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その6 それからのこと。

 通勤途中に小さな喫茶店がある。

「獣耳珈琲店」という看板が出ている。

 ウェイターの青年は、いつも気持ちのいい笑顔だ。

「シノブ」君という名前だと、つい先日知った。

 別の世界から来たひとで、だから獣耳としっぽがあることも、その時知った。

 詳しい話は、シノブ君の口から直接聞いた方がいいでしょう、と黒縁眼鏡のマスターが言った。

 でもその日は、自己紹介をしたまでで終わってしまった。

 頭の中がいっぱいいっぱいだった。

 ランチの豚のショウガ焼きは、口に入れるとショウガが結構効いていて、付け合わせのキャベツとご飯がぴったりあう。ご飯のおかわりをしたいくらいだったが、気がつくと食べ終えてしまっていて、空っぽの皿を前にして、いろいろぐるぐる何かしら思っていたけれど、やっぱり、いつまでも店にい続けるのは無理だった。何か会話でも、とも思ったのだが、話題を思いつくほど思考も回っていなかった。

 ただ、もう。

 シノブ君に自分の名前を覚えてもらった。もうそれだけで。

 足下がふわんふわんしている気がした。

 シノブ君の話をもっと聞きたいと思っていた。

 たくさんたくさん話をしたかった。

 意識の下では、話をするだけじゃなくて、もっと……たとえば、あの柔らかそうな髪に触れたりとか、すべすべしていた手をしっかり握りたいとか、肩に手を回したりとか抱きしめたりとかしたらどんな感じだろうかとか……思っていなかったといえば、嘘になる。

 や。やっぱり、シノブ君に話を聞くのが先だ。

 いつ、どんな風に話をしよう。

 でも、異世界の話とか、耳とかしっぽの話になるだろうから、目立たない場所の方がいいに決まっている。いつもの隅っこの席じゃなくて、カウンターの方が話しやすいかもしれない。でも、カウンターにはたいてい常連さんが座っている。穏やかな感じのおじさんは大丈夫そうだけれど、シノブ君によく声をかけている若い人からは、うろんな奴という目で見られそうだ。

 じゃあ、たとえば、シノブ君の家で、とか……

 まさか、そんな、いきなり、家に行ったりとか……そんなことは……ない……と思う……のだが……

 でも……

 もしかして、それが現実になったりしたら……

 俺はひとりで赤くなったり青くなったり、ぶるぶる震えたり、頭をかきむしったりした。だが妄想は止まらない。むしろ膨らむばかりだった。

 焦っても仕方がない。

 とりあえず結論を出した。

 とりあえず、いつも通りに、水曜日の夜に、会社の帰りにコーヒーを飲みに行こう。その時に、話せたら話せばいいし、無理そうなら、また次の機会を待てばいい。

 気の長さなら自信がある。大丈夫。

 そこまで考えて、ようやく安心した。

 そして、月曜日の朝を迎えた。

 ところが。

 こんな時に限って。

 月曜日の昼近く、急な仕事が降ってきた。

 結構面倒くさい仕事だった。調査してまとめて報告書を次の月曜日までに提出しなくてはならない。しかも会社のシステムしか使えない。もちろんデータは社外に持ち出せすわけにはいかない。そのうえ、土曜日の午後から日曜日にかけてシステムメンテナンスが入るから、その間はシステムを使えないときた。

 俺はがんばった。

 日常のルーティンワークもこなして、毎日残業した。

 だが仕事のめどはつかなかった。

 水曜日にコーヒーを飲みに行くどころではなかった。

 木曜日の夕方になって、ようやくめどが見えてきた。金曜日に少しばかり無理をすればなんとかなりそうだった。

 ところが、金曜日にめいっぱい残業したのに、少しばかり残ってしまった。

 仕方なく、土曜日の朝から出勤した。

 メンテナンスが始まる直前に、ようやく報告書を提出できた。

「おわった……」

 誰もいない職場でつぶやいた。

 目は疲れてしぱしぱだし、肩は凝ってばりばりだった。

 これだけがんばったんだから、獣耳珈琲店に寄って帰っていいよな。

 自分でそう決めた。

 獣耳珈琲店のランチは何時までだっただろうか。

 本来ならゆっくり土曜日のランチを楽しんでいるはずなのに、時計の針は十二時を回っている。

 気を取り直して、獣耳珈琲店のランチを目指して気持ちを切り替えようとした。だが、やっぱり疲れていたようだ。電車で寝てしまった。目を覚ました時、一瞬どこだかわからなかった。なぜか乗り過ごしたと思った。あわてて降りた。

