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ガンバレ!消えぞこない君

作者: antyoku

<1>

 桜も散りかけた校舎裏。その日は部活が早くに終わり、放課後の時間もゆっくりと流れていた。

 暮れかけた空は優しさと不穏さの入り交じった表情で世界を見下ろしている。この穏やかな始まりの季節に、静かに終わろうとしているものがある。消えてしまえればいいのに。僕はそう強く思っていた。

 頭の中が冷たいもので満たされていく。宙をさまよっていた意識が視覚に戻る。相も変わらずそこには、人目を避けるように二人の少女が立っていた。やはりこちらには気づいていない。

 抱きすくめられた側の少女が、誰かに見られてる気がする、などと小さく呟いたのが耳に届く。大丈夫、と少し背の高いもう一人の少女が答える。きっと誰も見ていやしない。見ていたところで関係ない。言葉の意味はそんなところだろう。そして僕が物陰から見ている。

 儀式だった。呪文のような言葉を交わすことで彼女らは日常の系から離れ、お互いをお互いの空間に閉じこめようとする。さらには迷い込んだ見物人の足を地面へと縫いつけ、その場を逃げ去ることさえかなわなくしていた。

 だからいっそ、消えたいと思ったのだ。

 何度確認しようが同じだ。見間違えようもない。いつの間にやら制服の下へ手を滑り込ませられ胸のあたりを触られている小柄な彼女は、僕がひそかに恋い慕ってきた部活の後輩、前川さんだった。女々しく想いを秘め続けた罰なのか、よりによって同性と密会している場面を、自分と話しているときは一度も見せてくれたことのないあんな表情を目撃してしまうことになるとは。

 どこか神聖でさえある現実離れしたそのムードも相まって、目の前で扉を閉じられ締め出されたような気持ちだった。色めいてゆく少女たちの世界から取り残された僕は、ぞっとするほど虚しい空洞の底にぽつりと立っていた。

 儀式はなおも進んでいく。

 孤独の中でふと、邪悪な考えが頭をもたげる。

 いっそ今から出て行って、何もかもめちゃくちゃにしてやろうか。

 すぐに自分で否定する。そんなことをしてどうする? 得るものがないどころか人間として最低限の信頼すら全て失ってしまう。

 しかしこのまま素直に引き下がれるか? 恋する娘を小娘なんかに取られて。まるで男なんて下品で下等な生き物はお呼びでないのよと拒絶されているよう、というのは果たして僕の被害妄想か。

 どうしても考えてしまうのだ。

 そもそも僕は自らの容姿にコンプレックスがある。鏡で見る自分の顔面は痩せすぎていて青白く、おそらく客観的に見てもかなり醜い部類に入るだろう。だからこそ常に怯えがあった。美しい彼女への後ろめたさが。

 あの子の脳みそは僕をどんな風に認識していたのだろう。いつだって楽しそうに会話に付き合ってくれた。情けないが一応先輩であるこちらの立場も手伝ってか、女子という生き物が苦手な僕も彼女とだけはいくらか自然に話せるようになっていた。

 だが人なつっこい笑顔を浮かべるその裏で、いつもいつもいやらしい目で見てくるあの気持ち悪い先輩が今日はこんなことを言ってきてホント最悪で、と恋人とのお話の種にされていたのかもしれない。

 実は嫌われているのではと思うことはこれまで何度もあった。妙にそっけない態度を取られたり。メールを送ってもたまに返事が返ってこないことがあったり。僕は弱かった。一見して些細なそれらはそのたび心に大きな影を落とした。

 否定しようとするが、今も眼前で繰り広げられる光景に否応なく心はかき乱され、何か芯の部分を崩され、深みへ深みへと僕は嵌まり込んでいく。蓄積されてきたものが迸り、卑屈な思考がぐるぐる回っていつまでも止まらなくなりそうだった。

 そこをふと、皮膚の違和感で現実へ引き戻される。

「?」

 右手に何かが触れている。

 最初は桜の花びらかと思って、見てみると大きめの羽虫だった。

 それが突然顔の方へ飛んできたため、驚いて声を上げてしまう。さほど大きな音ではなかったはずだが、この場を支配していた繊細な魔法陣を破壊するには十分なノイズであったらしい。慌てて身を隠すも一瞬遅く、同時にこちらへ振り返った二人の目が不躾な侵入者の姿を寸刻うつした。

 僕は夢中で逃げだしていた。


 ひとまず学校の敷地の外へ出よう。

 あの一瞬でこちらの顔まで識別できたかは微妙なところだ。わざわざ確認しにくるとも思えない。だが密会はほぼ確実にお開きだろう。退散するにものんびりうろうろしていては鉢合わせてしまう可能性がある。

 衝撃的すぎて動けずにいたんだ等と言い訳しようが、結局僕が最低な覗き行為をしていたことには違いないのだ。

 もし、覗いていたことが彼女にばれてしまったら? 嫌われる。先ほどまでの被害妄想も何も関係ない。どんな罵りを受けても仕方がない。

 ここまで来れば大丈夫だろう、というところまで逃げてから歩を遅め、そのまま帰路の続きをたどった。

 夕暮れだ。頭上の空は灰色で、遠くが鮮やかな橙色に染まっていた。同じく下校していく学生たちがまばらに見える。

 前から足下に青いゴムボールが跳ねてきた。拾い上げてみると子供の名前がひらがなで書いてある。

 投げ返してやろうとしたが、それよりも早く持ち主らしき小さい子供が走ってきて、ボールをひったくって行ってしまった。もしかして食べられてしまうと思ったのだろうか。僕はゴムを食べそうな顔をしているからな。

 何だか気まずくなって道を少し逸れ、人や車の気配のほとんどない場所へ出る。寂寥とした空気が今は妙に堪えた。

 僕はだんだん自分がとんでもなく汚らわしい存在に感じられてきた。どこかずっと遠くへ行って、行方をくらませてしまいたくさえあった。沈んでいく。強烈な居たたまれなさが全身へ一気に広がる。そして、

