4、悲鳴は遠く高く響くものでして
投げ飛ばされた。そう感じた。
「立ちなさい友里!そんなのでこの……が務まりますか!」
務めようと思ったことはないのだが。
「さぁ立ちなさい!朝のけいこをサボるなど!」
ヒステリックな声が耳障りだ。黙れ、黙れ黙れ。
「貴女がそんなのだからクロが死んだのでしょう!」
黙れ!
『友里嬢。ずいぶんうなされていましたね』
「うるさいわね……」
どうやら久方ぶりに夢を見たらしい。頭がずきずきする。
よっこらしょ、と自然に声が出てしまったあたり老化が始まっているのだろうか。
「友里様、起きてください」
「もう起きてるわよ」
畳の上で上体を起こすと、自然にため息が出た。
どうやらそろそろタイムリミットだ。
「友里ぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」
さよなら、私の平和な時間。
すぱぁぁぁんと開けられた障子の奥からずかずかと我が母上さまが入ってくる。がしっと肩をつかんだと思ったら華麗に投げ飛ばされた。なんだこのデジャビュ。
「いつまで眠っているのです!昨日は昨日で遅くまで遊び……私は貴女をそのように育てた覚えはありません!」
「育てられた覚えもありません、母上様」
「いいですか!貴女はこの宙野コーポレーションの跡取り!朝は五時に起きろと何度言ったら!」
「世間一般的に高校生と言うのは六時半に起きらればそれで優秀の範囲内では母上様」
「あぁ、旦那さま。申し訳ございません。私のいたらぬばっかりに」
「聞けよ」
朝の五時からこんな大騒ぎしてごめんなさい、近所の皆様。
世間的にはダイニングルームなどに机やいすが並び、そこで家族そろって和気あいあいとした食事をするのだろうが、我が家はちと特殊だ。
食事では私語厳禁。テレビなんてもってのほか。ひたすら無言の中、同じ食卓を囲むのは祖母と母と私という何とも女の園状態だ。しかしこのムードは険悪以外の何物でもない。
「ごちそうさまでした」
祖母が箸を置いた。全員が居住まいを正す。怒鳴られる覚悟はできているが怒鳴られるだけならどれだけよかったか。
「友里。表に出なさい」
出た。伝家の宝刀、表に出なさい。
「昨日何をしていたのか吐きなさい」
「……吐いて信じてくれたらどれだけよかったか」
「何か言いましたか?」
六十代とはとても思えない殺気を放つ祖母は人間ではないのかもしれない。首根っこをつかまれて庭に放り投げられる。本日二回目。
「正座をしなさい。それからこれを持ちなさい」
どん、と膝の上にのせられた漬物石。
今日は学校に行けないかもしれない。
学校には結局二時間遅刻して、皆勤賞を取り逃した。そんなことを祖母に言うとヒステリックに叫ぶのだろうが。
「友里ぃ。疲れてる?」
「かなり」
「……絞られた?」
「足に赤いあざがある」
「ご愁傷さま」
美紀が苦々しく笑った。リプドンのストローを加えたまま行儀悪く喋る。
「一般的な家庭ってこれだから疲れるんだよね。凡人は超人に対する理解が足りないと思うよ。まったく」
「夜遅くに歩いてたら職質されたりする?」
「それは、まぁね」
美紀がリプドンを一息で飲み干す。すごい肺活量だ。潜水士の資格だって取れるかもしれない。小さなパックを文字通り握りつぶして箸を取った。
「いただきます」
「はい、いただいてください」
屋上にさわやかな風が吹き抜けた。一人で食べるには量が多すぎる弁当を美紀に半分押しつけて、平和な昼休みが過ぎていく。
「友里は大変だねぇ……」
「まぁ、運命だと思えるだけましってことで」
「家でも学校でもクールの仮面かぶってて疲れるっしょ?」
「まぁ、ね……」
軽く自嘲気味に笑いながら、肩で昼寝をしている猫を見た。ここ最近暑いと思ったらお前等の所為か。猫は嫌いじゃないからまぁ良いが。
さわさわと揺れる風を感じていると、不意に猫の耳がぴん、と立った。
『友里嬢。何か来ますよ』
「さすが猫ちゃん。敏感だね」
『美紀殿。その呼び方は止めてくださいと何度言ったら』
「聞こえなーい。でも妙だね。妖怪の活動時間は夜なのに」
屋上に吹き荒れる風が急に強くなった。髪の毛が乱される。空の紙パックが宙に舞った。
「老化が始まっているかもしれない。これ、なんか歌に聞こえてきた」
『幻聴ですか?友里嬢。だからあれほど普段から野菜を採れと』
「幻聴じゃないよ。猫ちゃん」
美紀の目が細まった。声に鋭さが感じられる。
「これ、あの人の歌に似てる」
「昨日の人?あぁ、確かに」
澄んだ声に込められた悲しみの色はまるで昨日のそれだった。なめらかにつづく哀の歌が途中でぶつりと切れる。
刹那、さわさわと感じていた悪寒が一気に強まった。
「……き、気色悪ぅ……」
「美紀。失礼」
「だって気持ち悪いじゃん。霊感強いとこういう感覚も鋭くなって嫌だなぁ全く!」
「私たちがこれだけ強く感じるってことは、普通の子達も結構な悪寒を感じてるかもしれないわね」
