その2 ひな飾りと常連と
通勤途中に小さな喫茶店がある。
「獣耳珈琲店」という看板が出ている。
水曜日の夜と土曜日の昼、俺はこの店の扉を開ける。
からんからんかららん。
柔らかなドアベルの音が鳴る。
「いらっしゃいませ」
ウェイターの青年は、いつも気持ちのいい笑顔だ。
名前も知らない。年齢も、趣味も、どこに住んでいるのかも、何も知らない。
だが、彼に会うのが、俺がこの店に通う理由のひとつだ。
少し癖のある茶色の髪。気持ちのいい笑顔。気持ちのいい声。いつまでも聞いていたい声だ。
彼の額には、猫の耳がある。それから、しゅるんとしたしっぽ。
「獣耳珈琲店」という店の名前の由来は、彼ではないかと思っている。
マスターはふつうの人のようだ。黒縁の眼鏡をかけた中年の男だ。
店の名前の通り、ここには獣耳をつけた客がよく来店する。そのほとんどは、作り物だとすぐにわかるものだ。
もちろん、客はそういう人ばかりではないし、そうでない人を入れないようなこともない。だから、俺のような小心者のサラリーマンにも居心地がいい。
マスターは、客がどんな耳やしっぽをつけてこようが、全く動じない。猫だろうが、うさぎだろうが、一緒だ。
耳がついていない客についても、全く態度が変わらない。普通に接してくれる。
コーヒーはとてもおいしい。
はじめて来たときは、メニューの多さに目を白黒させた。通い始めて半年になる今は、もう、そんなことはない。コーヒーの好みも自分でわかるようになってきた。いろいろ試した結果だ。
水曜の夜は、閉店時間近くまで、ゆっくりコーヒーを飲みながら、本を読む。
土曜日の昼は、ランチを食べに行く。ひとり暮らしなので、食事は自炊だ。簡単な料理しかできないが、それなりに楽しんでいる。いろいろな料理の本を見て、新しい料理に挑戦することもある。だが、時にはひとに作ってもらうごはんがうれしい。
ここの料理は、メニューを考えるのにも参考になる。それよりもまずおいしいのがうれしい。
今週は、土曜日に会社のイベントがあって出勤しなければならなかった。
毎週の楽しみがひとつ減るのは寂しい。
俺は、日曜日に店に行くことにした。
「あちらの席にどうぞ」
ウェイターの青年が、いつもの隅っこの席に案内してくれる。
今日もすてきな笑顔だ。しゅっと伸びた指がきれいだ。
「今日のランチは豚しゃぶのサラダか、白身魚のピカタです。どちらになさいますか?」
「えーと、じゃあ、豚しゃぶで」
「はい、ありがとうございます。食後のコーヒーはブレンドでよろしいですか?」
「はい。お願いします」
こんな他愛ない会話でさえ、うれしくて、頬がゆるんでしまう。
しゅるんとしたしっぽをゆっくり揺らして、彼はカウンターに戻る。
彼のしっぽも、耳も、作り物には見えない。
だが、この店の中にいる限り、そんなことはどうでもいいことのように思えてくる。
マスターに俺の注文を通す。
マスターと彼はとても仲がいい。
それを見ていると、なんとなく胸がちくちくするような気がする。
そんな自分を、なんとなく許容できない感じがある。
何だろう。この感じ。今まで感じたことのない感じだ。
気持ちを切り替えるために、店の中を見回した。
立派なひな飾りがある。七段もある。下の段には、籠や牛車などもある。すごいひな飾りだ。
場所を確保するために、テーブルや椅子を動かしている。
すごい力のいれようだ。
そういえば、この店は、こういう季節のイベントごとにとても熱心に取り組んでいる。
ハロウィン、クリスマス、お正月、節分。
最初に来たのが秋だったから、最初のイベントごとはハロウィンだった。やけにカボチャの飾りがあるなあと思っていたら、カボチャのクッキーをおまけにつけてもらったり、期間限定で、カボチャのプリンが出た。
クリスマスには当然のように、大きなツリーが飾られた。おまけのお菓子はチョコレートケーキだった。
お正月は門松をたて、しめ飾りを飾り、なぜか金平糖がコーヒーについていた。