「消えたい」

 そう呟いた瞬間だった。

 突如、激しい痛みが体を貫いた。

 全身の骨が歪んであちこちで皮膚を突き破ったかのような激痛で、僕はすぐに立っていられなくなりその場に倒れ込んだ。口から漏れる呻き声は、どこか遠くで他人の出している音に感じられた。

 固い地面の上で散々のたうち回って、やがて永遠にも思えたその苦しみは収まった頃には、ワイシャツが汗でべっとりと体に貼りついていた。

 確証は得られないが実際の時間に直せばおそらく一分ほどだったろう。本気で死を覚悟した。それでなくとも今ので寿命が大幅に縮んだような気がする。

 あれだけ激しく地面を這っていたのだ、どこか擦り傷を作っていないかと自分の体をあらためてみて、僕は次なる異変に気づくこととなる。

 体がない。

 消えた。

 七転八倒のはずみに路上へ投げ出されていた鞄を除き、制服やら何やら身につけているもの全てと一緒に僕は無くなっていた。視覚機能がいかれたで説明するのは難しい現象だ。曲がり角まで行って事故防止用のミラーを見上げると、僕の醜い顔面も骨のような体もそこには映っていない。

 消えたさのあまり僕の脳が自分の姿だけ認識しなくなったのではないかと仮説を立てる。人がいる場所まで出て行く。コンビニに入ってみた。誰も並んでいないレジでアルバイトの男に揚げ物を要求してみる。二度三度。小さな混乱が発生した。

 もはや疑問を差し挟むのも馬鹿らしくなるくらいだ。声は聞こえているが姿は主観でも何でもなく不可視化している。そう考えるしかない。コンビニに入るとき自動ドアが反応しなかった時点で理解していた。

 のたうったとき頭を打って気絶して、今は夢を見ているのかもしれない。だが仮にそうだとして、この夢の世界のルールとして僕はそれを受け入れた。大したことではない。体が透明になるのも好きだった後輩のレズ現場を目撃するのも現実感の無さで言えば似たようなものだ。

 実際そうなってみれば驚くほど落ち着いていた。最低な想いをした僕に神様が見せてくれている甘い夢、ボーナスタイムだ。そう思うことにする。自分を論理的に納得させるのに割く時間がもったいないとさえ思い始めている。いつ効果が切れて元に戻るか分からないだろう?

 袋を提げた男子学生が自動ドアをくぐるのに合わせて僕もコンビニを出た。入口前に設置されたゴミ箱を軽く右手で小突いてみると、硬い感触とともにコツコツと音を立てる。駐輪スペースで自転車のスタンドを立てていた制服の女の子が一瞬こちらを見て不思議そうな顔をした。

 やはり物理的な当たり判定はあるようだ。女学生は何らかの形で自身を納得させたのかすぐに興味をなくし、店内へと入っていった。逆に歩く僕と間近ですれ違うが、明らかに僕の姿を認識した様子はない。

 そのことに微妙なひっかかりを覚えつつも歩を進めたが、まもなく違和感の正体に気づき、衝撃が走った。

 音が。

 体が消えたときからずっと、足音や服の擦れる音など通常の動作をすれば鳴るはずのあらゆる物音が聞こえていない。僕は全身に無音をまとっているのだと理解した。そのくせ声だけは通るのだ。何気なくついてきたオプションだがこれは、物が透明になるよりもはるかに説明の付けづらい現象のように思われた。

 ……いや。

 何を無意味なことを考えているんだ? そんなことはどうでもいい。どうでもいいじゃないか。これは最初から僕の知識で説明できる範囲など越えている。

 考えるべきは不思議さの度合いについてじゃない。とにかく今の僕は誰の目にも映らず、しかも無音で隠密行動ができるのだ。

 ならばすることは決まっていた。一つしかない。凡庸な男ならここで覗きにでも出かけるところだろうが、今の僕は普通ではない。

 先刻、頭をかすめた黒い考え。それはつまり、どうせ自分のものにはならないであろう少女の心の聖域に土足で踏み込み、全部汚し尽くしてやろうというものだった。何もかもめちゃくちゃになってしまえばいいと自棄を起こしている自分をそのときは必死に理性で思いとどまらせたが、今は状況が違う。この体だ。自分で自分が誰かも分からない。この姿で何をしたところでまず僕に疑いが及ぶことはない。よっぽどのヘマをしなければ。

「やってやる」

 せいぜいあの不可侵な雰囲気にひびを入れてやろうくらいの考えだったはずが、今や完全に性的なそれを志向していた。力を持つと人は変わるという。いくら何でも簡単すぎだと自嘲したくなる。

 足が自然と動きだす。

 前川さんは時間的にまだ学校かその近辺にいるはずだ。僕のようにダッシュで帰っていれば別だが。彼女と一緒に人目を避けるように下校している可能性も考えたが、傍目には女二人が並んで歩くだけなのだからそれをする必要はないか。

 通学路を逆にたどって学校を目指す。簡単なことだった。普通に下校していればこの道程で会うはずだ。生徒はそこそこいる。向こうから見つけて声をかけてくれることは今はありえない。だから見落とさないよう注意して歩く。目を光らせて。

 同年代の他人という物にぼんやりとした恐れを抱いていた自分だが、こうして透明になった今、道を行く人々がみな取るに足らない存在のように思えた。

 だが結局、見つけられずに学校に着いてしまう。ここまでのあいだに寄り道するような場所は……コンビニくらいだが、店内にはいなかった。そこから一本道を真っ直ぐ歩いてきたので、意図的に変なルートを通られていなければ入れ違った可能性も低い。

 まだ学校にいるのだろう。出口は複数存在するが普通に歩けば合流するポイントがある。学校の敷地内に入って探すとすれ違う可能性が大きくなるためここで待ち伏せるのが得策だろう。

