S&S
白久市第12区。海沿いに面したそこは、物資搬入の中枢を担っている。
ここを断たれれば、白久の住民は生活に必要な諸々の7割を失うことになる。
加えて外部からの侵入者の懸念あることから、警備は過剰とさえ思われる様相を呈しており、関係者以外は誰しも決して立ち入ろうとしないのがこの場所である。
なればこそ、今この状況は異常だった。
転がる死屍の山。
そこかしこに彩られる濃紅のコントラスト。
広がる混乱と狂騒の中、悠然と紫煙をくゆらせながら歩む男が一人。
無造作に撫でつけられたオールバック。
手入れする気が毛頭ないのか、髭を生やすままに捨ておいた痩せこけた頬。
「もしもし。ああ、俺だ俺。詐欺じゃないから安心しな」
発音からすれば東アジア……広東の訛りの強い中国語だ。
「ったく、何が最短潜入ルートだよ。鉛弾の中に放り込みやがって。ああハイハイ、わかったわかった。“女神”様を本国に連れ帰るんだろ、知ってるよ」
虫の息である警備兵の頭蓋を忌々しげに蹴り砕き、男はその遺骸に唾液を吐き捨てる。
「依頼はきちんとやるよ。こちとら生活かかってんでね。お嬢ちゃんさえ連れて帰りゃ、あとは殺しても? そりゃ太っ腹だね」
吸い殻を血だまりに投げ捨て、新たな一本に火をつける。
「オーケー、実に単純で俺向きだ。まぁ、キャビアでも食いながら待ってなよ。ひとすくい5000元のヤツな」
皮肉に激高した何者かの怒声に気をくれてやることもなく、男は携帯端末を無造作にポケットにねじ込むと
「檻だねえ……実に檻だ。もったいないな。なんでよりによってこんなチンケな国なんだろうな。ええ、神様?」
星々の輝く夜空を見上げ、くつくつと乾いた声で哂った。
*
「まずはこれを見てください」
到着した一軒家……秋庭宅のリビングで、フィリネは一枚の写真を差し出した。
「おお、こりゃ可愛い」
まだ新しいカラー写真の中で、一人の少女が微笑んでいる。
どこかふわふわした雰囲気の、優しげな少女だ。
「そのタンコブ、どうにかならんか。視界に入って邪魔」
「うっせ! 文句あんならそこのチチナシに言えよ」
「いきなりあなたが暴れるからじゃないですか。あとチチナシってなんですか」
ろくに事情を知らされないまま秋庭宅で目を覚ました芳之は、フィリネを視界に捉えるなり躍り掛かった。
結果はタンコブが物語っていて、傷心していたところを涼が事の成り行きを説明して今に至る。
「乳がないからチチナシってんだよ。このクレーターおっぱいが!」
「ふ……バカな人は罵詈一つにも品性がありませんね」
冷静を装いつつもこめかみがピクピクと動いているあたり、実は相当キているのだろう。
意外に沸点が低い娘である。
「胸の件は今はどうでもいい。続きを」
「なんですって……?」
「……旧ソ連におけるKGBの存否と同等かそれ以上に重要だが、ひとまず続きを」
「……まぁ、及第点ですね。本題に戻りましょう。私は、ある組織の人間です。日本政府の縁の組織じゃなくて、もっと大きな……世界規模の組織です」
「いきなりスケールの大きな話だなぁオイ」
「否定はしません。けれど、それほど“ABPVS”は大きな問題なのです」
白久の繁栄を見れば、フィリネの言葉も誇張ではない。
金属を自在に変質させ、あるいは道具を要さず炎を生み出す。
荒唐無稽……魔法とも呼べる異能の力。
そんなものがあるならば、利用しない手はないだろう。
「日本政府は“ABPVS”の存在を国連に報告せず、白久という都市に閉じこめた。方策としては最悪ですね。保守的な割に国防意識が薄すぎます。臭いモノに蓋をしたつもりなのでしょうが、蓋の穴に……そこから入る虫に気づかない。諸外先進国でその存在を知らない国家はありません。もちろん、知っているのは暗部の組織のみですが」
「“ABPVS”の軍事転用か」
「ええ。優れた技術が利用されるのはまず武力……どの国でも、いつの世も考えることは同じです」
身近なところでインターネットが最たる例だろう。
戦争が技術革新をもたらすのは、歴史が証明している。
「しかし、この少女にそれほどの力が?」