 そうしたら、なんということか、降りる駅の一つ手前の駅だった。

 自分でもびっくりした。そしてちょっとだけ途方に暮れた。この一駅の距離をどうしよう。

 次の電車を待とうかとも思った。時刻表を見ると、十分後だった。

 でも、一駅のために十分待つことを考えた。ここから歩いて獣耳珈琲店に行っても二十分ぐらいの距離だ。店に行き着く時間はそれほど変わらない。それなら、日頃足りない運動と思って、歩いていくのもいいのではないだろうか。

 俺はため息をひとつつくと、鞄を胸に抱えるようにして歩き出した。

 なんとなく、車通りの多い表通りではなく、商店街になっている一本入った道を選んだ。

 まさかそれが。

 その選択で、こんな光景を見ることになろうとは。


 目の前を、ふわんふよんとしっぽが揺れる。

 もしかして……?

 シノブ君?

 

 自分の目を疑った。

 心が、ふわわわっとあたたかいものに包まれた。今までの小さな不幸の積み重ねは、この幸運のための布石だったのか、とさえ思った。

 見間違いじゃない。

 シノブ君だ。

 獣耳珈琲店のシノブ君だ。

 帽子で耳は隠れているけど。ぴんと伸びた背筋。しゅっとした後ろ姿。短いジャケットの裾からは、すんなりと伸びたしっぽ。

 そのしっぽが、ふわんふよんと揺れている。


 商店街に人影がないわけではない。

 むしろ通行人の数は若干多いくらいだ。

 でも、よくよく見ていると、皆、普通に素通りしている。まれに振り返って、二度見する人がいるくらいだ。

 しっぽがついてるのって、そんなに大騒ぎすることでもないのかな。シノブ君も以前に店の前で花に水をやっていたし。あれはこの商店街からさらにもう一本入ったところの獣耳珈琲店の前だったけど。

 むしろ、鞄を胸に抱えたままで、シノブ君をまじまじと見つめている俺の方が不審者のようだ。

 胸のどきどきは外にまで聞こえそうなくらい激しいし、さっきから声をかけようかどうしようかぐるぐる悩んでいるし、ふわんふよんと揺れるしっぽは気になって目が離せないし。

 シノブ君は両手に荷物を提げている。ちょっと重そうだ。

 俺はひとつ深呼吸した。

「シノブ君!」

 精一杯の勇気をふりしぼって、声をかけた。

 シノブ君が振り返った。

 俺を見て、ふわっと笑った。店で俺を迎えたときのように。

 心臓が高鳴る。

 シノブ君は礼儀正しくお辞儀をした。

「あ、小野田さん、こんにちは」

「こ……こんにちは」

 つられて俺もお辞儀をしたが、妙に挙動不審なものになってしまった。

「荷物……持ちましょうか? 重そうだ……」

 ぎこちなく手を差し出した。

「え? だいじょうぶですよ。これくらい」

 シノブ君は笑顔で、荷物を持ち上げて見せた。左側のが重いようで、そんなに持ち上がらない。見ると、カボチャが何個も入っている。右側の荷物には、パック入りの牛乳や生クリームが見える。

「ひとつ持ちますよ。これからお店に行こうと思っていたんです。ついでですから……ほら、一緒に歩くのに、私だけこんな薄っぺらい書類鞄を持っているのも何ですし……ね!」

 胸に抱えた鞄を持ち上げて見せた。たぶん、ちゃんと笑顔で冗談ぽく飾らない雰囲気で言えたと思う。

「そうですか? じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな」

 シノブ君は可愛らしく小首をかしげて、俺に右側の荷物を差し出した。

 いやいや、それ、重くない方じゃないですか。

「いやいや。そっちのを持ちますよ」

 カボチャの方を受け取ろうと手を伸ばした。取っ手を握って引っ張ったとき、ほんのわずか、指先が触れた。

 あ。と思って、手を放しそうになった。

 けれど、カボチャを落とすわけにはいかないから、がんばって、もぎ取った。想像以上に重かった。

 こんな重いものを運んでいたなんて。しかも、結構かるがると。シノブ君は力持ちなんだなあ。

 今まで知らなかったシノブ君の一面を見たような気がして、なんだかうれしくなった。

 珈琲店までの道を、俺たちは無言のままで歩いていた。

 こんな時に話題を何か! と必死に探してみたのだが、聞きたいことは山のようにあるけれど、どれもこんな商店街の中で話すことではないと思うし、そう思ったら、あとは沈黙しかなくなってしまった。