 冷静な思考に反して正常な判断力はもはや無かった。現在の自分の状態についてまだ多くを把握していない。いつ急に元に戻るともしれない。それ以前にカメラなんかには姿がばっちり映るかも、いやそもそも透明自体がやっぱり妄想かもと、懸念すべき事項はいくらでもある。危険すぎる。

 しかし薬で別人格を手に入れたどこぞの博士のごとく、僕は悪の心に呑まれつつあった。衝動が僕を突き動かした。

 まるっきりストーカーだ。自分がこんなに犯罪者気質だとは知らなかった。果たして今日これから僕は何者へと変貌を遂げることになるであろうか。答えはこのあとすぐ、だ。

 ほうら、見つけた。前方に彼女の姿。やはり美しい。誰よりも。さあ、ためらうことはない。今の僕なら出来る。

 ゴミ箱を小突くのと同じだ。



<2>

 部屋の棚には本やCDがぎっしり詰まっている。自室に帰ってきてすぐ、それが妙に目についた。

 なにげなく手を伸ばし、適当なCDを一枚抜き出す。

 それは八十年代の海外のバンドのアルバムだった。ジャケットでは白い背景のやや奥側に男がひじをついて寝転がっていて、およそロックンロールの衝動や表現意欲といったものを感じさせない。

 このアルバムは少し印象に残っていた。砂嵐のごとく鳴り響き続けるノイズのせいか、どこか遠い霧の向こうで演奏されているみたいで、まるで夢の中にいるような気分になったのを覚えている。

 前川さんは超が付くほど有名なバンドだとか言っていたが、僕は知らなかった。徹底して人付き合いに消極的で、かつ内に籠もって打ち込むようなものもなくそれこそ空気のように生きてきた自分は、かつて音楽も積極的にこのような古い作品を探してきて聴いたことなど一度もなかった。

 それをするようになったのは、彼女に話を合わせるため、という動機ができてからだった。

 というのも、彼女の好むものは同世代女子の一般的と思われるところから少しずれていたのだ。それまでの僕がなんとなく暇つぶし程度で鑑賞していたのとは全く世界が違うような、衝撃的な小説や音楽をよく知っていた。

 その中には過激で結構エグいものもあって、知ったら引いてしまう人間も居そうなものだが、僕にとっては二面性というか奥行きみたいなものを感じさせる魅力の一つとして映っていた。誰にでも見せるわけではないような一面を見せてくれたことが嬉しかった。

 過激といっても娯楽として破綻しているレベルのものではないので普通に楽しめていたとはいえ、もともと作品を熱心に鑑賞する才能がないというか、何にも大して関心の持てない僕は正直そこまで本格的にのめり込めてはいなかったが、彼女の世界に近づこうと会話のきっかけにするためだけに勉強していた。

 それでこれほどの数を揃えたのは我ながら大したものだと思う。何にも使われずくすぶっていたエネルギーが、一斉にひとつの場所へ向けられるというのはこういうことなのだ。自分は決して無気力ではなく、適切なアウトレットが用意されていなかっただけなのだと当時も感じたものだ。

 しかし、思えばそんな不誠実さすらひょっとしたら見抜かれていたのかもしれない。

 まあ、今となってはどうでもいいことだ。

 CDを元に戻し、僕はベッドに寝転がった。

 習慣で言えばいつもはまず制服を脱ぐし、鞄を置く動作も入る。だが今日は着替える気力もなければ、通学鞄はそもそも手に提げていなかった。

 激痛で投げ出したあと一旦は拾ったはずだが、透明状態で持ち運ぶと鞄だけが空中を移動しているように見えてしまうため邪魔だった。それでどこへ置いたかは記憶が曖昧だ。回収することを思うとかなり面倒な気持ちになった。

 脳内麻薬に漬かったハイの状態も終わり、どっと疲れが押し寄せてきた。心地よい興奮も緊張も冷めきればただの疲労となる。

 なんとなく自分の右手を見つめた。

 そう。右の手のひらは、しっかりとそこにある。

 ただそれだけの事実によって、先ほどまでの出来事にも急に現実感がなくなってくる。人間の姿が消え失せるなんて、視覚を通して認識している最中でさえ信用しきれるものではないのだ。

 夢だった、ってわけじゃないよな?

 透明状態は解除されていた。

 時間切れで強制終了したわけではない。偶然そのタイミングと重なったのでなければ、解除したのは僕自身の意思でだ。消えたいと願ったときの逆をやった。戻るときはあっさりとしたもので、体に痛みが走ることもなかった。

 思わず溜め息が漏れる。

 この手に感じるはずだった彼女の柔らかな体の感触は、実際には何一つ残ってはいない。

 結局、何もできなかったのだ。

 接近した時点では情動を全身にたぎらせていたはずである。もはや自分でさえ制御できないと思った。

 そして、校内ですでに別れたあとだったのか一人で歩いていた彼女。その顔を覗き込んで、思わず固まった。

 一見すれば何のことはない笑顔。しかしこちらにとってはそれ以上の意味を持っていた。かつて見たことがないほどに緩んで、幸福感に満ちていたからだ。半端に終わってしまった儀式、もしくはそのあとに行われた何らか、それら恋人との時間の余韻を一人で噛みしめている、そんな表情だったのだ。

 僕はまたも逃げ去ってしまった。

 怖じ気付いたとも言えるがそれ以上に、この子を傷つけてはいけないと僕の中の何かが警告したのだ。あれほど激しく燃え上がっていた悪の炎が、それだけでふっと吹かれたように揺らめいて、あっさりと消えてしまったのであった。

 蚊帳の外でも眼中になくても何でもいい。いっそもし本当に陰で悪口を言われていたとしても。彼女があんなふうに笑っているならそれでいいじゃないか。

 にわかには信じ難いが、あの子の幸せそうな横顔を見た瞬間そうとしか表現しようのない気持ちが内から湧き出てきたのだ。こんな人間の中からだ。

 笑うしかない。増長したストーカー風情がいきなり格好付けだして、まるで純粋な心であなたを愛していますといった顔をして気取っているのだ。どこまでもダサくて都合がよくて、それでいて何も起こっていない。一人で盛り上がって、一人で大人しくなって、なんて滑稽な失恋なんだろう。

