その4 シノブ君のひとりごと またはスキマと靴のこと
スキマに落っこちた。
そんなことは初めてだった。そして、それがはじまりだった。
あっちの世界には、あちこちにスキマがあった。スキマはいろんなところにつながっていて、その先はだいたいそれぞれ決まっていた。
スキマの研究家というのもいて、地図が売られていたりする。スキマを旅する冒険家もいる。でも、僕は、そんなものには別に興味はなかった。
あたたかい寝床と、おいしいごはんがあって、欲を言えば、やさしい人がそばにいてくれたら、それだけで充分だと思っていた。
あの日、ちょっとだけ遠出をした。おじいちゃんに届け物を頼まれたのだった。
おじいちゃんの家へ行くには野原を越えて、林を抜けて行かなきゃならない。ものすごく久しぶりだったから、道を間違えないように気をつけて歩いた。
帰り道で、不思議な音を聞いた。
もしかしたら、行きにも聞こえていたかもしれないけれど、気がつかなかった。
はじめて聞く音だった。
カチ、カチ、カチ……と、音は規則正しく続いた。
何の音だろうと、音の聞こえる方角に近付いた。林の奥へ奥へと。こんなふうに道を外れて林の奥に踏み込んだりは普通なら絶対しないけど。
ちょっとだけ迷った。でも、好奇心の方が強かった。
大きな木の根元に、ぽっかりと大きなうろがあった。
不思議な音は、うろの中から聞こえてくる。
僕は、うろをのぞき込んだ。
真っ暗で何も見えない。
でも規則正しい音は聞こえてくる。
木の周りをひとまわりしてみた。
音が聞こえる以外は普通の木だ。
うろの中に入ってみた。音が近付く。何の音かはわからない。木肌の向こうから聞こえてくるみたいだ。
木肌に手を当ててみた。なんだかちょっと違う感触があった。ゼリーみたいな、カーテンみたいな、空気がゆがんでいるみたいな、そんな感じ。
強く押してみた。木肌を突き抜けた。そう思った。その瞬間、バランスを崩して転がった。
真っ暗な狭い場所だった。カチ、カチ、カチと音がする。耳許でがんがん大きく聞こえる。
突然、違う音がした。何かが飛んできた。そう思った。
ぎゅっと目をつぶって、夢中で手を伸ばした。細くて長くて先が丸いものを掴んだ。冷たい。変な音がして、規則正しい音が途絶えた。
それからしばらく静かなままだった。
「あれ? 時計止まってる」
人の声がした。
足音がした。
近付いてくる。
扉を開けるような音がした。
まぶたの裏に光を感じた。目を開けると、黒縁の眼鏡をかけた男の人がいた。
それがマスターとの出会いだった。
「やあ、こんにちは。そこは狭くて暗いから、こっちに出て来ないか? コーヒーとケーキはいかがだろう?」
マスターはにっこり笑って、そう言った。
あの日から、たくさんの日が過ぎた。
マスターは、まるでぼくのお父さんみたいに、こっちの世界のことをいろいろ教えてくれて、いろいろ面倒を見てくれた。
いろいろプレゼントもしてくれた。
最初のプレゼントは靴だった。
あっちの世界では、あんまり靴を履くことがなかったし、あんまり靴が好きじゃなかった。窮屈だし、長く履いていると痛いし。けれど、こっちでは家から出たら靴を履かなきゃならない。ぼやいていたら、やわらかい革の履きやすい靴を買ってくれた。
スキマについても、いろいろ調べてくれた。でも、こっちの世界にはあっちの世界ほど情報がなくて、僕が実際に試した方が早かったりしたこともあった。
それでわかったのは、あっちの世界の木のうろが、こっちの世界のマスターの実家の柱時計とつながっていたこと。ふたつの場所はいつでもつながっていること。柱時計の置き場所が変わっても、つながりは大丈夫だということだった。
僕はそれからしばらく、あっちの世界とこっちの世界を行ったり来たりしていた。でも、こっちの世界の方がいろいろ面白いことが多くて、こっちの世界にいることが多くなった。
そのうち、マスターが、ほんとうは初めて会ったときはまだマスターじゃなくて、会社員だったのだけれど、喫茶店を開くというので、その手伝いをすることになった。だって、マスターのコーヒーもお菓子もごはんもおいしいし、なんだか楽しそうだったから。
マスターが僕の耳としっぽが目立たないように考えてくれて、お店を「獣耳珈琲店」という名前にした。
こっちの世界には、あっちの世界のひとは少ない。だから、獣耳やしっぽがあるひとがいることを知らないひとも多い。変に隠して注目を集めるよりも、堂々と見せた方が逆にいいんじゃないかと、マスターは言った。
