そのさん
途中から回想入ります。
馬車はやがてオールセン家の前に辿り着いた。
混乱と二日酔いが相まって現実逃避を続けるアルメリアを男は実に自然な形でエスコートして馬車から降ろした。
屋敷の前にはオールセン男爵夫妻が立っており、馬車から降り立つ二人を見て男爵が青ざめた。
「マ、マティアス殿下!? いったいなぜこのような所へおいでなのですか!?」
「え、マティアス殿下って……ウソ!?」
手を取られたままのアルメリアは隣に立つ男を見上げる。
こちらを見下ろすのは艶やかな鳶色の髪に濃紺の瞳がきらめく美貌の男性。
昨夜の庶民を装った気さくな雰囲気は鳴りを潜め、目の前にいるのは気品に溢れるこのレヴィル国の第二王子。マティアス・オスカー・サルディアスその人であった。
「黙っていてごめんね。でも君だって変装していたのだからお互い様だよ」
そう言って微笑む姿も実に優雅で、正直言ってアルメリアは圧倒されていた。
(一体この神々しいまでの空気は何なのかしら。私が今まで習ってきたマナー講座のすべてを駆使してもこの優雅さの足元にも及ばないわ! さすがは王族の方ね)
「アルメリア、そろそろ現実に帰っておいで。私は逃がすつもりはないよ?」
その発言にアルメリアだけでなく、男爵夫妻までもが慄いた。
「ああ、アルメリア。お前はとうとう捕まってしまったのか……」
「仕方ありませんわ、あなた。殿下の思いは三年前からわかっていたことではありませんか」
嘆く男爵と宥める夫人を前にして不思議なのはアルメリアである。
「お父様、お母様。三年前とはどういうことですか? わたしはマティアス殿下にお会いするのは今日、いえ昨日が初めてなのですが?」
失礼にならないようマティアスの手から逃れようとするが、しっかりと手を握られ、あまつさえ腰にまで手を回されてますます密着具合が高まってしまっている彼女に対して、その美貌を切なくゆがめて彼は語りだした。
「私達の出会いが私だけの思い出だなんて悲しいな。君は三年前に私を助けてくれたことを忘れてしまったの?」
それは一国の王子と一介の男爵令嬢がお忍びをしている時に出会った日の事だった。
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地方に視察に来たついでに忍び歩きをするのはマティアスにとっての一番の娯楽だった。
王都でやらないのは、目立つ顔立ちで人の心に残るのを避ける為と、あまりおおっぴらには言えないようなことをする為でもあった。
一夜のアバンチュールなどはまだいいほうで、ごろつき共が絡んでくるのを幸い、騎士団の訓練を受けて培った腕前で痛めつけたりと、世間の評判からは程遠い素行の悪さだった。
三年前のあの日、いつものように視察を終えた後に町に出歩いていた。
しかしこの地方は住人の人柄が温厚で、身なりの良い若者が隙だらけで歩いていても絡むどころか心配までしてくる。
普通なら、上に立つ者として喜ぶべきことも、今の彼にとっては気に入らない事だった。
(なんてつまらない所だろうか。真面目ぶっていて、気に入らないな)
半ば意地になったマティアスは、この町で騒ぎを起こしてやろうと、たまたま目についた学生と思しき少年に殴りかかった。
数人で歩いていたところにいきなり喧嘩を売るのだから、間違いなく買うだろうと見当をつけて。
その目論見は当たったのだが、それ以外は彼の予想を大きく外れた。
なんと、学生だけでなく近くにいた住人すべてが暴漢であるマティアスを撃退するべく動いたのだ。
四、五人相手に立ち回れる彼も、十数人の人々が相手では勝ち目などあるはずがない。
「こいつを自警団に引っ立てろ!」と押さえつけられた頭の上で交わされる会話に青ざめる。
ここで自警団に引き渡されてしまえば、自分の身分がばれてしまう。今までの素行が王都に伝われば、間違いなく身の破滅である。
完全に自業自得だが、それを恐れたマティアスは必死になって抵抗した。
住人が業を煮やして縛り付けようとしたところで、「ちょっと待ってください!」と割って入る声がした。
周囲の視線の先には、金色の髪をした少女が立っている。やや怯えた様子でありながらも、はっきりとした口調で住人達を止めようと口を開く。
「その人を放してあげてください。どうしてみんなで取り囲んでいるんですか?」
「お嬢さん。こいつは道を歩いている学生たちにいきなり殴りかかってきた暴漢なんだ。危ないから下がってな」
厳つい顔の酒屋の店主の言葉に一瞬ひるんだ少女だが、少し考えて顔を上げた。
「では、その人はオールセン男爵家が責任を持って預かります。私を迎えに馬車が来るので、彼を一緒に連れて行きます」
その言葉に、マティアス以外の人々は少女の正体を悟ったが、マティアスといえば、
(男爵家などが我が身を預かるなど不敬もいいところだな。まあ、この状況を脱することができるのだからさしあたっては我慢してやろう)と、反省の色も無く傲慢なことを考えていた。