 いや、もういい。終わったことだ。自分の中で半ば無理やりに納得させたそれは掘り下げていけばいつか覆ってしまいそうだった。だから、さっさと考えるのをやめなくてはならない。

 切り替えだ。次に移ろう。

 試しにもう一度「消えたい」という想いで頭を満たしてやると(簡単なことだった)、全身にぴりぴりと痛みの一歩手前のような感覚が走った。

 激痛が想起されてすぐに念じるのをやめながらも、心の中でガッツポーズする。一度きりの使い捨て能力ではなかったのだ。感覚が気のせいでなければ、おそらくまた同様に透明状態になれる。しかも痛みを伴うとはいえオンオフは任意と来ている。話の分かる能力である。

 何もセクシャルなことばかりではない。この能力さえあれば何だってできる。下校する生徒たちがゴミのように見えたことを思い出す。上手く使えばこれから先もっと要領よく世の中を渡っていけるはずだ。

 さらに僕は今、すでに冷静な思考を取り戻している。もちろんすぐさま覗きに出かけたりはしない。今日は体力が限界なのでもう休む。明日から活動を開始しよう。まずは与えられたものについて知り尽くすことからだ。検証に検証を重ね、少しずつ実戦に移していく。

 実戦……。

 自分で出した言葉に情欲を刺激された。結局エロだ。この世に存在する男子学生の誰がその欲求に抗うことなどできようか。何をしよう。恋にも似たときめきが溢れて止まらない。こんなに活き活きしている僕自身を少し前までは想像することさえできなかった。

 一人で部屋でテンションが上がってくる。布団を無意味にばんばん叩いてしまう。体の疲労さえなければ外へ駆け出していきたい気分だ。言ってしまえば体を不可視化するだけでしかないのだが、自分がまるで一つ上の、いや全知全能の存在として生まれ変わったかのような気分だった。そうだ、僕は……

「神だ!」

「調子に乗るでない」

 独り言に突然返事され、思わず飛びはねた。その拍子に足がつってしまった。

 パソコンかケータイが発した音声だろうかと思い込む余地もなかった。こむら返りの痛みに悶えながら顔を上げると、そいつはこの狭い部屋の中央に、とうてい無視できないほどの圧倒的な存在感を持って立っていた。

 老人。どこか色素の薄い肌に白い服を着て白い口髭を生やして淡い光をまとう、真っ白なじいさんだ。とはいえよく見れば実際にその体が発光しているわけではない。一切の汚れのない純白の衣服が部屋のしょぼい蛍光灯の明かりを神々しく反射させているのだ。

 いつの間にどこから入ってきたんだと当然の疑問があったが、口から出そうとして寸前で飲み込んだ。僕の中の常識というものは消失した自分の姿を鏡に映したとき一度すでに再構築されているし、老人の佇まいはやはり元々持っていた物差しでは測れそうにないほど現実離れしていたからだ。

 自分の中の語彙に当てはめるとすれば、まさに、神そのものの姿。

 誰だ。と尋ねると、GLの神だ。と返ってきた。神はさらに間を空けず、お前にその力を与えた者だ。と付け加えた。

 GL、というのは意味がよく分からなかったが、後半の文言に関してはさほどの驚きもない。

 予想はついていた。普通に考えれば突然に発現した能力とそれに続けて現れた神様を名乗る老人とが別個の現象であるはずがないからだ。まずは疑う必要もないだろう。

 問題はじゃあその神が、なんのために僕の目の前に姿を現したのかということである。

 ふくらはぎの痛みが収まってくると、こちらの考えていることを読んだように神は切り出した。

「物井健よ。説明と警告をしにきた」

 不法侵入してきたわりには世間話でもするように真面目さを感じさせない口調だった。

「お前のその、体を透明にする能力。開始と終了のタイミングは任意だ、やり方はすでに分かっているだろう。二十四時間経つと強制的に元に戻るが、一日の使用制限などはない。何度でも好きに使うがよい」

 気になっていた部分を一気に説明される。そのまま信用するならば検証の手間が省けたことにはなる。だが今そちらはどうでもよかった。関心は後半部分に移っていた。

「警告、っていうのは?」

 聞くのは恐ろしいが、おそるおそる尋ねる。

「タダではない、ということだ。発動するにつき使用者にはその身から代償を支払ってもらわねばならん」

 と神は言った。

 最初に能力を自覚した時点で、頭のどこかにはあった。何らかの対価が徴収されるのではないかという恐怖。

 この老人の呑気な話し方からして底意地の悪さがにじみ出ているのだが、何度でも好きに使えだなどとはよく言えたものだ。一度ごとに失われるものがあると知った以上、気軽に発動できるわけがない。そもそもその身からと言っているのだから限度額だってあるだろう。

 そして、代償とは何か。発動時の激しい痛みがそうなのだろうか? いや、口ぶりからして神は僕が一度能力を使ったことを知っているようだった。なら少なくとも痛みそのものを今さら警告しにくる必要はないはずだ。激痛のあいだに何かが起こっている、という考え方はできるが。

 身長が縮む、寿命が減る、感情が乏しくなっていく。想像できるそれらはすべて、過去なんらかのフィクション作品で見たものでしかなかった。もっと何かとんでもないコストを要求されるような気がしてならない。

 重要なのは発動のたびに一単位という段階的なものであるということだ。いわば自制心を試されているのだ。だいたい何を差し出すにしても、ここまでは失ってもいいというラインが存在する。そこで止まれるかどうか。力を手放すことできるか。

 おそらく自分には無理だ。姿を消して動く快楽を本格的に知ってしまえば、あるところを境にきっぱり使用をやめるなんてことはできるはずがない。あと一回あと一回とまず最初に決めていた線をぼかし、はみ出し、取り返しのつかないほどに失い、するとまたあるタイミングを越えたところでどうでもよくなり、どうせここまで来たのだからと空っぽになるまで失い尽くすであろう。

