E02-S03:記録の手触り
部屋に戻ったのは、十八時を過ぎていた。
勤務は定時で終わった。
残業はなかった。案件はすべて処理済み。
問題なし。適正。
いつも通りの一日だった。
制服を脱いで、部屋着に着替えた。
夕食は食堂で済ませてきた。
推奨メニュー。Aセット。
今日はAセットがあった。
昨日はなかったのに、今日はあった。
調整日が終わったのだろう。
そういうものだ。
リンは端末の前に座った。
画面を起動する。
個人ログの確認画面。
毎晩、同じ時間に開く。
家族配分の数値を見るために。
数値が表示された。
昨日と同じだった。
平均より、わずかに低い。変動なし。
リンは息を吐いた。
変わっていない。
良かった。
下がっていない。
それだけで、少し楽になる。
画面をスクロールした。
自分の行動ログ。
今日一日の記録が、時系列で並んでいる。
〈06:00 起床〉
〈06:15 出発〉
〈07:48 勤務地到着〉
〈08:00 勤務開始〉
〈12:00 昼休憩〉
〈13:00 勤務再開〉
〈17:00 勤務終了〉
〈18:12 帰宅〉
すべてが記録されている。
すべてが整然と並んでいる。
問題なし。逸脱なし。
リンはログを見つめた。
昼休憩。
十二時から十三時。
その間に、あの男と会った。
廊下で。
自動販売機の陰で。
ログには何も書かれていなかった。
当然だ。会話の内容は記録されない。
誰とすれ違ったかも記録されない。
記録されるのは、時間と場所と、大まかな行動だけ。
でも、リンは知っている。
ログの行間に、記録されないものがある。
息が浅くなったこと。
男の言葉。
この空気のせいだ、という声。
考えろ、ただし口には出すな。
それは、どこにも残らない。
リンは画面を閉じようとした。
指が止まった。
画面の隅に、小さな表示があった。見慣れない表示。
〈整合性確認:処理中〉
処理中。
何の処理だろう。リンは表示をタップした。詳細が開く。
〈対象:リン・アマクサ〉
〈項目:行動パターン分析〉
〈状態:定期確認(自動)〉
〈結果:問題なし〉
問題なし。
リンは画面を見つめた。
行動パターン分析。定期確認。自動。
知らなかった。
いや、知っていたのかもしれない。
研修で聞いた気がする。
全員のログは定期的に分析される。
異常がないか確認される。
それは保護のためだ。市民の安全のためだ。
問題なし、と書いてある。
問題はない。
リンの行動に問題はない。
朝起きて、出勤して、仕事をして、帰宅する。
逸脱はない。
異常はない。
なのに、なぜ確認されているのだろう。
いや、全員が確認されているのだ。
リンだけではない。
誰もが、同じように。
それが普通なのだ。
問題があるから確認されるのではなく、
問題がないことを確認するために確認される。
安心するべきだった。
問題なし。
その言葉に、安心するべきだった。
リンは端末を閉じた。
部屋が静かだった。
空調の音だけが聞こえる。
一定のリズム。穏やかな音。
息が浅い。
また、息が浅くなっている。
リンは意識して深呼吸をした。
吸って、吐いて、また吸って。
甘い香り。
部屋の空気にも、何かが混ぜられているのだろう。
リラックス効果のある成分。
安眠のための調整。
この空気のせいだ、と男は言った。
何のことだろう。
空気は適正だ。
酸素濃度は適正だ。
成分も適正だ。
問題はない。
問題はない。
リンはベッドに座った。
胸元のペンダントに手を伸ばした。
祖母の形見。
古い細工。中には写真が入っている。
開かなかった。
今夜は開く気になれなかった。
祖母の顔を見たら、何かが崩れそうな気がした。
代わりに、ペンダントを握りしめた。
金属の冷たさが、手のひらに伝わる。
祖母は、ログを気にしていただろうか。
祖母が生きていた頃、この仕組みはあったのだろうか。
行動パターン分析。定期確認。
問題なし、という表示。
分からない。
聞いたことがない。
祖母は、そういう話をしなかった。
祖母が話してくれたのは、昔のことだった。
エッジのこと。
外縁の空気のこと。
整えすぎない言葉のこと。
考えろ、と男は言った。
ただし、口には出すな。
何を考えればいいのだろう。
リンは天井を見上げた。
照明が、少しずつ暗くなっていく。
就寝時間が近づいている。
睡眠導入のための調光。
自動で調整される。
目を閉じた。
昨日の朝のことを思い出した。
誘導音が鳴らなかった。喉が詰まった。
何も問題はなかったのに、何かがおかしいと感じた。
昼の配給窓口。
女性が質問した。
列が整った。
誰も怒らなかった。何も起きなかった。
今朝の相談者。
数値は適正なのに、推奨事項がある。
何を改善すればいいか分からない。
専門窓口を案内した。
廊下で会った男。
息が浅い、と言われた。
この空気のせいだ、と言われた。
つながっているのだろうか。
何かが、つながっているのだろうか。
分からない。
分からないまま、リンは目を開けた。
端末が、通知を表示していた。
〈明日の予定:通常勤務〉
〈推奨起床時刻:06:00〉
〈推奨就寝時刻:22:30〉
あと三十分で、推奨就寝時刻。
リンは立ち上がって、洗面台に向かった。
歯を磨いて、顔を洗って、ベッドに戻った。
照明が、さらに暗くなった。
目を閉じた。
眠れなかった。
問題なし、という言葉が、頭の中で繰り返されていた。
問題なし。
問題なし。
問題なし。
何も問題はない。
なのに、喉の奥に、
小さな詰まりがあった。
消えないまま、夜が更けていった。