 シノブ君は道々心配そうに俺の顔をのぞき込んでくる。もうあと五分ぐらいで店に着くという頃、シノブ君が声をかけてくれた。

「だいじょうぶですか……?」

 そんなに無理にがんばって運んでいるように見えるのだろうか。確かに重いけれども。これくらい……

「だ……だいじょうぶですよ! これくらい!」

 虚勢というか、見栄というか、でもこれくらいだいじょうぶでなけりゃ、なんかだめな気がする。もうすぐ店にも着くし、これくらい踏ん張れるはずだ。

 そう思ってがんばった。

 店にようやく着いたときには、手はしびれているし、笑顔でいるのがちょっとつらくなっていた。

 シノブ君の強さに感動した。その反面、自分の運動不足と体力不足と筋力不足を痛感した。これからは、少しは歩いたり、身体を動かして体力を付けたがいい気がする。

 からんからんかららん。

 柔らかなドアベルの音が鳴る。

「お帰り。お使いありがとう」

 黒縁眼鏡のマスターの声が俺たちを迎える。俺を見て、目を見開いた。

「おや、小野田さん。ご一緒でしたか。ああ、荷物。ありがとうございます。

すみません、重かったでしょう」

「や。だいじょうぶですよ、これくらい」

 平気な振りをしてマスターにカボチャを手渡す。手のひらと指が真っ赤になっていることは内緒だ。うまいこと手渡したので、たぶん、気付かれてはいないはずだ。

「そうだ、シノブ君。今、ちょうどお客さんもはけたとこだし、これからちょっと暇になるから、小野田さんを家にお連れしたら?」

「え……あの……」

 俺はあきらかにうろたえた。

 ちょっと待ってください、マスター。

 ちょっとばかりシミュレートしていましたけれども、シノブ君とふたりきりになりたいとか、ゆっくり話をしたいとか、いろいろ思っていましたけれども、まさかそんないきなり家にご招待だなんて!

 俺の抗弁は声にならなかった。口だけがぱくぱく動いてしまった。

 マスターは全く動じなかった。にっこり笑って俺の背中を押した。

「じゃあね、シノブ君。ヘルプいるときは電話するから」

「はい、マスター。じゃあ、行ってきますね」

 シノブ君が笑顔で俺の腕を取った。息が止まるかと思った。

 心が浮き立ちすぎて真っ白だ。

 シノブ君の家に行くなんて。腕が。シノブ君の体温が。引っ張られてるんですけど。いいんですか。あの。その。……このままおうちにお邪魔しても……

 俺は腕を取られたまま、シノブ君の家に向かった。もう、どうしようもなくぎこちない足取りだった。

「こちらへどうぞ」

 振り向くシノブ君の笑顔がまぶしい。

 こっちの方が早いです、と、連れられた先はカウンターの中で、そこから従業員以外立ち入り禁止のはずのキッチンを抜けて、裏口から外に出た。

 裏口には猫の額ほどの庭というか、植え込みがあった。店の前と同じように、小さな花を付けた植物でいっぱいだ。その向こうに少し古い感じの木造家屋がある。平屋建ての日本家屋だ。店が洋風な作りなので、ちょっと意外な感じがした。

「勝手口からですみません」

 シノブ君が「向こう側が玄関なんですが、ぐるりと遠回りになってしまうので……」と説明を続けてくれる。

 扉を開けて、招き入れてくれたところはダイニングキッチンだった。建物の外見とは違って、内装は木造だけれど洋風な感じだった。フローリングだし、素朴な木製のテーブルや椅子や、タイル張りのシンクや、壁に掛かったホーローの鍋や、使い込まれた感じの道具類とか、木の棚にいい感じで並べられた食器類とか、かごに入った野菜とか、空き瓶に飾った花とか、何というか、居心地良さそうなで、それは電子レンジや冷蔵庫がしっくりなじんでいるのもひっくるめて、いい感じだった。

「コーヒーでいいですか?」

 シノブ君がやかんに水を入れる。俺を見る顔はやっぱり、こっちも幸せになるような笑顔だ。

「あ。どうぞお構いなく……」

 言いかけたところで、おなかが鳴った。ぐううううと。そりゃあ、もう、盛大に。

 あわてておなかを押さえたけれど、しっかり聞かれてしまった。

 シノブ君のきれいな目がびっくりしたように見開かれ、微妙な表情になった。笑顔ではあるのだが、眉が少しひそめられて、心配されているような、同情されているような。そんな顔だ。