 そうやって破滅する自分の姿がはっきりとイメージできてしまい、戦慄を覚える。

 いっそ今、この神に力を返してしまおうかとも考えた。頼んで使えなくしてもらうのだ。だが心は拒否する。透明人間としての生活にあれだけ期待していた自分自身にあきらめろと言い聞かせるのはかなり難しい。しかし一回きりでいいからと使ってしまえばもうアウトだろう。

 頭ではよく理解しているのにどうにもならない、とんでもなく間抜けな板挟みであった。

 とにかくまずは事実を把握しなくては。

 意を決して先を促す。

「代償って」

「寿命だ。その能力は、残りの寿命を削ることで発動する」

 物騒な物言いのわりにどこまでも緊張感がない。カレーの作り方でも説明するような声調子なのだ。

 にしても、寿命というのは厄介だった。斜め上の対価を告げられるのではないかと身構えていたので一瞬だけ拍子抜けしたが、全く安心できるようなことではない。少なくとも一回はすでに寿命を削って能力を使ったのだということを考えても、現実味が薄い。

 つまり、際限なく寿命を減らしてしまう可能性が高いということだ。平均で考えれば何十年も先にある人生の終わりの点がほんの少しこちらに近づいてきたくらいでは、はっきりと数字にでもされなければとても危機感など覚えられないだろう。

 あとはどれほどの重さかだ。数時間、というのはさすがに甘く見積もりすぎに思えたが、単位が小さいほど危ないような気もする。一日、一週間、一ヶ月、それ以上……たとえば一回につき一年となると、かなり使用を迷うだろう。まさに命を削るといった感じだ。

「一回に必要な寿命は、どれくらい?」

「六十五年だ」

 あまりにもしれっと放たれたその言葉の意味を、すぐには理解できなかった。

 体の反応がまずあって、思考はそれを数拍遅れて追いかけていく。胸のあたりが空洞になったように感じた。下半身の力が抜けてなすすべなく床に座り込む。しばらくの間を空けてから、頭の中に激しく情報があふれだす。

「えっ」

 六十五? と間抜けに復唱した自分の声は笑ってしまうほど上擦っていた。体はくずおれたまま動かず、衝動的に掴みかかる気力もなく、神の顔を見上げることさえかなわない。

 力を使った代償として六十五年をすでに徴収したと、本気でそう言うのか。それは一般的な命の量から考えれば、とても人生の授業料なんてもので済まされるような年月ではない。そして先ほど一度能力を発動しようとしてやめたことを思い出す。もしあれを続けていたら痛みの中でぽっくり死んでいたかもしれないということに気づき、ぞっとした。

 頭の大部分はまだ白く満たされている。陣を組んで刀を構えていたところにヘリから爆弾を落とされたような腑に落ちなさだ。

「冗談ではないぞ」

 神は厳格さを感じさせない音吐で、しかし無慈悲にこちらの逃げ道を塞いだ。

 今もまだこうして生きていられるのはなぜだ。最初から平均寿命より長く生きる運命だったとすれば計算の合う範囲ではある。しかし僕には恩赦の、というより宣告のためのロスタイムであるように思えてならなかった。この対話が終わりしだい事切れるのではないかという考えが頭をよぎる。

 楽観視しすぎていた。代償があると知りつつ欲に負けて際限なく力を使ってしまい深みにはまっていく自分、ほんの少し前まで目の前に存在していたそのイメージ。だが甘すぎた。僕はとっくに頭のてっぺんまで沼に沈んでいたのだった。

 体が震えだした。思わず自分の肩を抱く。すぐにでも発狂を始めてしまいそうになっているこちらとは対照的に、いっそ腹立たしいほど落ち着き払った神が平然と話を続ける。

「そもそもがこれは神の器あってこその能力なのだ。跳ね返るものも省みず安易に分不相応な力を使ったお前が悪い」

 自分で勝手に力を授けておいて、あまりにもひどい言い草だ。

「じゃあなんで自由に使い続けろなんて言ったんだよ? もう使えないことを知った上で」

「はっはっは」

「笑うためか!」

 今までの喋りに感情の起伏が乏しかったのは、笑いをこらえていたからなのだろうか。やはりこいつの性格は最悪だと認識する。

 やっとの思いで立ち上がり、あらためてその身がまとっている白いオーラを見ていると、何か催眠術のようなものに掛けられている気がしてくる。先ほどから神の言葉は、逃がれられない説得力をもって頭の奥に響いてきていた。

 そして代償の件までを喋り終わると、神は途端に饒舌になりだす。

「よく聞け。これは罰なのだ」

 思いも寄らない言葉に面食らう。

「罰?」

「お前は、可憐なる少女たちの聖域を破り、あろうことか穢そうと考えたな」

 心臓が飛び跳ねた。

 全て見られていたのだ。能力を与えられて以降ではない。それ以前からの行動まで全て。考えていたことまで読まれている。こいつは文字通り、天罰を下すためにやってきたのだ。

「私は人目を忍んで愛し合う少女たちを眺め、楽しんでいた」

 一転して感情のこもった声で語り始めた。

「そこへ間抜けにやってきたのがお前だ。恋愛感情を抱えていたのも丸分かりであったぞ。ふざけおって。ブッサイクな面して。何様のつもりだお前は。私は少女と少女の絡みが見たいのだ。いいか? 男は汚い。男はいらない。男が出てきて誰が得するのだ。調子に乗るな」

 酷すぎる言われ放題っぷりや隠そうともされない妙な性癖のことが少し気になったが、何も言えない。

「一度は許そうと考えた。何もせずにその場を逃げ出し、さらに『消えたい』と強く願っていたからだ。殊勝な心がけだと思ったものだ。だから私はお前に自らを消し去る力を授け、おまけで寿命も大幅に減らしてやった。美しい少女を前に潔く背景となり、人知れずその命を終える。そんな日本男児としてあるべき魂を持った立派な男に、心ばかりの餞別のつもりだったのだ」

