秋の記憶
この町を初めて歩いたのは、幼稚園の年中の秋だった。引っ越しを前提とした下見で新しい住処を探しに来たのだ。
幼い男の子は一人、親とはぐれてしまって道端にうずくまり親の存在を求め泣きじゃくっていた。初めて来た見知らぬ町。人通りは全くなく、男の子に話しかける人は誰もいない。ふと、泣き続ける男の子は、自分の頭に人の手の感触を感じた。
「おかあさん?」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を向けたその目に映ったのは、この町に来るとき彼の手を引いていた母親の服ではなく、くすんだ赤い色の着物だった。
見慣れない色に顔を上げた男の子の瞳には、優しい微笑みを浮かべる一人の少女がいた。少女は男の子の頭を撫でながら言った。
「おかあさんとはぐれたの?」
少女の言葉に、男の子は頷く。そんな男の子に、少女はその笑みに似合う優しい声で言った。
「大丈夫。すぐに迎えに来てくれるわ。それまで、私と遊びましょ」
男の子は顔を袖で力一杯拭きながら少女の言葉に頷いた。
「私は杏よ。よろしくね」
少女は男の子に名前を教えた。そしてどこから取り出したのか、お手玉やおはじきなどを手にし、男の子に遊び方を教えた。また、男の子の知らない手遊びや面白くおかしい話などをした。遊びや目新しい物に目を輝かせて夢中になり笑っていた男の子の耳に、自分の名を呼び聞き慣れた声が届いた。母親の声である。
「おかあさんだ!」
振り向いた目線の先には、数刻前までその存在を求めていた母親の姿があった。少女に母親が来たことを伝えようと、男の子は満面の笑みで顔を戻した。
が、男の子の前には、誰の姿もなかった。
「おねえちゃん?」
手元には、先程まで少女と遊んでいた黄色のおはじきがあった。だから、少女と遊んでいたことは確かなはずだった。だが、目の前には誰かがいたという形跡はない。手の中のおはじき以外は、ついさっきまで遊んでいたはずのおもちゃもない、赤い着物を着た少女もいない。
目線を上に上げると、目に入ったのは葉を黄色に染めた大きなイチョウの木だった。今まで泣くことや遊ぶことに夢中で気付かなかったが、あらためて辺りを見回せば、ここはイチョウ並木だった。
「こんなところにいたのね。見つかって良かったわ」
息を切らせながら駆け寄ってきた母親は、男の子をぎゅっと抱きしめた。どうやらはぐれた彼をずっと捜し続けていたようだ。
「ねぇ、おねえちゃんは?」
「おねえちゃん? あなたは一人っ子でしょ」
「そうじゃないよ。さっき、僕と一緒にいたでしょ」
「? 誰もいなかったわよ?」
男の子がどれほど少女の存在を言っても、母親は誰の姿も見ていないという。そして強く手を引かれながら男の子はこのイチョウの道を後にした。
夢かと思える先程の出来事で、唯一少女の存在を証明するおはじきを握りしめて、男の子は小さく呟く。
「これ、ちゃんと返しに来るから。だから、その時にちゃんと姿を見せてね」
その言葉に答えるかのように、ふわりと風が吹き、散ったイチョウの葉が一枚、男の子の着ている服の胸ポケットに入った。
時が経つに連れ薄れ行く記憶の中で、印象強く残っているのは、少女の綺麗な黄色の瞳。
それは、いつか交わした秋の約束。
‡
緑の木々が赤や黄色になり、ひんやりとした冷たい風が肌を撫でる季節。
短い黒髪に黒い瞳をした、少し華奢な印象を与える少年、秋時陸は友達の家へと長いイチョウ並木の道を歩き向かっていた。
下を向けば、舞い散るイチョウが地面に金色の絨毯を拡げ、上を向けば地面と同じ色の葉が空色の道を作っている。そんな、一見目が痛くなりそうな色で覆われた幻想的な空間を歩く陸の視界に、イチョウの葉と木の幹以外の色が入った。
――鮮やかな、少しくすんだ赤い色。
惹かれるように、その色の方へ黒い瞳を向けると、先程見えた赤い色の着物を身に纏った一人の少女がこちらを見ていた。
髪の色は木の幹のような茶色で、その瞳は辺りに溢れるイチョウの葉と同じ色をしていた。腰程までの真っ直ぐした長い髪で前髪をおかっぱに切り、不健康そうにも見える、透けるような白い肌に整った顔立ち、時季外れともとれる格好が、その少女には似つかわしく思われる。不気味にも感じられるその存在は、けれどこのイチョウ並木のように幻想的で陸はぼうっと少女を眺め続けていた。