節分には、豆がついてきた。
この調子でいくと、五月五日のこどもの日や、七夕やお月見も、盛大に何かやりそうな気がする。
そうか。今日は三月三日。ひな祭りだ。
俺は家でひな祭りを祝った記憶がない。
俺は一人っ子だったから、こどもの日のかぶとの飾りや鯉のぼりはうちでも飾っていたが、ひな人形は、母が持っていた。だいりびなというのか、男雛と女雛だけのちいさなものだった。母がひっそりと飾っていたのを、思い出した。
「お待たせしました」
彼が料理を運んできた。
メインの豚しゃぶのサラダは、レタスと大根がたっぷりだった。ごはんと味噌汁と小鉢に冷や奴がついていた。
俺は、ひな祭りのことを言いたくて、でも、小心者だから、やっぱり、何も言えなかった。
食後のコーヒーには、小さな皿に、ひなあられがついていた。
「あ」
思わず声が出た。
そのあとの言葉は何も出て来なかった。
ごはんを食べながら、「ひな人形、きれいですね」とか、「ひなまつりですね」とか、言おうとシミュレートしていたのに、本番になると、どうしてこう、全くだめなんだろう……
俺はしょげてしまった。
「ひなあられです。今日は、ひな祭りですから。せっかくのお祭りです。どうぞ、楽しんで下さい」
彼の方から声をかけてくれた。
目を上げると、彼の笑顔があった。優しい笑顔だ。
「立派なひな飾りですね」
言えた!
彼はにっこり笑った。
「ええ。テーブルと椅子の大移動をしました。せっかくのお祭りですからね」
心の奥からほわっとあたたかくなる笑顔だった。
からんからんかららん。
ドアベルの音が鳴った。
「こんにちは~!」
やたらなれなれしい感じの声がした。
「いらっしゃいませ」
そんな客にも、彼はふつうに優しい。
よく見かける客だった。
いつも作り物の猫耳をつけ、カウンターに座る。
マスターともよく話すけれど、猫耳の彼には、マスターの倍以上話しかけている気がする。
話の内容は、隅の席の俺のところまではとどかない。
だが、彼の甲高い笑い声は、よく響いた。
あまりひとの方を見てはいけないと思うので、ちゃんと見てはいないが、ウェイターの彼になれなれしく肩を叩いたり、腕に触ったりしている。それを見るたびに、なんだか胸がちくりとする。
ウェイターの彼は、やはり笑顔でかわしているようにみえた。
だが、気のせいか、次第に眉の辺りが曇っていくようにも見えた。
なんだか耳が寝ているようにも見える。カウンターから、少しだけしっぽが見えた。
ぱたぱた揺れている。
気のせいかもしれない。だが、なんだか全身で不機嫌を表しているような気がする。
カウンターの客は気付かない。相変わらず大声で何か一生懸命話をしている。
俺はだんだんがまんできなくなった。
ごはんも食べ終えたし、コーヒーも飲んだし、ひなあられも食べてしまった。
ウェイターの彼をもっとずっと見ていたいけど、こんな不機嫌そうな彼を見るのは、切なくなってしまう。かといって、カウンターに座る勇気はない。あそこはやはり、常連の席、という印象がある。こういうときは、あの客くらい傍若無人だといいのに、と思う。
「ねえねえ、そろそろ名前とか教えてよ~」
そんな言葉が聞こえた。
俺は思わず席を立った。がたん、と、俺もびっくりするくらい大きな音がした。
カウンターの客がしゃべるのを止めた。
俺はレジの前に立った。
「あ……あの……」
会計伝票と、千円札を一緒に差し出した。
「あ、ありがとうございます!」
ウェイターの彼が満面の笑みで振り返った。カウンターの客から解放されて、ほっとしているように見えた。
「ごちそうさまでした」
「また、いらしてくださいね」
ええ。また来ます。その言葉は、俺の口から出ることはなかったが、俺の心から、ちくちくするトゲはすっかり消えていた。
J.GARDENのチラシに載せていたお話です。
3月3日開催で「ひなまつりペーパーラリー」という企画もあったので、「ひなまつり」をテーマに考えました。