 しかし! と神は強調する。だんだん言っていることの意味が分からなくなってきており、次から次へと疑問が湧いてくるのだが、激しいたたみかけはこちらに発言の余地を与えてくれない。

「お前はその力を使い、あろうことか、少女に暴行を働こうとしたな」

「ちょっと待ってくれ」

 なんとか話を止める。ここだけは反論しておかなければならない。ここの誤解だけは解かなければ。

「暴行じゃない」

「確かに未遂だが」

「そうじゃないんだ。僕がやろうとしたのなんて、せいぜいスカートめくるとか、胸を触るとか、そんな程度のことなんだよ。暴力なんて振るおうとしちゃいない」

 予想外の言葉だったのか一瞬、あっけに取られたような表情を見せた。だがすぐに顔をしかめてこちらを睨む。保身のために嘘をついていると思ったのだろう。

「強姦をする気がなかったと言うのか」

「当たり前だ! この僕にそんな度胸あるように見えるか?」

「あの血走った目で、そんな小学生の悪戯のようなことを考えていたなんて言い訳が通るわけがなかろう」

「う、うるさい! 僕にとって透明人間になっておっぱいを触るっていうのは、正面から押し倒してセックスするのなんかより何千倍もいやらしくて興奮する行為なんだ!」

 そんな熱弁を受けた神は、呆れたように「お前なかなか気持ち悪いぞ」と呟いた。こちらも我に返って気まずくなり、言葉が続けられない。気持ち悪い、は僕のいかなる動作をも制止する呪いのワードだった。

 その後しばらく間があって、ようやく神は咳払いを一つし、いくらか厳粛な雰囲気をまとい、真剣な顔つきで話し出した。

「暴行するつもりはなかった、というのは分かった。分かったということにしよう」

 だが、と続ける。

「それは関係のないことだ。裁かれるべきは私の気持ちを裏切って少女に危害を加えようとした事実そのもの。お前はれっきとした犯罪者予備軍であり、放っておけばいつか本当に取り返しの付かない事件に発展する可能性もある。諦めろ。これは私自身の怒りであると共に、大いなるユリブタの意志でもあるのだ」

 ユリブタ。聞いたことのない言葉だが、どこか神聖な響きを持っている。神の上位の存在ということなのだろう。

 いや。そんなことより、希望が断たれてしまった。もはや助かる術はないのか。寿命はすでに尽きる寸前なのだから、裁きとは死より大きな苦痛を伴う何かに違いない。

 そう考えて怯えていたが、神が発したのは意外な言葉であった。

「まずお前の寿命を返す。そして力も没収する」

「は?」

「当然だ。もともと私の勘違いでやってしまったこと。人間に勘違いで働きかけた者は反省し埋め合わせをしろといった規律が存在するわけではないが、ミスをそのままにしておくというのは私自身の沽券に関わる。だからこれはなかったことにする」

 何やら分からないが、寿命を返されると聞いて少し気が楽になった。

 と同時に、どうやら最初からこうするつもりだったということは、能力や寿命に関する説明に寄り道させなかなか話を進めなかったのも本当に僕をからかうためだけだったんだなと思った。

 じゃあ、罰は?

 前川さんの顔が浮かぶ。彼女を辱めようと考えたことは、一体どれほどの罪に値するのだろう。

 あくまで未遂だ。というより、頭でそのことを考えただけだ。普通は逮捕されないどころか、自分で警察署に行って頭を下げても拘置所には入れてもらえないであろう。

 だがそれは人間のルール内での話だ。この神の、そしてこの神が背負った大いなる意志の前で、僕は裁かれようとしている。

 どれほど重い罰を受ければ、どれほど長い期間をかければ、あの優しい少女を性的欲求という膜越しに見てしまった咎を償えるというのだろうか。

「そして、肝心の罰だが」

 色々と考えてはみたものの、神への狂信めいたそんな思索は全て、あまりにも容易に予測できてしまうそれから逃避するためのものでしかなかった。

「性犯罪者に対するペナルティ。そんなものは一つしかないではないか」

 そう、一つしか考えられなかった。

 神は告げた。

「去勢だ」



<3>

 十二月の日曜日だった。真昼にもかかわらず身を切るような寒さで、道行く人々はみなコートなど着込んでいる。

 虫や獣は息絶えたり、それを拒んで冬眠したりする。冬には常に死や別れ、終わりのイメージがつきまとっている。まして今日の空は雲が立ち込め、暗い。

 そんな街の中を神は、白い大きな布に穴を空けて首を通したような、乞食と見まがうほどに粗末な格好で移動していた。人間やその他の動植物といったものと別次元にいる彼には、どんな極寒も関係がない。

 GLの神。

 厳密には神仏に値する存在ではない。ある程度いろいろな、たとえば生物の寿命や機能を思うままねじ曲げたり、他にもステルスや飛行能力など、さらにはそれを人間に分け与えたり、そういった超能力の才能に『偶然』目覚めただけの、もとは一介の男性でしかない。老人の見た目も威厳を演出するためで、実際は四十代半ばのおっさんである。

 だが自分自身を神と名乗り、白い光をまとった。肩書きそのものや人間に対し威圧感を与えることを楽しんでいた。

 神は自称のごとくガールズラブ、つまり女性同士の恋愛をこよなく愛している。男である自分が決して女性の花園に介入してはならないと考えていた彼は、自分の姿を消す力によって望み通りに完全な傍観者となることができた。

 街でカップルらしき少女を見守ったり、場合によっては長期にわたって見守ったり、近づいてくる男をさりげなく遠ざけたり。そんなふうに過ごしながら、本物の神様がいるとしてやっていることは自分と大して変わらないだろうとも考えていた。

 だが今日の目的は少し違っていた。

 数年前の春、彼は物井という少年と関わりを持った。能力を与え、寿命を奪い、寿命を返し、能力を奪い、去勢した。去勢といっても性器を切断したわけではない。脳をいじって性欲を奪い去ったのである。

