1、音楽室のあの世とこの世
猫が死んだ。
寒い、寒い夜だった。星が輝いていた。台所の隅の、やつのお気に入りのクッションにもたれかかりながら天命をまっとうした。十二歳。当時の私と一歳違いの、可愛い弟。
それからだ、私が‘生’と‘死’の世界に強烈な興味を持ったのは。
「ねー、宿題終わったー?」
「まだ。終わるわけないよ、あんなの」
「うーん……宙野さんでもだめかぁ……」
「ごめんね。あの量はさすがに無理」
申し訳なさそうに私が返す。‘生’の世界ではそれなりに優秀な成績で、それなりの運動音痴という普通の女子だ。
‘生’の世界の友人達はそろいもそろって同じ趣味、同じ顔。髪型も同じだったら、好きな芸能人も一緒。標準装備はふわふわのシュシュ、黒いゴムとコーム(櫛)、カラフルなペン、エトセトラエトセトラ。使用言語は「えー?」「マジで?」「うっそー」「ヤバいよね」。これら四つの言語を表情や口調だけで使い分けていく彼女等はある意味で天才かも知れない。残念ながら私にそういう処世術は無い。
そして、彼女達の話題はいつも「コイバナ」と呼ばれる類のもの。それに同調する私。溶け込まなければ命は無い。一人ひとりは弱いくせに、群れたらとたんに強くなったり威張りだす彼女達は私の最大の敵であり味方だ。だから溶け込む。無駄に敵を作るのは趣味ではない。
‘生’の世界はとかく辛いものだ。自己主張も許されない。
「はぁ……」
『友里嬢。いかがなされた?』
「別に?」
‘死’の世界の来訪者が耳元で声をかけた。よっこらしょと私の肩まで這いあがってきたらしい。ご苦労なことだ。半透明の、誰がどう見ても幽霊と呼ばれるだろうその猫は、生前は柔らかかったであろう肉級で私の頭をぽんぽんと叩いた。
「止めて。痛い」
『おや?友里嬢は人間なのに妖の痛覚が分かるのですか?』
「気分よ。きーぶーん」
ここまで話しているのに全く気付かれないのは、私が声に出して会話していないから。脳内や心中で思ったことが伝わる、所謂テレパシーという奴は本当に便利だ。とくにテスト中。私が秀才を演じていられるのはこれと日ごろの努力のおかげだろう。なんてことを考えていると再び猫がぽんと頭を叩いた。どうやらこの動作が気に入ったらしい。
「叩かないでってば」
『どうせ感覚は伝わらないのですからよろしいでしょう?』
「いや、伝わってるよ」
羽毛のような何かが頭におちてくる、妙な感覚が。その妙な感覚が彼らの存在している証。これがなくなると私でも彼らの存在に気付かないだろう。
くだらない、数学教師の解説を聞き流しながら、心の中で思ったことを率直に奴にぶつける。
「‘生’の世界は退屈で、自由じゃないわ」
『なら、‘死’の世界においでになられますか?』
「今は遠慮よ。この年であの世に行くつもりはない」
そう返答すると、肩の猫はつまらなそうに一声鳴いた。
「友里!ゆぅーりぃぃぃぃ!」
騒々しく飛びこんできた我が学友は、教室の引き戸を引っ張り押し出し私の名前を叫んだ。非常に迷惑だ。一度きつく睨むと、睨まれたことより私を発見したことが嬉しかったのかいきなり飛びついてくる。
「……何?」
彼女の左手をつかみ、力を込める。そのまま投げ飛ばすことも考えたが、さすがにそれは酷だと思ったので、ねじってみた。悲鳴のような声とともに飛びのいた残念な学友が私に対して猛抗議する。
「今絶ッ対手首の骨逝ったよね!?」
「知らない。抱きついてくるほうが悪いんでしょ?」
「あ、接触恐怖症、だっけ?ごめんね」
肩をすくめる動作とともにふわふわと茶色の毛が揺れる。放課後特有の生温かい空気に触れて、柔らかく輝く。