 俺は耳の端まで真っ赤になった。

 恥ずかしい。

 呆然とその場に立ち尽くした。

「小野田さん、もしかして、お昼まだですか?」

 シノブ君が優しい声をかけてくれた。

 顔を赤くしたままうなずいた。シノブ君がふわりと笑う。

「じゃあ、サンドイッチでも作りますね。実は僕もこれからご飯なんです。ちょっと待っててくださいね。どうぞ座っていてください」

 シノブ君がテーブルの前の椅子を引いてくれる。

 ふらふらと座ると、台所仕事をするシノブ君がちょうどいい感じで見られる位置だった。

 シノブ君はエプロンをつけると、手際よくサンドイッチを作りはじめた。それから、コーヒー豆をひき、コーヒーを淹れてくれる。

 バランスを取るようにしゅるんとしたしっぽが揺れる。

 ほほえましくて、うっとりながめていた。

「どうぞ召し上がれ」

 いいにおいがしてきたなあと思っていたら、目の前に白い皿が置かれた。

 皿の上には、軽くトーストしたパンに、ローストチキンとレタスとトマトとチーズを挟んだサンドイッチがのっている。香りのいいコーヒーのはいったマグカップも隣に置かれた。

 ため息が出た。

 幸せだ。

 両手を合わせる。

「いただきます」

 パンが暖かい。うれしくなってしまう。ほどよくトーストされたパンは歯触りもさくっとしている。食べたあとで、上あごがざらざらすることもない。みずみずしい野菜と柔らかいチキン。ほんのりとマスタードが香る。

 夢中で食べていたら、あっという間に食べ尽くしてしまった。もったいない。もっとゆっくり味わって食べればよかった。

 空っぽの皿ばかりを見つめているのもあんまりなので、コーヒーを飲んだ。

 酸味の少ない、後味のすっきりしたブレンドだ。俺の好きな味だ。

 シノブ君は、サンドイッチを食べながら、にこにこしながら俺を見ている。

シノブ君が食べる姿を初めて見たけど、両手でサンドイッチを持ってはぐはぐ食べている様子はとても可愛らしかった。

 ふと、心がとても満たされていることに気がついた。こういうのを幸せというのではなかろうか。シノブ君の笑顔。シノブ君の淹れてくれたコーヒー。シノブ君が作ってくれたごはん。そこに君がいるだけで……。

 いやいや。これはこれとしてしあわせだけれど。

 今、今こそがチャンスではないだろうか。

 シノブ君のこと。シノブ君の故郷のことをちゃんと知る機会ではないだろうか。

 マスターが直接聞いた方がいいと言った。

 それから。

 シノブ君の気持ち。

 俺は、シノブ君が好きだ。

 そう思ったとたん、今までぼんやりとしか感じていなかったもやもやが、すとんと落ちて固まった。

 ああそうか。これが「好き」という気持ちなんだ。

 目の前が開けた感じだった。

 いろいろぐだぐだ逡巡したけれど、やっぱり、俺はシノブ君と一緒にいたいと思うし、いろいろ話をしたいし、なめらかな頬とか、ほわほわした耳とか、やわらかそうな髪とか、さわってみたいと思う。ただ、何をどんな風にすればいいのか、見当もつかないだけで……

 はっ! 

 我に返った。

 コーヒーを飲み干していた。

 サンドイッチを食べ終えたシノブ君が椅子を立った。

「おかわりいかがですか?」

「ありがとう!」

 なんという絶妙なタイミング。シノブ君が手を伸ばしてくる。俺はカップをシノブ君に手渡そうとした。

 指が触れた。

「あ」

 声を出してしまったのは俺だったか。俺はカップを取り落としてしまった。

 木のテーブルの上を転がるカップを見ながら、俺は「よかった、飲み干してて。コーヒーがこぼれなくて」なんてのんきに思ってしまっていた。

 いやいや。テーブルから落ちたら割れたりしたら大変じゃないか!