顎に手をあてると、肩にのっていた猫が頭に移動した。しっぽをぴんと立てて威嚇する。
「どうしたの?」
『フゥゥゥゥゥゥ――――!!』
「ねぇ、聞いてる?」
威嚇を止めない。ぞくりとした寒気が全身を這う虫のような感覚に変わる。
「気持ち悪い……ッ!」
「なんかマズイ感じだね……唯一まともに妖怪と戦えるあの人の所にとりあえず逃げッ!?」
走り出そうとした美紀の目の前を風の刃が通過した。校舎の鉄扉がきしむ。
「…………」
「美紀、大丈夫?」
「し、死ぬかと……」
立ちあがってスカートのすそをはらう。曇天になった空を猫がひたすら威嚇していた。こんなに牙をむいているのを見るのは初めてだ。正直怖い。
「とりあえず、逃げなければ始まらない!」
「始まらせる必要もないと思うけど……」
「良いから走る!」
階段を引っ張られるようにして走る。途中何度か転びかけた。後ろから何かが追ってくる感覚に吐き気がする。
「コンピューター室に逃げ込めばこっちのもんだから急いで!」
「ねぇ、美紀。忘れてない?」
「は?」
「体力的には私のほうが美紀より多いってこと」
「へ?ちょっと友里あんた接触恐怖症は!?」
「そんなこと言ってる暇があったら逃げる!」
ひょいっと担ぎあげると美紀が変な声を出した。こっちが変態に見えるからやめてほしい。段差なんかほぼ無視で進む。途中生徒にすれ違ったりもしたがスルースキルはこういうときに多用するものでして。
廊下を走るなと叫ぶ教師が途中で黙った。肩を震わせている。とうとう普通の人々にも影響が出始めた。少々、いやかなりヤバいか。
「次のコーナー曲がったらコンピューター室!」
「さぁ各馬一斉にスタートォ!」
「あんた楽しんでるでしょ」
まだ何かが追っている感覚は止まない。ひゅお、と風がうなって頬が裂けた。血がにじむ。
「ちょ、ちょっと友里大丈夫!?」
「……正直言って漬物石よりマシ」
「丈夫に育ってくれてお母さん嬉しいよ」
「黙れ」
角を曲がりきった。引き戸を思いっきり引っ張り中に滑り込む。今さら接触恐怖症の症状が出て手が震え始めた。
「やぁ、友里君。美紀君。また何か厄介事かい?」
「あ……んたは、気付いてたなら、何とか、してくださいよ……」
「二人ともよく頑張った。よく逃げてきた」
「薫先輩!?」
美紀があんぐりと口を開ける。よ、と手を挙げるところはそこそこきまっているのだが、口に咥えた苺牛乳が全てを相殺していた。もったいない。
「何があったんですか。どうしたんですか」
「説明しても良いんだけどね。空衣君はまだかな?」
水鳥先輩がポケットから無造作に紙を数枚出した。その辺のティッシュペーパーと見間違えるほどくしゃくしゃになったそれを丁寧に伸ばす。
「遅くなりました!」
「やぁ、空衣君。君も無事で何よりだよ」
「あれなんですか。鎌鼬にしては少々タチが悪いですけど」
「それも後で説明するよ。まずはだね、君」
のばされた和紙に刻まれた文字が紙を滑っていく。空衣くんの喉が引きつる音が聞こえた。
「僕それ嫌いなんです!」
「知ってるよ。だから早く向こうに行きたまえ」
「酷い!」
あんまりです!と空衣くんが叫んでこちらに逃げてきた。頭に狐の毛がついている。
「先輩、酷いと思いませんか!?」
「まぁそれがトモだし」
「薫先輩まで!」
小柄な、私よりも身長が低い空衣くんがおいおいと泣き始めた。男なのに泣くなと言いたいところだが妖怪に術式は酷だろう。少しだけ同情する。
「さぁ、片づけてしまおうか」
水鳥先輩がニヒルに笑った。前方から風の音がする。生徒の悲鳴が聞こえた。廊下を血が滑る。
「血!?」
美紀が過剰反応した。
「鎌鼬系の妖怪は風を刃物みたいに操れますからって先輩こっちにそれ向けないでいたいいたいいたい!」
「おいトモ。苛めてやるなって」
可哀そうにしっぽまで出した空衣くんが悲鳴を上げる。これが楽しいと思うのは私がサドだからだろう。
「あぁすまなかったね。つい楽しくてね」
結論から言おう。この人は私の上をいくサドだ。
「遊びは終わりだ。さっさと片付けないとダージリンが渋くなってしまう」
ぱち、と電気質な音がした。
ぱちぱちぱちぱちっ、ばちん!
「いいいいいやああああああああああああああああああああああ!!」
「空衣落ち付けーッ!」
「嫌ですその音嫌いですぅぅぅぅぅぅ!」
「頼むから爪は立てるな痛いから痛い!」
はぁ、と美紀がため息をつく。耳栓を取り出して空衣くんの耳に当てた。
「せんぱーい。ちょっと手加減して……」
「今年のファーストフラッシュなんだ渋くさせるわけにはいかない」
「聞こえてないみたいですね」
「あいつの紅茶好きは以上だからな」
電気質な音は強まっていく。空衣くんは哀れうずくまっている。最後に一度大きな爆発音がして、嫌な感じは完全に消し飛んだ。
「さぁ終わった。飲もうか」
「トモ。まず空衣に謝れ」
「すまなかったね空衣くん。もう二度としないよ。たぶん」
「たぶんじゃ困りますぅぅぅぅぅ!」
私の中の空衣くん像が音を立てて崩れるのを感じた。