぐにでも飛びつきたい気持ちはある。
だが、下手に返事をして、この子に危害が及ぶようなことがあってはならない。
千狐の力を借りることは確定だ――だが、その条件は精査する必要があるだろう。
そんな私の思いを読み取ったのか、にんまりとした笑みを浮かべ、千狐は言葉を続けた。
『妾が求めるものはお主自身。お主の、その強い意志を持った魂じゃ。それを差し出すならば、ここから抜け出すために力を貸してやろう』
「……この子に影響は?」
『ない。妾が興味を持っているものはお主だけじゃ。その娘子を救うことがお主の心残りであると言うならば、それを果たさせねばお主は妾の元に来ぬじゃろう?』
「そう……だな。いいだろう」
対価となるものは私自身。ならば、命だろうと魂だろうと、いくらでも捧げてやれる。
命も魂も、惜しくはない。こうして、救うべきものを救って果てることができるなら、幸福であると言ってもいいだろう。
だからこそ、私は確かに、千狐の言葉に頷いていた。
そして、そんな私の表情に、狐の少女はどこまでも楽しげに笑い声を上げる。
『くく、くははははははっ! 見込んだとおりの男よ! ならば、妾の手を取れ!』
言って、千狐は私に向かって手を差し伸べる。
小さな、人間と変わらないように見える掌。そこへ、私は火傷にまみれた己の右手を伸ばし、重ねていた。
瞬間――
「ぐ……ッ!?」
私の手の中へ、灼熱の感覚が入り込む。
痛みはない。だが、燃えるように熱い。
指先から、掌から、入り込んでくる何かが私の体を作り変えていく。
その灼熱に耐えながら、私の耳は確かに、千狐の言葉を聞いていた。
『今のお主の体では耐え切れんだろう。故に急ぐがいい。その力がある内に、この炎の中を駆け抜けるがいい。今のお主であるならば、決して諦めぬ気高き男であるならば、その命を燃やし尽くしてでも、その娘子を救えるであろう』
熱い。右腕が、体中が――そして、周囲の大気までもが。
千狐の姿は消えている。周囲は先ほどと同じ、炎に包まれたショッピングモール。
崩れ落ちようとしている天井も、何もかも同じ。
ただ――千狐より齎された、右腕の灼熱だけが変わっていた。
「お、あああああああああああああああッ!!」
叫ぶ。灼けた空気に喉と肺を焼かれながら、それでも。
右腕が燃えるように熱い。まるで己の体ではないような感覚がある。
だがそれでも、この右腕は私の思い描いたとおりに動き、崩れ落ちる天井へと向けて突き上げられていた。
私の右手は、落下してくる瓦礫と衝突し――その全てを、跡形もなく消し飛ばす。
「……進め、救え、絶対に!」
理解など後回しでいい。己がすべきことだけを見つめろ。
足を踏み出せ。右腕を振るえ。障害を悉く打ち砕け。
左腕の、小さな命の感覚を確かめながら――私は、炎に包まれた瓦礫の中へと飛び込んでいった。
そして――――
* * * * *
――意識が覚醒し、次に耳に入ったのは、泣き叫ぶ男の声だった。
「おやっさん、おやっさん! ちくしょう、何で……!」
聞き覚えのありすぎる、日常的に耳にしていた部下の声。
少しお調子者の気がある声は、今は悲哀に満ちた泣き声と変わっていた。
不可思議な浮遊感。まるで、液体の中に浮かんでいるような感覚を覚えながら、私はゆっくりと目を開く。
『気づいたか、あるじよ』
『……千狐?』
果たして、私の目の前にいたのは、先ほども目にした狐の少女であった。
胡坐をかいた姿勢で浮遊している彼女は、どこか楽しげな笑みを口元に貼り付けながら、指である方向を示す。
それは、先ほど部下の声が聞こえた方向であり、私は反射的にそちらへと視線を向けていた。
「お礼、言いたいんですよ……なのに、何で……!」
『あれは……』
『まずは、賞賛しておこう。あるじよ、お主は確かにあの娘子を救った。多少の火傷はあるが、命に別状はない。痕も残らんじゃろう。そして……お主は死んだ』
呆然としながらも、千狐の言葉は耳に入り込んでくる。
疑いようもないだろう――千狐の指差した先には、私の死体があったのだから。
右腕が焼け焦げて炭化し、顔には白い布を被せられた男の死体。
それが己のものであるかどうかなど、疑うまでもないだろう。
今の私は、俗に言う幽体離脱と言うべき状態なのだろうか。どちらかと言えば、浮遊霊と言った方が正確なのかもしれないが。
『そうか……ありがとう、千狐』
『何故礼を言う? お主は死んだのじゃぞ、あるじよ?』