「で?なんの用なのよ、美紀」
「あ、忘れてた。そうだった。部長から呼ばれてきたんだよっ!ほら早く支度して!」
支度して、と言う前に私の手をむんずとつかんで、教室から出ていく。帰りどうしようか。鍵あいてると良いなぁ。いちいち階下まで取りに行くのはあまりにも面倒くさい。そもそも教室に鍵をかける意味が分からない。高校生なんてロクな金持ってないでしょうに。
なんてことをのほほんと考えている間に、教室の扉がいよいよ遠のく。2Bと書かれた札がかかった、スチールの扉が閉まってしまった。光速の早歩きで廊下を進む美紀。私は相変わらず引きずられている。薄紫と灰色の、制服のプリーツスカートがぐしゃぐしゃだ。下にはスパッツをはいているのでなんら問題は無いのだが。
「君、廊下は走らない」
中年のガマガエルのような教師が美紀を指さして言った。ぴたりと直立不動の姿勢で、お言葉ですが、と切り出す。
「先生。走るというのはどこが基準なんでしょうか。たしか先生は授業中、両足が同時に地面から離れる瞬間がある移動方法を‘走る’だとおっしゃいました。では、お伺いしますが、私は両足を同時に地面から離していたでしょうか?私は離した覚えは全くございませんわ。いかがですか?先生、私は走っていまして?」
教師が言い淀む一瞬の隙をついて美紀が再び歩き出した。言い訳をさせたら天下一品だ。お嬢言葉がやたら腹立つ。追いかけて注意しない教師も教師だと思うが。
そうこうしているあいだにコンピューター室の前にたどり着いてしまった。もう逃げ場は無いらしい。今までどこにいたのか、猫が諦めろと言わんばかりに一声鳴いた。美紀が勢いよく扉を開ける。暗かった部屋に自然光があふれた。
「部長。水鳥部長。連れてきましたよ」
「ご苦労」
大儀そうに頷いて、メインコンピューターの前から立ち上がった眼鏡の男子は、この部活の部長である水鳥智治は、にこやかに笑いながら私に近づいてくる。その不快な笑顔を一にらみして封じてから、むすっとした表情のまま小さく挨拶した。
「やぁ、友里君。久しぶりだね」
「どうも。三日ぶりですね、水鳥先輩」
しばらく両者のにらみ合いが続く。にこにことした笑顔を崩さない先輩と、ふてくされたような顔で立ち上がった私。
「何の用ですか?」
「最近会っていないからね」
「冗談を言ってるなら刺しますよ」
「物騒なことを言わないでくれたまえ」
眼鏡をちょいっと上げて、きざったらしい口調でそんなことを言われた。大変不快だ。
「本当になんの用ですか?」
そろそろ怒るぞ、と私は腕を組む。後ろからちわーっと声がかかった。
「おぉ、一触即発?俺ナイスタイミング?」
「あ、薫先輩。こんにちは」
「美紀の巫女ちゃんじゃん。おひさー。それで、何があった?」
「この二人がこの状態になることはよくあることですよ」
よくあることで悪かったな。
「いい加減に本題に入ってくれませんか?」
入らないのだったらせめて鞄くらいは取りに帰りたい。じとっとした目で水鳥先輩を見ると、これは失敬、と扉を再び閉めた。暗がりの中で大量の妖が動く。
『お嬢!お久しぶりでさぁ!』
『巫女の姐さんも!』
わらわらと群がる小妖怪をあしらいながら、手ごろな回転いすに座った。すかさず猫又が紅茶を出してくれる。
「よくもまあここまで調教したものね」
「妖怪を操るのが僕の仕事だからね」
さもなんてことなさそうに言うが、プロの霊能力者でもここまで調教するのには三十年ほどかかるだろう。この人はたった一ヶ月でこんなことを成し遂げるから、悔しいがその点では評価せざるを得ない。
