その5 この気持ちは何だろう。
大変なことを聞いてしまった。
「この世界に落っこちてきた」
そんな言葉が、俺の耳に飛び込んできた。
猫のしっぽが、目の前で揺れた。
頭の中がぐるぐるしている。マーブル模様のままフリーズした。
マスターが、「シノブ君」と彼を呼んだ。
そうか。名前は「シノブ」というんだな。
うん。とても似合っている名前だと思う。
や。そういうことではなく。いや。そうでもあるんだけど。
シノブ君は別の世界から来た。ということは、シノブ君の猫の耳としっぽは本物だったのか? 作り物にしては精巧だと思っていたけど。いや待て。シノブ君が別の世界の人ということは、今はここで働いているけど、いつか元の世界に帰ってしまうんだろうか。
帰るということは、シノブ君がいなくなる……
思ったとたん、胸がどくんと打った。息が止まりそうになった。
何だろう。この気持ち。
大事なものをなくした時みたいな。大事なひとと会えなくなった時みたいな。息が……
「だいじょうぶですか……?」
遠くから、とてもやさしい声が聞こえた。気がつくと、目の前にシノブ君のきれいな顔があった。
「うわあ!」
びっくりした。叫んだあとで、気になった。もしかして、急に叫んだりして、気を悪くしなかっただろうか。
「ごめんなさい!」
大急ぎで頭を下げた。
「あの……どうして謝るんですか?」
シノブ君が言ってくれているのに。どうしよう。顔が赤くなっている。耳が熱い。
「や……あの……ごめん……いきなり叫んじゃって……あんまりびっくりしすぎて……気を悪くしなかったかと思って……」
大丈夫かと心配してもらったのに。なのに、顔を見て叫ぶとか、あんまりだろう、俺。顔をあげられない。
「だいじょうぶですよ。そんなことありませんよ。それより、あなたこそだいじょうぶですか? 顔色が悪いですよ?」
ちらりと目を上げた。ほんとうに心配している顔で、でも優しい笑顔を浮かべてくれている。
「ごめん……シノブ君の顔がきれいで、それが目の前にあってびっくりして……あの……だから……」
ああ、俺ってば、何を言ってるんだ。シノブ君とか聞いたばかりで名前を呼んだりして、ずうずうしいとか思われないか。頭の中がまとまらない。
「と……とにかく、大丈夫です!」
「少し休んだ方がよくないですか? よかったら奥に……」
シノブ君の手が俺の腕に触れた。
「うわああああ!」
思い切り叫んでしまった。と、思う。
そのあとの記憶がない。
気がついたら、アパートに帰っていて、布団をひっかぶって寝ていた。
どうやって帰って来たのか、全く記憶がない。
布団の中で、少しずつ自分を取り戻していった。
深い谷底に落ちたみたいだ。たくさん反省して死ぬほど落ち込んだ。
いくら何でも二十五歳の男があの行動はないだろう。
いくら人付き合いが苦手だとしても、あんまりすぎる。
彼女いない歴が実年齢と同じで、魔法使い呼ばわりされても仕方がないけれど、ほんとうに、恋愛というものに縁のない人生だったのだ。交友関係も狭いし、基本は単独行動だし、「俺」って言うけど、せいぜい独り言での一人称で使えるぐらいで、もちろん職場では言ったこともないし、面接からずっと「私」と言っているし。
小心者で。地味で。平凡で。そんな自分を気にしているぐらい見栄っ張りで。そのくせ経験値が少なくて、人付き合いもうまくいかなくて。話しかけられるとうれしくて笑顔になるけど、ぎこちなくなったりするのが、いやで。せっかく話しかけてくれても、楽しくなかったらとか気を悪くさせたらとか心配して、いろいろシミュレートしているうちに話が終わっていたりして。逆にがんばってしまうと妙な空気が漂ってしまったりして。だから、学生時代は本読むか勉強するかしかなくて、でもそんなに成績がいいわけでもなくて。社会人になってからも、真面目に仕事に取り組む以外、取り柄がなくて。今の会社が俺を拾ってくれなかったら、とっくに路頭に迷っていただろうし。そんな俺だけど、あの獣耳珈琲店だけは、何も特別なことをしなくても、俺を普通に受け入れてくれる場所で。ウェイターのシノブ君は、いつもすてきな笑顔で、あたたかい声で、俺を迎え入れてくれて、彼ともっといろいろ話がしたいと思ったり、でも、俺からそんなことを言い出すのは迷惑になったりしないだろうかとか、そんなことを思いながらの半年間だった。本物にしか見えない猫の耳としっぽを、それも全部ひっくるめてシノブ君だと思う自分と、そんな別の世界なんて、ほんとうにあるのかと疑う自分がいて。でもシノブ君ともっとたくさん話をしたいという気持ちに嘘はなくて。でも違う世界の人と何をどう話せばいいのだろうかとか思う自分もいて。
こんなことが。別の世界の人と知り合うなんてことが。自分に起こるなんて想像したこともなくて。
昔、ずっと子供の頃には、絵本で読んだ不思議な世界はどこかにほんとうにあるのだと信じていた。森の奥には魔女がいて、オオカミはあかずきんを食べようとしていて、花の中には妖精がいて、扉の向こうには別の世界があるのだと。本気で信じていた。サンタクロースは煙突から入ってくるものだから、でもうちには煙突がなかったから、どうやって来てくれるんだろうと、本気で心配していた。
だんだん成長して、年齢を重ねていくにつれて、知識も増えていって、世界のしくみやいろんなことがわかってきて、そのかわり、不思議なことはおとぎ話の中にしかないことを少し寂しく思ったりもしたけど。
ほんとうに別の世界があって、シノブ君がそこから来て、そんなことがほんとうにあって、まさか自分が関わるなんて……
まさか、まさかと思うけど、騙されてるなんてことは……あるのだろうか。
俺を騙して、何かメリットが何かあるのだろうか。そんなことがあるのだろうか。あのシノブ君が。
シノブ君の笑顔を思い出したとたんに、胸がちりりと痛んだ。
これは何だ? 何の感情だ?