 それもただ、からかっただけだ。遊び半分に驚かしてやっただけ。もちろんこの世で最も尊重されるべき存在である少女を傷つけかけた彼への怒りはあったが、本気で一生そんなハンデを背負わせるつもりなどは毛頭なく、失われた性欲は一ヶ月経てば元に戻る仕掛けだった。

 その出来事をふと思い出し、今どうしているだろうかと気になり、暇に任せて会いに行くことにしたのだ。

 家はすぐに見つかった。古アパートの一室。現在はここで一人暮らしをしているはずだ。神は表札に目的の男の名前が出ているのを確認してから、ドアを開けることなく部屋に入っていく。

 ワンルームで、男の独居にしては片づいているという印象だ。

 棚に聞いたこともないバンドのCDや本が隙間なく並んでいるのが目についた。というより、その棚以外に物がなさすぎる。不気味なほどこざっぱりとしており何か嫌な予感がよぎるが、思い返せば以前訪れた部屋もこんなものであったような気がした。単にそういう性格なのだろう。

 不在かと見えたが、まもなくドアを開けて出てきた。トイレに入っていたようだ。本人に間違いない。彼は外行きとも部屋着とも言えない中途半端なだらしなさの服を着ていた。携帯電話を軽くいじったあとズボンのポケットに入れ、今度は玄関のドアを開けて外へ出て行った。

 家を出て数歩進んだところで姿を現すと、物井はあっと声をあげた。一歩下がった体勢でしばし固まっていたが、その後まず放ったのは

「お久しぶりです、神様」

 という一言だった。

 違和感。こいつは、こんなだったか?

 一瞬、脳裏に何やら嫌な予感がよぎったが、とはいえあれから何年も経っているのだ。思春期の少年の性格が変わるのには充分すぎるほどの時間があったと言える。

 どこへ行くのか尋ねると、散歩ですと彼は答えた。少し歩きながら話したいんですが、と言うので了承し、なるべく目立たないような一般人の姿に変身してから、二人で並んで歩き出した。

 物井は口調や態度が落ち着いているだけでなく、見た目も変わっていた。もともとの顔のつくりが特徴的なので本人と分かるが、険が取れたというか、卑屈さが浮き出ていた以前とは違って明るく余裕のある顔つきになっている。醜さも多少ましに見えた。

「去勢の呪い。あれすぐ消えちゃいましたよ」

「すぐ消えるようにしておいたからな」

「それで今日は、どういうご用件で。神様に怒られるようなことは何もしていないと思うんですが」

「以前会ったときのお前は犯罪者予備軍としか言いようのない、限りなくストーカーに近い存在であったからな。万が一また犯罪に走りそうになっていれば今度こそ去勢しなければならないと、そう思って経過を見守りにきたのだ」

 大丈夫ですよ、と物井は笑った。今はもう、あまりそういうことには興味がないのだと。

 公園にやってきた。この寒さの中でも元気に遊んでいる子供たちがいる。ジャングルジムの撤去された跡地に丸く線を引いて、缶けりをやっているらしい。二人は色の剥げかけたベンチに腰を下ろした。

「性欲がなくなってすぐはもちろんショックでしたけど、でもしばらくしたら、今までにないほど心が落ち着いている自分に気づいたんです。女の子に対する後ろめたさみたいなものも、多少軽くなって」

 物井は遠い目をする。

「思えば、力を手にしたときの僕は愚かでした。二人だけの秘密の空間を腹いせに壊してやろう、なんてのは言い訳でしかなくて、結局はただ性欲に取り憑かれて暴走していただけだった」

 自嘲気味に語り続ける。それはまさに神の前で、自らの罪を懺悔しているかのようだった。

「恋だとか性だとかのフィルターを通して人を見るのが、そもそも不誠実で全ての間違いだったんです。そういったことを放棄してからは、とても気楽に彼女と友人として付き合えていました」

「お前は彼女に嫌われているのではなかったか」

「そんなの僕の思い込みですよ。そっけなかったり、メールが返ってこなかったり、その程度のことでいちいち傷ついてたんです。僕に媚びて機嫌をとるために存在してるんじゃないんだから、機嫌が悪くてまともに相手する余裕なんてなかったり、忙しくてメールに返信できないことだってありますよねえ」

 神はだんだん目の前のこの少年のことが不気味に思えてきた。言っていることは非常にまともに聞こえるが、どうしようもなく気持ちが悪い。成長したというより、人格がすげ変わってしまったような印象を受ける。別人だ。

「前川さん――あの子のことです――卒業を前にして、彼女と別れたと言っていました」

 思春期の恋愛は儚い。あっけなく終わりが訪れるものだ。少女同士の蜜月はいっそう脆く、泡が弾けるように消えてしまう。神は多くの幼い恋を見守り、ときにはその終焉さえも見届けてきた。さほど驚くようなことではない。

 それより、彼がそのことを彼女自身から聞いたというのが意外だった。

「同性と交際しているという事実、本人から聞き出したのか」

「別れたって報告と一緒に打ち明けてくれましたよ。ずっと誰かに話したかった、って」

「それはお前、嫌われているどころか、ずいぶんと信頼されていたのではないか?」

「さあ……どうなんですかね」

 何か思うところがあるように、物井は複雑そうな顔で苦笑した。

 そしてそれきり何も言わない。

 公園にカップルが入ってきて、二人とは離れた位置のベンチに座った。何を喋っているのかは聞き取れない。いや、神はそうしようと思えば聞き取ることも可能であったが、特に興味がなかった。遊んでいる子供たちを見て何やら笑い合っているようだ。