「こんにちは」
小さいけれど、良く響くその声は、確かに陸の耳に届いた。いや、耳から入ると言うよりも、頭の中に響くような感じだった。
「こ、こん、こんにちは」
少しどもりながらも、陸は少女に返した。少女は目を細め、赤い唇の両端を少し上に上げた。柔らかい笑みをその顔に浮かべたまま、からころと下駄の音をさせながら、少女は陸の方へと歩を進めて来た。
「どこいくの?」
陸の前でぴたりと歩みを止めて、少女が言った。
「友達の家、だけど……」
見上げてくる少女から、目を逸らせない。
と、急にふいっと少女の方から目を逸らした。緊張がほぐれたような安心感を抱きつつ見ると、少女は何処か寂しそうな表情をその顔に浮かべていた。
陸は慌てたようにたじろぐ。自分は彼女になにか悪いことを言ったのか。しかし、目の前の少女とは知り合いでもないはずだ。
ふと、少女の黄色い瞳が目に止まる。記憶のどこかに引っ掛かるその瞳に、陸は内心首を傾げながらも友人との約束の時間もありいつまでも立ち止まっているわけにもいかず、歩を進めた。
「友達と時間約束してるから、失礼します」
少女の横を通りすぎたとき、ぽつりと聞こえた。
「返すって、約束したくせに」
憎しみは含まない、ただ、いまにも泣きそうな気持ちの押し込まれたその声に思わず振り向くと、陸の後ろ、先程まで少女がいたところには誰もいなかった。
そのとき、陸が感じたのは、既視感でもなく、いつか確かに見たという確信。
それがいつだったかは覚えていないが、場所は確かにこのイチョウ並木だ。
「君は、誰?」
誰もいない空間に、誰かの気配を感じながら陸は言った。
返答などあるはずもなく、そっとため息をついて再び前を向き歩きだそうとした陸の靴が、何かを踏んだ。
何かと思い、足を上げ踏んだものを拾い上げる。
それは、黄色い色をした一つのおはじきだった。
「なんでこんなものが?」
足元をみて歩く癖のある陸の記憶は、そこには先程までおはじきはなかったことを訴えている。
不思議に思いながらおはじきを眺める陸は、当初の目的を思い出して慌てて腕時計見た。もう間に合いそうにないがしょうがないと思いつつも意識を現実へと戻す。
少女の瞳と同じように記憶に引っ掛かるそれを、陸はズボンのポケットの中に入れてようやく歩きだした。
‡
夢を見た。幼い自分が、あのイチョウ並木で誰かと遊んでいる夢。
イチョウと同じ色の瞳が、遊ぶ陸を優しそうに見る。陸はその瞳に満面の笑みを返す。くすんだ赤い色の着物を着た茶色い髪の毛少女が、陸の目に映る。
辺りにはたくさんのおもちゃが散らばっている。陸は、その中から黄色いおはじきを拾って少女にそれを向けて言う。
「この色、おねえちゃんの目の色に似てるね」
そこで、母親の自分を呼ぶ声が聞こえ、陸は声のほうに振り向く。母親の姿を認め、再び少女の方を向くと、もう誰もいない。
陸は、目を覚ました。
あれは、この町に初めて来た時に出会った不思議な少女との昔の記憶。
陸は昨日出会った少女が誰であったのかを思い出した。「杏」という名の、泣いている自分を慰めてくれた少女。あれは、とても奇妙な出来事ではあったが、長い年月の中でだんだんと陸の記憶から薄れていっていたのだ。
先程からずっと聞こえて来る自分の名を呼んで起きなさいと言う階下からの母親の声に、起きたよと返事を返して母親の声は夢ではなかったんだなと思いつつ、学校へ行く準備を始める。
部屋を出る前に、思い出したように幼い頃に作った宝箱と称したおやつの缶の蓋を開け、中に入っているあの日の黄色いおはじきと昨日拾った同じ色のおはじきとの二つを小さな袋にまとめて入れ、制服のズボンのポケットへと入れた。
陸は、あの日の少女との約束を果たすことを決め、部屋を後にした。
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学校からの帰り道の空は、重たく濁っていて今にも雨が降り出しそうだった。陸はそんな曇り空の下を足速でイチョウ並木へと向かう。
イチョウ並木は大きな道ではあるけれど人通りはいつも少なく、今陸が歩いているこの時も誰も通っていない。だが、人通りが少ないわりに不思議とこの道での犯罪や事故は過去一つも起こっていないという。思うと、全ては杏がこの道を守っていてくれていたのかもしれないと陸は考えた。