喫茶店は商店街を一本入った住宅地の中にある。すぐ裏はマスターの自宅だ。僕も一緒に住んでいる。
喫茶店の仕事は楽しい。
いいお客さんも、苦手なお客さんも、いろいろなお客さんが来るのは楽しい。僕は、お客さんが入ってくると、最初に靴を見てしまう。マスターに靴をもらってから、つい、ひとの靴が気になってしまうのだ。
常連で、いつもカウンターに座るグチさんの靴は、高そうだけど、手入れがいまひとつだ。
僕はグチさんのことが、ちょっと苦手だ。営業という仕事をしているとかで、外回りが多くて、いつも「くたびれた」と言っている。「休憩」だと言って、しょっちゅうコーヒーを飲みに来て、たまにランチを食べていく。作り物の獣耳がカバンの中に入っていて、店の中ではつけている。
グチさんが苦手だと思うのは、やたらなれなれしいとか、声が高くてちょっと耳障りなうえに、しつこく同じ話を何回もするところとか、手首とかをさわろうとしてくるとか、いろいろあるけど、でもグチさんもお客さんだから、邪険にはできなくて、笑顔が引きつっちゃうことがあって、ちょっと困る。
やっぱり常連でいつもカウンターに座るシマさんは、とてもいいお客さんだ。マスターが会社員だったとき、上司だったとかで、マスターが時々「課長」と呼んでいる。いつも穏やかに話を聞いてる。グチさんが変なちょっかいを出し始めると、いい感じにかわしてくれる。シマさんはいつも手入れのよくされた靴をはいている。
毎日がゆっくり過ぎてゆく。
あたたかい寝床と、おいしいごはんがあって、やさしいマスターがそばにいてくれて、昔は、それだけで充分だと思っていたけど、最近は、それだけでは何かが足りないような気がしていた。
そんな時、新しいお客さんが来た。
その人がはじめて来たのは、土曜日の夜中、閉店近くのことだった。
店は昼十一時半からだいたい夜中十二時まで開けている。夜はお客さんがいないと早く閉める日もある。その日はグチさんがいて、ずっとしゃべっていて、シマさんがなだめながら話をきいてくれていた。
そのひとは、疲れた顔の地味なひとだった。大人しいスーツを着て、くたびれた靴を履いて、なんだかよれよれな感じだった。メニューを見て、たくさんのコーヒーの名前に戸惑っていた。「コーヒー」と注文しかけて赤くなった。
何だろう。なんてことはないはずなのに、胸がどきんとした。何か新鮮な感じがした。コーヒーの香りを嗅いで、ほっとした顔が、ひとくち飲んで、「あ。おいしい」ってつぶやいた笑顔が、何かいいなあと思った。
次の日の昼に、また出会った。初めて見る私服は、やっぱりちょっとよれよれで、靴もやっぱりくたびれていた。ランチに誘ってみた。
ほんとうにおいしそうな顔で食べてくれた。食べ方もきれいだった。なんだか気持ちがいい。あの人、いいなあ。そう思って応対していたら、いつもの挨拶なのに噛んじゃった。
それから彼は水曜日の夜と土曜日の昼に来るようになった。昼はランチを食べてくれる。コーヒーを飲みながら本を読む。「いただきます」と「ごちそうさま」と口の中で小さくつぶやいて、手を合わせる。時々見せてくれる笑顔は、ほわっとしていて、なんだか癒やされる感じがする。
そのうち、私服がだんだんきちんとしてきた。靴もちゃんとみがいてくるようになった。
そう言えば、しつこいグチさんを黙らせたこともあった。けど、あれは偶然かな?
フロアが満席で、カウンターで居心地悪そうにしていたこともあった。あれはちょっと可愛いかった。
もっと話したいなあ。そう思った。お客さんとウェイターじゃなくて。もっと他のいろんな話。いつもどんなことしてるのかな。いつも本を持ってくるけど、どんなのが好きなのかな。
マスターに言ったら、頭をなでてくれた。
「お前もそんな年齢になったんだな」と言われた。
そんな年齢ってどんな年齢?
「ひとを好きになるってことだよ。そんな思いを抱くようになったんだね」
マスターは笑って言った。けど、僕の胸の中には急に不安が渦巻きはじめた。
僕、男の子だけど。こっちの世界の人じゃなくて、あっちの世界の人だけど……それでも、大丈夫かなあ。あのひとは、僕と話をしたいとか思ってくれるかなあ。
……思ってくれるといいなあ。
J.GARDENのチラシに載せたお話です。ちょっとだけ修正入れてます。
J.GARDEN36のテーマアイテムは「靴」でした。ので、靴の話。