もう一つ、思い出せないことを思い出して、もっと胸が苦しくなった。
……もしかして、会計をしていない……?
さあっと血の気が引く音が聞こえたような気がした。
どうやって店を出たんだっけ。どうやってうちに帰ってきたんだっけ。
全く記憶がない。
ランチの食い逃げをした?
大声で叫んだあげく?
しかも、店は満席だった。俺が叫んだ頃には、だいぶ人も減っていた気がするけど、でも……
うわああああああああ。恥ずかしい。穴があったら入りたい。穴がなくても穴を掘って入りたい。
どう転んでも変な客だ。シノブ君はどう思っただろう。もう店に行けないかも……いや、お金を払ってないのは絶対よくない。小心者の良心は大きいのだ。払う勇気と、払わずに悶々とする日々を天秤にかけて、やっぱり払いに行かなきゃ、と決心するのに、一晩かかった。
結局、一睡もできなかった。
店が開く十一時半に扉を開けた。
「いらっしゃいませ!」
シノブ君がいつもの笑顔で迎えてくれた。一瞬眉が曇ったり、いやな顔をされるかと思ったけど、全然そんなことはなかった。
「ごめんなさい!」
俺は思いきり頭を下げた。
「どうしたんですか? 頭を上げて下さい!」
シノブ君の声が頭の上から聞こえる。
俺は握りしめてきた千円札を差し出した。
「あの……昨日、お金を払っていなかったと思って……失礼なことをしたと思って……あの……」
「にゃ……にゃに言ってるんですか! お金を渡さないといけないのはこっちですよ!」
「え……?」
思わず顔をあげた。シノブ君が顔を赤くして、照れたように笑っている。
「昨日は千円札を置いてそのまま出て行かれてしまったので、おつりをお渡しできなかったんですよ?」
「へ?」
変な声が出た。
「昨日はびっくりしましたよ。僕、何か失礼をしたんじゃないかと思って、ドキドキしました」
「あ……あの……」
それはこちらの台詞です。まさか腕に触ってもらってうれしかったとか言えない。まさか異世界の人と思わなくていろいろ考えてしまったとか、言っていいかどうかわからない。つか、俺、ちゃんとお金を置いていったのか? そんなことができたのか?
シノブ君は俺の手を取ると、百円玉と五十円玉を一枚ずつ、掌の上に載せた。今度は大丈夫だった。逃げ出さなかった。シノブ君の手はとてもすべすべしていて、気持ちがよかった。
「おつりです。百五十円。今日もランチでいいですか? 豚のショウガ焼きですけど? カウンターでいいですか?」
俺はうなずいた。口の中がからからに乾いていた。マスターも普通に笑顔で俺に水を出してくれた。一気に飲んだ。とてもおいしかった。
「あの……昨日はすみませんでした。……シノブ君が……この世界に落っこちてきたって聞いて……あの……シノブ君が……別の世界の人だと、思ってなくて……あの……それで、驚いてしまって……驚きすぎて……すみません……」
カウンターでよかった。マスターとシノブ君の両方に謝ることができた。
「何だ、そんなことですか」
「え……?」
マスターが鷹揚にうなずいた。
「まあ別に隠すことではないと思っているので、大丈夫ですよ」
黒縁眼鏡の奥の瞳がきらりと光った気がした。
きっとでもあんまり騒ぎ立てられたくはないよな? 昨日みたいに。俺はますます小さくなった。
「す……すみません……」
「いやいや、そんなにかしこまらないで下さい。ここはちょっと特殊な場所というだけですよ」
「はあ……」
「もう少し詳しい話とか……お聞きになりたいでしょうねえ?」
マスターの笑顔がなんだか怖い。
「でもそれはシノブ君から直接聞いた方がいいかなあ?」
「シノブ君から……?」
俺はシノブ君を見た。やっぱりすてきな笑顔を向けてくれている。そして気付いた。俺、普通に「シノブ君」て言ってるけど、そう呼んでいいのだろうか。
「あの……私も『シノブ君』と呼んでも……?」
「ええ、いいですよ。どうぞよろしくお願いします」
シノブ君はきれいに笑って、それから、向こうの世界でのほんとうの名前を教えてくれた。でも、「シ」と「ノ」と「ブ」だけがちゃんと聞こえただけで、あとはうまく聞き取れなかった。
「向こうの世界の発音は、こっちの人には難しいみたいなんですよね。どうぞシノブって呼んでください」
シノブ君はにっこり笑った。
「で、よかったら、あなたのお名前も教えていただいてもいいですか?」
「はい!」
俺は立ち上がった。財布に予備の名刺を一枚入れていたのを差し出した。
「私は小野田和宏と申します! よろしくお願いします!」
「はい。どうぞよろしくお願いします」
シノブ君の笑顔は、やっぱりとてもまぶしかった。