その1 獣耳珈琲店
通勤途中に気になる店がある。
商店街を一本入った住宅地の中だ。
ちょっと見には、普通の家に見える。植木鉢が壁際にいくつも置かれている。それに埋もれるように、小さな看板が出ている。
木彫りみたいな字体で「獣耳珈琲店」と書いてある。
何と読むのか、今ひとつ判らない。だが、「珈琲店」というからには、喫茶店なのだろう。確かに、外から見る限り、昔ながらの喫茶店という感じだ。居心地のよさそうな雰囲気が、外にもにじみ出ているような気がする。だが「獣耳」とは、どういうことだろう。
いつも気になりながら、前を通る。
この道を通るようになって、もう三年になる。俺は普通のサラリーマンだ。普通の高校を出て、普通の大学を出て、普通に会社に勤めて、地味に庶務の仕事をやっている。
月曜から金曜まで普通に働いて、土日の休みはひとり暮らしのアパートで静かに暮らしている。掃除をしたり、洗濯をしたり、趣味らしいものは持ち合わせていないから、せいぜい買い物がてら散歩をするくらいだ。特徴らしい特徴もない。敢えて言うなら小心者だというくらいか。自慢にもならない。
いつも「獣耳珈琲店」の前を通る度に、中に入りたい衝動にかられるのだが、やはり入れないでいた。初めての場所というのは、とても緊張するのだ。
その日、俺はとてもくたびれていた。
会社でイベントがあって、デスクワーク専門の俺もかり出され、慣れない仕事をさせられて、すっかり遅くなってしまった。いつもなら、遅くても九時を回ることはないのに、もうすぐ日付が変わろうとしている。
俺は獣耳珈琲店の前で足を止めた。
ドアの磨りガラスから、暖かいオレンジ色の明かりが漏れている。
俺の頭は思考を放棄するくらい麻痺していた。
気がつくと、俺はドアに手をかけていた。
からんからんかららん。
柔らかなベルの音が鳴る。
「いらっしゃいませ」
迎えてくれたのは、いい声の青年だった。
俺は、青年の姿を見て、一瞬固まってしまった。
一見普通の若者だった。細身の身体に、白いシャツと黒いベストと黒いズボン。いかにもウェイターという格好だ。少し癖のある茶色の髪。その額には。
耳があった。猫の耳だ。
作りものかもしれない。だが、やけにリアルで、とてもそんな風には見えなかった。
「どうぞ、あちらのお席に」
青年が手をのばす。きれいな手だ。しゅっとのびた指の先は、隅っこの席をさしていた。
「あ……ありがとう……」
口の中でもごもご言って、俺はぎこちない動きで、その席に座った。
「メニューをどうぞ」
良いタイミングで、俺の目の前に年季の入ったメニューが差し出される。
「あ……ありがとう」
今度はちゃんと言えた。
青年は感じの良い笑顔を見せた。
「ご注文がお決まりの頃におうかがいします」
俺のテーブルを離れる彼の後ろ姿を見て、俺は目を疑った。
しっぽだ。
猫のような、しゅるんと伸びた茶色のしっぽ。
まさか見間違いでは。
そう思いながらも凝視してしまった。青年は俺の視線には気付かぬふうで、カウンターに戻っていく。
ふるん、としっぽが揺れた。
作り物にしては、精巧にできているなあ……
まさか……本物……?
いやいや。そんなはずはないだろう。きっと俺は疲れているんだ。
俺は頭を振って、メニューに目を落とした。
そして、途方に暮れた。
そういえば、ここの名前は「珈琲店」だった。
メニューには、ブレンドだけでも三種類、それ以外には十種類以上の名前が並んでいる。
ブルーマウンテンやキリマンジャロやブラジルやトラジャやグアテマラやマンデリンや、聞いたことのあるのも、ないのも、いろいろありすぎて、何がなにやら判らなくなった。
「お決まりですか?」
青年に声をかけられた。
「あ……あの……こ……こーひ……」
コーヒーと言いかけて、それはいくら何でも使い古されたギャグにしかならない、と気付いた。
顔が赤くなる。
疲れているにもほどがあるぞ、俺。
絶対馬鹿にされる。
恥ずかしさのあまり目を伏せた俺の耳に、優しい声が届いた。
「ブレンドをお持ちしましょう」
見上げれば、あたたかい笑顔がそこにあった。
馬鹿にしている感じは全くない。
ほっとしたら、やっと店の中を見る余裕ができた。
店の中は、外から見て想像したとおり、昔ながらの喫茶店という感じだった。
木のテーブル、布張りのソファ、カウンターの中には、黒いエプロン姿のマスター。見る限り、黒縁の眼鏡をかけたふつうの男だ。獣の耳もない。
カウンターの止まり木には、こんな時間なのに常連らしい客がふたりいる。