「杏おねえちゃん。約束、果たしに来たよ」
誰もいない黄色い空間で、陸は杏を呼ぶ。
陸が瞬き一つした間に、目の前には杏の姿があった。杏は顔に何の感情も浮かべず、ただ静かに陸を見据えて言った。
「約束、忘れてた。ずっと会いに来てくれるのを待ってたのに、いつもこの道を通り過ぎるだけ」
「うん。……ごめん」
幼い頃のあの出来事の後、しばらくは覚えていた陸だったが、いざ町に引っ越しをするときの慌ただしさと、必死に新しい環境に慣れようと幼いながらも頑張る中でそれはすっかりと忘れ去られてしまっていた。
陸は見つけた宝物はすぐに宝箱に入れる性格だった当時の自分に感謝した。そうでなければ、もし思い出せたとしてもあの日の黄色いおはじきは見つからなかっただろう。
袋から二つのおはじきを取り出して掌に乗せて杏に差し出す。
「長い間借りてごめん。自分から約束したのに忘れててごめん」
と、今まで無表情だった杏は頬を膨らませて不満げな表情をその顔に浮かべた。
「どれだけ待ったと思ってるの? 十三年よ、十三年!」
怒るようにそこまで言うと、でも、と表情を一気に緩めてあの時のような優しい笑みで続けた。
「思い出してくれて、こうして来てくれただけでも、うれしいわ。今まで私の姿を見ることの出来る人に出会ったことなんてなかったから」
あの日泣く幼い子どもの姿に、思わず慰めるように頭を撫でた。顔を上げたその子どもの目が自分に焦点を合わせた時は驚いたわ、と杏は陸に語った。
「それは、あなたが持ってて」
杏は陸の手の中のおはじきを受け取ることなく言った。
「えっ、何で……?」
予想外の杏の言葉に陸は戸惑った。おはじきを返すと約束し、約束を忘れたなと陸の前に姿を現し、約束を果たしに来たら約束品は受け取らないと拒否された。
そんな陸に、杏は言った。
「だって、それがあればいつまでも私のことは忘れたりしないでしょう? 私のことを覚えて欲しいの。ここ居るのに、誰にも見つけてもらえなかった、私の唯一の存在証明」
哀しそうに寂しそうに言う杏に、陸は声をかけようとした。が、またまばたきしたその間に、杏の姿はもうそこにはなかった。
何度も杏を呼ぶ。だが、気配は感じるが返事はない。
「また、来るから」
そう言い残し、陸は諦めてその日は帰ることにした。
陸はなぜ今頃杏が自分の前に姿を現したのか、深く考えることはなかった。
それから毎日学校帰りにイチョウ並木に立ち寄ったが、杏が陸の前に姿を現すことはなかった。
一週間後、陸はあのイチョウ並木が道路に整備されるために取り壊されることを知った。
高校生一人がどんなに言っても相手にされるわけもなく、イチョウ並木の取り壊しは進んで行った。工事が進むにつれて、始めのうちこそあししげく通っていた陸だったが、イチョウの木が切られる様子を見たくなくて、通うことを止めた。
陸の手の中にころりと転がる二つの黄色い瞳と彼の持つ秋の日の記憶だけが、杏がいたということを示す唯一のものとなった。
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開発工事が済み、綺麗に整備された道路が出来た。
だか、始めは狭い歩道と四車線の道路とになるはずだったのだが、道路は二車線、歩道は広くなっている。
そして片側の歩道には、一本だけ、イチョウの木があった。たくさんあったイチョウの木を切って取り除いていたが、一本だけは機械が故障するなどのトラブルが起き、どうしても切ることが出来ずに何かの祟りかとも恐れられ、結局切られないままになったということだ。切ることが出来ない上に、そのままでは予定通りに道路を作ることは出来ないが安全には変えられないのでとイチョウの木に合わせて歩道を広くしたそうだ。
そんな話を聞いた陸は、その日道路が完成して以来初めてイチョウ並木跡へと向かった。
イチョウの木へと向かう陸の瞳に、くすんだ赤い色が入る。
近づいてきた陸に、イチョウ色の瞳が明るく微笑んで言った。
「やっぱり消えたくなくて、残っちゃった!」
約2時間くらいで書いたのです。
個人的にストーリーは気に入ってるんだけど、何か足りない感があります。
読んでくださり、ありがとうございました!