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E02-S02:境界線の匂い


昼食を終えて、廊下を歩いていた。


午後の勤務まで、あと二十分。

休憩スペースで端末を確認するつもりだった。

家族配分の数値。

昨日と変わっていないか。

毎日、同じ時間に確認する。

習慣になっていた。


廊下は静かだった。

昼休みの終わりに近い時間帯は、人の流れが緩やかになる。

食堂から戻る人、休憩スペースに向かう人、すれ違う人。

それぞれが、それぞれの方向へ歩いていく。


リンは窓際の通路を選んだ。

外が見える場所。

といっても、見えるのはドームの内壁だけだ。

灰色の曲面が、遠くまで続いている。

空は見えない。

空という概念自体が、この世界では曖昧だった。


足を止めた。


休憩スペースの入口の手前。

自動販売機が並んでいる場所。

普段は素通りする。

飲み物は食堂で済ませていた。


でも、今日は足が止まった。


誰かがいた。


自動販売機の陰。

壁にもたれて立っている人影。

灰色のコート。


リンは息を止めた。


昨日の男だった。


男はリンを見ていなかった。

壁にもたれて、天井を見上げていた。

何をしているのか分からなかった。

待っているのか。休んでいるのか。

それとも、ただそこにいるだけなのか。


リンは動けなかった。


声をかけるべきか。

通り過ぎるべきか。

昨日は「帰れ」と言われた。

関わるな、という意味だったのかもしれない。


男が動いた。


視線が下りてきて、リンを捉えた。


「また会ったな」


低い声。

昨日と同じ。

感情のない声。


「あ、はい」


リンは答えた。

声が上ずった。


「すみません、通りかかっただけで」


「謝るな」


男が言った。


「謝る理由がない」


リンは口を閉じた。


男は壁から背を離した。

リンの方に向き直る。

昨日より近い距離だった。

三メートルほど。

顔がはっきり見えた。

疲労の影。無精髭。乾いた唇。


「お前、ケア局か」


男が言った。


「は、はい」


「窓口」


「はい。連携窓口です」


男は頷いた。

何かを確認したような頷きだった。


「名前は」


「リン・アマクサです」


言ってから、なぜ答えたのか分からなかった。見

知らぬ人に名前を教える理由はない。

でも、聞かれたから答えた。


男は名乗らなかった。


沈黙が落ちた。


廊下の空調音だけが聞こえていた。

一定のリズム。穏やかな音。

でも、リンの耳には遠く感じた。

何かが欠けているような感覚。

昨日の朝、誘導音が鳴らなかったときと同じ。


「息が浅い」


男が言った。


「え」


「お前。息が浅くなってる」


リンは自分の呼吸に意識を向けた。

確かに、浅かった。

胸の上の方だけで呼吸していた。

深く吸えていない。


「緊張しているのか」


男が聞いた。


「いえ、そういうわけでは」


「嘘だな」


男は断定した。

責めているのではなかった。

ただ、事実を指摘しているだけだった。


リンは何も言えなかった。


男は一歩、近づいた。

二メートル半。

リンは後ろに下がらなかった。

下がれなかった。


「お前、昨日、なぜ振り返った」


「振り返った」


「分岐点で。右に曲がってから、振り返っただろう」


リンは思い出した。

昨日の夕方。居住区への道。

右に曲がって、三歩歩いて、振り返った。

左の通路を見た。

理由は分からなかった。


「分かりません」


リンは正直に答えた。


「分からない」


「はい。なぜ振り返ったのか、自分でも」


男は黙った。


数秒の沈黙。


「それでいい」


男が言った。


「え」


「分からないなら、分からないでいい。無理に理由をつけるな」


リンは男の顔を見た。

何を言っているのか、分からなかった。

分からないでいい、とはどういう意味なのか。


「あの」


リンは口を開いた。


「あなたは、誰ですか」


男は答えなかった。


代わりに、視線をリンから外した。

廊下の先を見ている。

人が歩いてくる気配があった。

足音。二人分。


「時間だ」


男が言った。


「え」


「午後の勤務。遅れるぞ」


リンは端末を確認した。

十三時五十二分。勤務開始まで八分。

休憩スペースに寄る時間はなくなっていた。


顔を上げると、男はもう歩き出していた。


リンとは反対方向。

外縁へ向かう通路。

昨日と同じ方向。


「あの」


リンは声をかけた。


男は立ち止まらなかった。

振り返らなかった。


「待って」


言ってから、何を待ってほしいのか分からなかった。

聞きたいことがあったわけではない。

言いたいことがあったわけでもない。

ただ、このまま終わりたくなかった。


男が立ち止まった。


振り返らないまま、言った。


「お前の息が浅いのは、この空気のせいだ」


「空気」


「考えろ。ただし、口には出すな」


それだけ言って、男は歩き去った。


灰色のコートの裾が揺れて、

角を曲がって、見えなくなった。


リンは一人で立っていた。


廊下の空調音が戻ってきた。

足音が近づいてきた。

すれ違う人がいた。「お疲れさまです」と声をかけられた。

「お疲れさまです」と返した。


勤務に戻らなければ。


リンは歩き出した。


足元の光が点いた。誘導音が鳴った。

ケア局への経路。正しい方向。


歩きながら、男の言葉を反芻していた。


お前の息が浅いのは、この空気のせいだ。


考えろ。

ただし、口には出すな。


意味が分からなかった。

空気のせいとは、何のことなのか。

なぜ口に出してはいけないのか。


考えろ、と男は言った。


でも、何を考えればいいのか。


ケア局の入口が見えた。

自動扉が開いた。

中に入って、席についた。

端末を起動した。午後の案件が表示された。


窓口が開いた。


最初の来訪者が来た。リンは笑顔を作った。


「本日はどのようなご用件でしょうか」


いつもの声。

いつもの言葉。

いつもの手続き。


息は、まだ浅いままだった。


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