『だが、確かにあの子を救うことができた。それだけで十分だ……約束どおり、私の魂でも持って行けばいい。命は既に消えてしまったがな。それより……“あるじ”とは、一体何のつもりだ?』
『そのままじゃよ。お主は妾のあるじとなる。そのために、あの取引を持ちかけたのじゃからな』
千狐の言葉に、私は思わず眉根を寄せる。
てっきり、魂を抜かれて食われでもするものだと考えていたのだが。
一体、何がどうして主従関係の、しかも私が主人となっているのだろうか。
そんな私の疑問に、千狐は軽く肩を竦めながら答えていた。
『妾は、最初から妾のあるじとなる宿主を探していたのじゃよ。この世界から抜け出すためにの』
『……この世界から、抜け出す?』
『簡単に説明しよう。妾はこの世界で生まれた精霊じゃ。だが、この地は神々のお膝元とも呼ぶべき聖地……そうじゃの、お主の感覚で言えば、住んでいる家の両隣が天皇とローマ法王、向かいに総理大臣とアメリカ大統領が住んでおるようなものじゃ』
『……つまり、恐れ多くて落ち着かないと?』
『うむ。だから、ここから移動する手段を考えておったという訳じゃ』
余り難しい話ではなかったが、精霊を自称する割には随分と世俗に詳しい様子である。
外国の人物まで知っているのだろうか、この精霊は。
ともあれ、疑問は尋ねなければならないだろう。
『世界を抜け出すと言っているが……ここ以外に世界があるのか? それに、どうやって?』
『一つ目の問いは是。世界は無数に、そして無限に存在しておる。行き先は、まあどこでも良いがの。とりあえずここから抜け出したい。二つ目の問いじゃが、それに必要となるのがお主じゃ』
指差して告げる千狐の言葉に、私は思わず首を傾げる。
世界を渡るのに私が必要とは、一体どういう意味なのか。
私にはそのような技術も力もないはずなのだが。
そんな私の疑問に、千狐は腕を組み胸を張りながら声を上げた。
『正確に言えば条件さえ合えば誰でも良いのじゃがな。妾は人間の魂に宿ることができる。そして、それは輪廻の先であっても付いて行くことが可能なのじゃ。その際、輪廻の輪を、この地球のものから一つ隣のものへと移動すれば……』
『それで、異なる世界へと移動ができると?』
『うむ。お主が望むなら、今のお主の記憶を残しておくこともできる。あるじよ、お主はどうしたい?』
言葉を聞くに、千狐が輪廻の先とやらについて行くことは確定なのだろう。
その際、私の記憶が残っているかどうか――そこまでは飲み込み、私は頷く。
『少し質問をしたい。何故私だったんだ?』
『妾ほどの精霊が宿ることができるのは、気高い意思を持った強い魂だけじゃ。死にかけている上にそれだけの魂を持つ者というのは貴重じゃからな、お主を見つけられたのも運が良かったからじゃよ』
『……私にとっても、ギリギリの幸運だったのか。それと、もう一つ……魂は、確実に輪廻するのか? あの世と言うものはないのか?』
『そんなものを作っておったら、死者の魂が集まりすぎてパンクする。魂は全て輪廻するものじゃ』
『では、二十年前に死んだ者は――』
『当の昔に輪廻しておるよ』
言葉を飾る様子もない千狐の言葉に小さく嘆息し――そして、私は頷いていた。
あの世があるならば、一目でもいいからかつての家族に会いたいと思っていた。そして、謝りたいとも。
だが、どうやらそれは叶わないようだ。それならばそれでもいいだろう……最後に、人を救って死ぬことができたのだから。
『承知した。記憶については……残しておきたいな』
『ほう、それは何故じゃ?』
『後悔の多い生き方をしてきた。だからこそ、次こそは失敗したくないだけだよ』
もう二度と、家族を失うような光景は見たくない。
次の人生が与えられると言うならば、今度こそそれを守り抜く。
私のすべきことは、ただそれだけだ。
『うむ、それでは……そろそろ、行くとしようか』
『ああ』
あの時と同じように、千狐は私へと向けて手を差し伸べる。
それを掴みながら、私は背後へと――泣き崩れる部下の方へと視線を向けていた。
私はここまでだ。だが、彼の人生はこれからも続いていく。今回のような幸運は、そう何度も起こりはしないだろう。
だから――
『――私のようにはなるなよ』
そう告げた瞬間、彼は咄嗟に振り返り、そして周囲へと忙しなく視線を走らせていた。
聞こえたのだろうか。だが、私は死者だ。人の目に映ることはないだろう。
私はゆっくりと、千狐に手を引かれて天へと昇ってゆく。
最後に見えた、背後の部下の姿は――何処へともなく、敬礼をしている姿であった。