 話題を変える。

「今は何をしておるのだ。定職についているようには見えぬが」

「失恋した彼女を慰めているとき僕は理解したんです」

 押し黙っていた彼が急に大きい声を出し、神は少し驚いた。おまけに話を完全に無視している。

「おこがましいんですよ。人が一人の人間を独占してしまおうって考え方自体が。そういう恋愛なんて概念があるから前川さんのように傷つく人間が出てくる」

 物井はベンチから立ち上がって両手を広げた。その目はどこも見てはいない。

「かといって一人で生きるなんてことはもちろんできません。一人で生きられると豪語するのは本当の孤独を知らない者だけでしょう」

 本格的な演説が始まってしまった。

「ですから僕は、全ての人々が基本的に個の存在となり、お互いがお互いを友人隣人として尊重し、誰一人誰かに独占されたりペアで寄りかかることなく、適切な等しい距離で支え合い助け合う、そんな社会の実現を目指して、恋愛の完全廃止に向けて活動中なのです」

 顔がキモすぎて狂ったか……。

 そう小さく呟いた神は、今すぐにでもその場を逃げ出したい気持ちであった。

 目の前の人物がいくらふざけた思想を振り回しているとはいえ身の危険を感じる必要などはないのだが、彼がこうなってしまった責任の一端が自分にあると思わされたくなかったのである。

 ただ一点だけ、どうしても気になったことがあった。

「おい、物井健」

 気づけばカップルはいなくなっていた。目の合いかねない位置でこんな不審者がわめいていては無理もないだろう。空は雲にいっそう黒く塗りつぶされていた。

 なおも語り続けている彼を、神は見上げる。

 話の雰囲気や彼の態度から何となくそう思ったというだけで、ほとんど勘でしかないが、どうも今の話の中には意図的に隠されている部分があるような気がしたのだ。つまりこういうことである。

「もしかしてお前、前川に告白して振られたのではないか?」

 物井の声がぴたりと止む。

 向き直って神の顔をじっと見つめたかと思えば、すぐに目を逸らした。

 静寂が訪れる。公園の外からバイクの走り去る音が聞こえてきた。

 口をもごもごさせて何か反論の言葉を探していたらしき彼は、やがてその顔にあきらめたようにうっすらと笑みを浮かべ、ふっと息をついた。

「おこがましいんですよね。人が、誰か一人を独占してしまおうって考え方自体が」

「それはさっき聞いたぞ」

「ですから僕はこう思うんです」

「おい」

「全ての人々が基本的に個の存在となり、お互いがお互いを友人隣人として尊重し、誰一人その存在を誰かに独占されたりペアで寄りかかったりすることなく、適切な等しい距離で支え合い助け合う、恋愛が完全に廃止された社会を実現しなくてはならないと」

「お前、泣いておるのか?」

「泣いてません」

「定職には就いておるのか?」

「就いてません! 関係ねえだろうが!」

 みじめな叫びが空へ吸い込まれていった。

 物井は脱力したようにベンチに腰を下ろした。すっかり項垂れてしまい、もはや先ほどまでの落ち着いた雰囲気はただ陰鬱で情けないだけのそれに変わっている。

 そんな様子を見て神は自分が感じていた違和感の正体に気づいた。

 先ほどまでの彼は、会話をしていても言葉を上滑りさせるばかりで、目の前にいる自分に近づいてこようとしなかったのだ。まるで遠い闇の中にぽつりと立って独り言を呟いているようだった。

 分厚い鍵のかかった扉があって、そのこちら側に自分が、向こう側に自分以外の全ての人間がいるような気がする、と物井は言った。自分は漏れてくる音を聞いているだけで、その中へ入っていくことはできないのだと。

「僕は本当にいつもいつも、一人で勝手に盛り上がってばかりですよ。これならいっそ」

「消えてしまいたい」

 彼はゆっくりと首肯する。

 涙を拭いながら、だんだんと喋るスピードも遅くなっていった。

「あのとき、自分だけ何もかもから仲間はずれにされたような断絶を感じました」

 物井は数年前のその出来事と一緒に、自分が消えたいと強く願ったときのことを思い出しているようだ。

「それで結局、最後まで彼女の世界には入れてもらえなかった。僕には前川さんのおっぱいを触る資格がなかったんですね」

 女の子のおっぱいが触りたいなあ、とさりげなく関係のない一言が付け加えられる。

「随分といい度胸だな。目の前にいる私がどういう存在か忘れるなよ」

「ああ、全然それっぽいこと言わないんで忘れてました。……また前みたいに、殊勝だとか言って透明にしてくれないんですか」

「断る」

 孤独の滑稽さに耐えかねたあげく消えたいと祈ってみても、人間が本当に消えてしまうことはできない。誰かの世界へ踏み込めないことを憂えて、あきらめた末に自分から壁を作ろうとしているだなんてあまりにも虚しいではないか。

 だが物井が今までどんな人生を歩んできたのか、どれほどの闇を抱えているのか、卑屈な性格が形成されるまでの過程、なぜあの前川という少女にそこまで入れ込んでいたのか、どんなふうに想いを伝えてどんなふうに拒絶されてしまったのか、神は何も知らない。

 くだらないから前を向いて生きろと激励したところで、彼の心には届かないだろう。もとよりそんなことをしてやる義理もない。

 ただ。

「一つだけ、言えることがある」

 物井はおもむろに顔を上げ、神の方を見た。

 それは、以前彼に去勢を告げるために部屋を訪れたときから胸の内にあった言葉だ。

 今度は神がベンチから立ち上がる。人目がないのを確認してから、老人の姿に戻った。やはりこれでなければ気分が出ないのだ。勿体付けた動作で、節くれだった指を、彼に突きつけた。

 宣告、である。

「お前はものすごく女々しくてエロくて気持ち悪いので一生、女に好かれないであろう」

「てめえやっぱりまた僕をからかうために来たんだろ!」

 物井は声を荒げて勢いよく掴みかかったものの、神は一瞬にしてホログラムのように実体のない体に変化した。服を掴んだ手の感触もなくなり、支えをなくした体がつんのめって地面へと倒れ込む。

 神はお別れの挨拶として笑顔で手を振りながら、徐々に透明度を上げていく。

 そして、ずりぃぞ、ふざけんな、とわめく男を尻目に、とうとう完全にその場から消え失せてしまったのであった。


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