ひとりは初老の男で、煙草を吹かしながらマスターと話をしている。格好も普通の人間だ。
もうひとりは、まだ若い男で、いかにも作り物とすぐ判るような動物の耳をつけている。
「ねえねえ」
やたら軽い調子でウェイターの彼に話しかけている。
猫耳の彼は、さわやかに笑顔であしらいながら、マスターに俺の注文を通し、自分の仕事をしていた。
「お待たせしました。ごゆっくりどうぞ」
俺のコーヒーが来た。
白いカップを口元に運ぶと、ほわんとコーヒーの良い香りがする。
「あ。おいしい」
思わず声に出た。
ほっこりと心が安らいでゆく感じがした。思わずため息が出た。ここは何て居心地の良い空間なんだろう。
猫耳としっぽにはびっくりしたけど。
よくよく考えれば、店の名前があれだと言うことは、ここは獣の耳とかそういう格好をするのが好きな人と、それを見るのが好きな人が集まる店、というところか。現にカウンターに居座っている獣の耳を付けた男は、にこにこしながらウェイターをずっと目で追っている。彼の目つきは、純粋に愛でている、というだけではないような感じがしたが、それはきっと、うがち過ぎというものだろう。
翌日は昼過ぎに起きた。
たまった洗濯物を片付けて、掃除をして、さて、買い物にでも行こうとアパートを出た。
スーパーに行くには獣耳珈琲店の前を通る。別に何ということはないはずなのに、胸が高鳴る感じがした。
感じ、だけではなかった。
一瞬、どきんと心臓が跳ね上がった。
彼がいた。
昨日見たウェイターの格好だった。店の前の鉢植えに水をやっている。猫耳も、しっぽもある。昼間なのに。なかなかシュールな光景だ。
「おはようございます」
向こうから挨拶をされてしまった。さわやかな笑顔だ。
「あ……おはよう……ございます……」
挨拶を返した。まさか、昨日の今日だけど、俺のことを覚えていてくれたのだろうか。
「ランチやってますよ。よかったら、食べていきませんか?」
彼に言われて、そういえば今日はまだ何も食べてないことに気付いた。冷蔵庫は空っぽだった。だから買い物に来たのだった。
俺は誘われるまま、ランチを食べていくことにした。
店の中には、昨夜と違って結構客が入っている。若いのから年輩までとりどりだ。半分以上が男性だ。そして、獣の耳をつけているのが半分くらいいる。連れと話し込んだり、カウンターではマスターとの会話が弾んでいる。
「あちらのお席にどうぞ」
青年は俺のためにドアを開けてくれて、昨夜俺が座ったテーブルに案内してくれた。
「ランチでいいですか? 今日はチキンのグリルですが、何か苦手な食べ物とかありますか?」
「や、特には……」
よかった、というように彼は微笑んだ。
チキンのグリルは美味しかった。俺も一応自炊はしているが、こんなふうに皮をぱりっと焼けたためしがない。味付けも塩胡椒だけじゃない、わからないけれど、どこか深い風味がある。付け合わせのサラダも食後のコーヒーももちろん美味しい。やっぱりプロは違うなあ。こんな満足感なんて味わったのはどれだけぶりだろう。良い店をみつけた。獣耳のよさはよく判らないが、この居心地の良さは代えがたい。
「ごちそうさま」
「ありがとうございます。またどうぞ、いにゃっしゃいませ……にゃ!」
噛んだ。とたんに顔が真っ赤になった。そして、猫の耳がぴくぴくっと動いた気がした。目の錯覚だろうか。
そのあと彼が見せたはにかんだ笑顔を、とても可愛いと思った。また来たいと心から思った。
だが、だからといって毎日行くのは、あんまりだろうと思った。本当は行きたいけど。
せめて一週間。そうだ。また来週行けばいい。それとも週末の帰りにコーヒーだけ飲むのがいいだろうか。今日みたいにランチを食べるのがいいだろうか。
月曜日は店の前をそのまま通り過ぎた。店のなかに彼がいると思うと、心の奥が暖かい気持ちであふれる気がした。彼がまた店の前に出て来てくれたらいいと思った。彼の姿を見たかった。
火曜日は、店の方に吸い寄せられて、危うく無意識のうちに入るところだった。
水曜日。いいことを思いついた。今日の帰りにコーヒーだけ飲んで、土曜日の昼にランチを食べに行けば、自然に程良く間隔があいて、いいんじゃないか?
別に獣耳が好きというわけではないけれど、彼のすてきな笑顔に会いたかった。そつのない動きが見たかった。穏やかな声を聞きたかった。そして、胸を離れないはにかんだ笑顔を。何だろう、この感情は。ドキドキが止まらない。俺はどうしてしまったんだろう。
俺は胸の高鳴りを感じながら、獣耳珈琲店の扉を開けた。