「さぁ、始めようか。超常現象研究会。略して超研の部活動を」
「待ってました!」
薫先輩がはやし立てる。周りの妖怪達も立ち上がって拍手を始めた。こんな環境だからきっと新入部員が三人しか入らないんだろうな、と推測してみる。水鳥先輩の琥珀色の目が闇の中で不気味な光を放つ。
「今回は学校の七不思議にいよいよ手をつけてみようと思う。長い間放置してきたが、そろそろ着手しなければまずいだろう」
「質問!七不思議ってなんですか?」
話し始めて三秒で質問を浴びせられる先輩。満足そうに答える。
「この高校には七つの伝説が残っている。ほかの学校にもよくある話だが、この学校の伝説は少し変わっていてね。妖怪共がやたらとおばちゃん臭いんだ」
「たとえば?」
「有名なのは“水曜日の夜十時に音楽室の肖像画達が井戸端会議を始める”だね。この時間には十年ほど前からバラエティー番組がある。その所為か、ベートーヴェンが最近の政治について愚痴ったり、モーツァルトが芸能人の結婚に嘆いたりするらしいんだ」
もし本当にそんなことがあったのなら歴史上の偉人に乗り移ってなんて話をしているんだその妖怪達は。髪型はアレでも一応偉い人のはずだぞ。心の中でしっかりとツッコンでいると、美紀も本当だとは思えないらしく、疑う言葉を素直に口に出した。
「……冗談ですよね?」
「本当だよ。見た人だっている。僕も見た」
とんでもないことをさもなんでもないように言う。この先輩はそろそろ本気でどうかと思う。頭が痛くなってきた。
「まず、その肖像画の皆さんにおとなしくしてもらおうと思う。保護できるなら保護しよう。あまり世間に広まってしまうと、ただでさえ妖怪に優しくない環境がさらに悪くなるだろう。そうすると困るのは彼らだけではない。彼らの加護を受けていた人間達にもいろいろな災難が降りかかる」
化け物の加護を受けて生きながらえている人間も少なくない、と付け加えて、水鳥先輩は言葉を切った。人間は妖怪を嫌うが、妖怪なくしては人間の存在はあり得ない。妖怪の加護がなければ作物も実らないし、病気も治らない。
超常現象を人間は“科学”を使って解き明かした気になっているが、それは大きな間違いなのだ。だから私達超能力者は理科が嫌いだったりする。
「何故、自分が来たのかと友里君は聞いたね」
「はい」
「口寄せをしてもらおうと思う。僕や薫、美紀君は妖怪の声が聞けるが、ほかの部員は聞けないからね。
まわりの人間に妖怪の気持ちを伝えるなら、妖怪を乗り移らせる口寄せが一番手っ取り早い。
そして、このメンバーの中で口寄せができるのはただ一人」
「私だけ、と。別に構いませんよ」
その返答に満足したのか、水鳥先輩はにっこりほほ笑むと、後ろの棚に何やら数字を入力して、数枚の紙切れを取りだした。人差し指と中指ではさんで何やらぶつぶつとつぶやくと、鳩とカラスの中間のような大きさの鳥が現れる。
「ほかの部員に伝えてくれたまえ。本日九時学校前集合、とね」
鳩もどきがばさばさと飛び去ったのを確認して、先輩が窓を閉める。妖怪は自然光が嫌いだ。
「では、解散!」
マイペースそのものの先輩が大きく号令をかけた。
「俺思うんだけど」
「なんですか薫先輩?」
「勝手に決めて、勝手に帰って。あいつ以上にマイペースな人間っているのか?」
「さぁ、どうかしら。世界は広いから。でも、少なくとも私はそんな人間がいたら会いたくないですね」
「上に同じ。でも、なんで憎めないんでしょうね?」
「……人徳の差?」
「「まっさかー」」
「うん。今の返答で俺もそれは無いと確信した」