涼と芳之は再び写真に視線を落とす。
どこから見ても普通の少女だ。血なまぐさい戦場や陰湿な謀略の世界に身を置いているとは到底考えつかない。
「彼女を狙う組織……彼らは自身を“グルヴェイグ”と名乗っていますが、なぜ彼らが……どんな目的でこの少女を狙っているのか、わかっていないんです。ただ、特別な“ABPVS”であるとしか」
「グルヴェイグ……北欧神話のあれか、黄金の力ってやつ」
「ええ、おそらくは。そのおこがましい名前のとおり、彼らの力は強大です。独自の軍事力を持ち、その根は我々の生活のどこか身近、それこそすれ違う他人のように密接で……それ故に危険です」
「で、俺らにこの娘を護る手伝いをしろってことかい」
「単刀直入にいえばそうなります。外部協力者という形でも構いません。もちろん、あなた達がこちらの組織に入ってくれるのがベストですけど……」
「しかし、君の属する組織について、こちらは何も知らない。情報が欲しい」
これまでの話からするに、フィリネが所属しているという組織についての情報がほとんどない。
協力の是非を吟味する前提として、最低限の情報は得ておきたい。
「我々の組織は“ジェフティ”といいます。世界各国に点在する暗部……“グルヴェイグ”のような組織を相手に、軍事から政治経済に至るすべてに対処すべく結成された、調律組織……とでもいえばいいでしょうか。“グルヴェイグ”に比べて規模は小さく、人手も足りないのが現状ですけど」
「まぁ、かなり融通は利くっぽいなぁ。俺らの逃走経路とか、その他諸々の確保もお前らがやったんだろ? ついでに言や、こっちに選択肢なんてなさげだけど」
嵐の中を水泳するというのは涼お得意の無茶振りであったが、あの場面に至るまでの経路にいくらか不自然な点はあった。
おそらくそれが“ジェフティ”による手助けだろう。
ならばいかに“ジェフティ”が高度な融通性を有しているとはいえ、ここまで根を回しているともなればそれこそ失敗の可能性は端から考えられていないと判断すべきではないか。
芳之の言葉に、フィリネは「ごめんなさい」と頷いた。
「詐欺紛いのエグい契約に乗れってのもなかなか悪党入ってっけど、答えが一択ならしゃあねーわな。実際んとこ、おかげさまでって感じだし」
「俺も異論はない。協力しよう」
「ありがとう、ございます……」
2人の了承は得られた。しかしフィリネの胸中にはしこりが残こる。
事の次第によってはあらゆる手段を講じるつもりで臨まねばならない任務だった。
躊躇いを見せてはならなかった。
故に、彼らの返答はこちらにとって予定調和以上の応えであるはずである。
任務に当たる前に手渡された資料で彼らの経歴も知っている。兵役経験もあり、武器弾薬の使用も並以上にこなせる2人だ。
なのに――
(私は、甘いんでしょうか……)
そんなフィリネの情動を、犬並みの嗅覚で察知する野郎2名。
アイコンタクトは一瞬。それだけで通じる以心伝心。
『お詫びにキスしてくれ』
「はい……?」
突然何を言い出すのか。
フィリネの双眸が文字どおり点である。
当たり前だ。意味がわからない。
しかしその瞳は揃って真剣そのものであり、それはもう絶妙なハモリ具合であった。
「キブミー」
「キス」
「頭、大丈夫ですか?」
『当たり前だ。早くキスしてくれ』
またもハモる。
姿勢、視線、声音に至るすべてが完璧なコンビネーション。
しかしその要求内容からして、コイツらは乙女の尊厳を何と思っていやがるのか。
そういうことは心に決めた相手と、双方合意のうえでかつムードを大切に……しかもなに、2人同時?
これは即ち、フィリネ・マリーア・フレーゼという女がそこまで安価で軽量な女だと考えているということかそうなのか。
……ああ、なんか腹立ってきた。
『どうした、早くしてくれ。できるだけ情熱的にな』
よし、遠慮はいらないみたいだ。
怒ればすぐ手足が出る暴力女というのは私の矜持と対局だが、これはもう仕方ない。
「……ふふっ」
にっこりと微笑むフィリネからのプレゼントは結果として鼻柱への拳だったが、2人の意図はどうやら成功したらしかった。