 あわててカップを追いかけた。

 落ちる寸前で受け止めた。

「よかった……!」

「……ですね!」

 ふたりして、顔を見合わせて笑った。シノブ君の笑顔が、なんかちょっと違う気がした。いつもの珈琲店で見る笑顔じゃなくて。あれがお客さん用とするなら、一枚ヴェールを脱いだ素顔のような。

 俺も、ちょっと照れてはいたけれど、心から笑った。なんだか、こだわっていたわだかまりが解けてなくなった気さえした。

「あの……今、聞いてもいいかな。シノブ君の故郷のこととか、どうやってこっちに来たのかとか……」

「はい! じゃあ、コーヒーのおかわりをお出ししてから、お話ししますね?」

 そう言ってシノブ君はお湯を沸かし、コーヒー豆を挽いた。迷いのない手つきでドリッパーにお湯を注ぐ。いい香りがする。

「はい、どうぞ」

 俺の前にコーヒーを置いて、俺のすぐとなりに座って、シノブ君は話し始めた。

「僕がスキマに落っこちたのは、あの時計がきっかけなんです」

 シノブ君はおじいさんの家に届け物に行った帰りで、不思議な音に誘われて木のうろに入った。それがこっちの世界との通り道で、いつぞや店に持ってきていた柱時計の中だった。不思議な音というのは、時計の秒針を刻む音だった。

 あの時計は居間に置いているので、あとで見に行きましょう、とシノブ君は言った。

 気になっていたことが消えていく反面、次第に心配ごとが膨らんでいった。

 シノブ君が別の世界のひとで、耳とかしっぽがある理由はわかった。

 シノブ君の故郷がどんなところか、見てみたい。俺が行く機会はあるのだろうか。俺が行っていいのだろうか。

 シノブ君はいつまでこっちの世界にいるんだろう。もしかして、やっぱり将来的には故郷に帰ってしまうのだろうか。

「どうかしましたか? 大丈夫ですか? 小野田さん」

 目の前にシノブ君の顔があった。

 心配そうにのぞき込んでいる。

「うわあ!」

 あまりにびっくりして、思わず叫んでしまった。赤面してしまう。

 コーヒーカップをまだ手にしたままなのに気付いて、テーブルの上に置いた。

「ごめん! 驚かせたね! や。その、いろいろ考えちゃって……あの……」

 さすがに言いよどんだ。

「やっぱり、シノブ君は……いつか……故郷に帰るの……?」

 きょとんとされた。俺は思いつくままに言葉を連ねた。

「や。あの、もちろん、故郷は大事だし、帰るのも当然だとは思うけど、僕は、シノブ君とずっと一緒にいたいというか……もっといろいろ話したいというか……もっといろんなところに行ったりしたいというか……それだけじゃなくて、シノブ君の故郷に僕が行ってみたりとかできたりするんだろうかとか……だって、シノブ君の生まれて育った世界を見てみたかったりもするし……あの……何言ってるかわからないですね! すみません!」

 ふわり。

 突然目の前が暗くなった。

 何が起きたのかわからなかった。

 あたたかくて、きもちのいいにおいがする。

 目の前にあるのが、シノブ君のシャツだと気付いた。

 シノブ君が俺に抱きついてくれている!

 俺の頭をシノブ君の腕がぎゅっと巻き付いて。それで。

 うわあうわあ。

 声も出なかった。

 頭の中は大騒ぎだった。

 意識しはじめたら顔がどんどん赤くなって、熱くなって、頭の中がどんどん真っ白になって。

 そして、遠くからシノブ君の声が、やけにはっきり聞こえてきて。

「小野田さん、それって、小野田さんが僕のことを好きだってことですか?」

 シノブ君の腕の中で、俺はこくこく頷いて。

「僕、男の子……にゃんですけど、いいんですか……?」

「もちろん大丈夫だよ?」

 逆にシノブ君が何を言っているかわからない。

 俺はシノブ君が好きだよ?

 シノブ君の背中に手を回す。シノブ君がぴくりと反応する。

 あわてて手を緩める。見上げると、シノブ君の顔も赤くなってる。

 なんかかわいい。いつもよりずっと幼く見える。

 自然と顔がほころんだ。

「好きだよ」

 口からつるりと言葉がこぼれ落ちた。

 シノブ君の唇がふるふるしている。瞳がうるうるしている。

 さわりたい。もっといろいろ。さわったり、なでたり、いろいろしたい。

 今まで感じたこともなかった感情がこみ上げてきた。


 シノブ君が目を閉じた。

 くちびるが近づく。

 俺も唇を近づけた。



 これが、始まりなんだ。

 なんだか当たり前のようなことを思った。

 明日は日曜日。明日も獣耳珈琲店に行ってもいいかなあ。

 そんなことを思った。

長いこと放置しておりましてすみません!!!

一応、ここで完結とさせていただきます!

いろいろ思うところはありますが、それはまたそのうち……たぶん……

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