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E01-S03:ゴウとの接触


午後の勤務が終わったのは、

十七時を少し過ぎた頃だった。


端末をログアウトし、椅子から立ち上がる。

窓口の表示が「本日の業務は終了しました」に切り替わった。

七件の案件。

すべて処理済み。すべて適正。問題なし。


隣の席で、同僚が伸びをしていた。


「お疲れさまでした」


リンは言った。


「お疲れさま。今日も平和だったね」


同僚は笑った。

平和。そう、平和だった。

深刻な案件はなかった。

誰も泣かなかった。誰も声を荒らげなかった。

すべてが手順通りに進んで、すべてが適切に処理された。


リンは鞄を手に取り、ケア局を出た。


帰りの経路は、朝と同じ北通路。

誘導音が鳴り、足元の光が点く。

右へ、左へ、また右へ。

迷う必要はない。考える必要もない。


居住区に近づくにつれて、人の数が増えた。

同じ方向に歩く人、すれ違う人、立ち止まって端末を見ている人。

誰も急いでいない。誰も走っていない。

適切な速度で、適切な間隔を保って、流れていく。


分岐点で、リンは足を止めた。


右に曲がれば、居住区。

自分の部屋。

夕食を取って、端末を確認して、明日の準備をして、眠る。

いつもの夜。


左に曲がれば、連絡区画。

外縁へ向かう動線の途中。

業務以外で行ったことはない。用事はない。


誘導音が、右を示していた。

柔らかいチャイム。迷わなくていい音。


リンは右に曲がった。


三歩、歩いた。


足が止まった。


振り返った。


左の通路が見えた。照明は点いている。

人は少ない。

外縁に近づくほど、人の流れは細くなる。


なぜ振り返ったのか、分からなかった。


用事はない。理由もない。

ただ、今朝の誘導音のことを思い出した。

鳴らなかった音。

詰まった喉。

昼の配給窓口で、列が整った瞬間。


リンは左の通路を見つめていた。


「邪魔だ」


声がした。


低い声。短い言葉。後ろから。


リンは振り向いた。


男が立っていた。


四十前後に見える。

髪は短く、無造作に乱れている。

顔には疲労の影があった。

目の下に薄い隈。頬骨が少し浮いている。

着ているのは擦り切れたコート。

居住区では見ない色だった。

灰色と茶色の中間、どこにも属さない色。

袖口がほつれている。


男はリンを見ていた。

目が合った。暗い目だった。

怒っているのではない。

ただ、何も期待していない目。


「どけ」


男が言った。


リンは一歩、横に動いた。

反射的に。言われたから。


男はリンの横を通り過ぎた。

左の通路へ。外縁の方向へ。


足音が遠ざかっていく。


リンは立ち止まったまま、男の背中を見ていた。


コートの裾が揺れている。

歩幅が広い。誘導音を無視している。

足元の光が点いていない。

推奨経路ではない道を、迷いなく歩いている。


男が角を曲がる直前、立ち止まった。


振り返った。


リンと目が合った。


「何か用か」


男が言った。声は低いまま。

苛立ちはない。

確認しているだけの声。

質問というより、事実確認。


リンは口を開いた。

何を言うべきか分からなかった。

用事はない。

質問もない。

ただ、見ていた。

なぜ見ていたのか、自分でも分からなかった。


「いえ」


リンは言った。声が小さくなった。


「すみません。道を塞いでしまって」


男は何も言わなかった。


数秒、リンを見ていた。

値踏みするような視線ではなかった。

ただ、見ていた。

リンが何者か確認しているような、

あるいは、確認する価値もないと判断しているような。


「帰れ」


それだけ言って、男は角を曲がった。


足音が消えた。

灰色のコートの裾が、最後に一度だけ揺れて、見えなくなった。


リンは一人で立っていた。


北通路の分岐点。

右は居住区。左は外縁。

誘導音が、まだ右を示していた。

足元の光が、リンを待つように点滅していた。


帰れ、と男は言った。


命令ではなかった。

脅しでもなかった。

ただ、そう言っただけだった。

帰れ。

それだけ。


リンは右に曲がった。


居住区への道を歩いた。

足元の光が点いた。

誘導音が鳴った。

いつも通り。正しい道。正しい方向。


部屋に着くまで、十二分。


扉が開き、中に入り、扉が閉まった。


リンは鞄を置いて、窓辺に立った。

外は見えない。

居住区の窓は、すべて内側を向いている。

見えるのは、向かいの建物の壁だけ。


さっきの男のことを考えた。


擦り切れたコート。無造作な髪。

推奨経路を無視した歩き方。

足元の光が点かなかったこと。


誰なのか、分からない。

どこから来たのか、分からない。

何をしている人なのか、分からない。


分からないのに、リンは見ていた。


なぜ見ていたのか。


それも、分からなかった。


制服を脱いで、部屋着に着替えた。

夕食の時間まで、あと四十分。

端末が、推奨メニューを表示していた。

今日はCセット。栄養バランス、適正。


リンは端末を見つめた。


画面の隅に、家族配分の数値が出ていた。

昨日と同じ。平均より、わずかに低い。いつも通り。


胸元のペンダントに手が伸びた。


祖母の形見。古い細工。

中には写真が入っている。

若い頃の祖母。

エッジで撮られた写真だと、祖母は言っていた。


リンはペンダントを握りしめた。


祖母なら、あの男を見て、何を思っただろう。


祖母はエッジから来た人だった。

外縁の空気を知っている人だった。

整いすぎた言葉を嫌った人だった。


あの男も、外縁から来たのだろうか。

推奨経路を歩かない人。

誘導音を無視する人。

足元に光が点かない人。


分からない。聞けない。

祖母はもういない。

あの男も、もう見えない。


リンはペンダントを離した。


夕食の時間が近づいていた。

食堂に行かなければ。推奨メニューを受け取らなければ。

明日も仕事がある。

明日も、いつも通りの朝が来る。

誘導音が鳴って、表示パネルが光って、正しい道を歩いて、窓口に座る。


それでいい。それが正しい。


リンは部屋を出た。


誘導音が鳴った。

食堂への経路。正しい方向。


歩きながら、あの男の声を思い出していた。


帰れ。


短い言葉だった。冷たい言葉だった。

でも、何かが違った。


窓口の担当者が言う「ご確認ください」とは違う。

同僚が言う「お疲れさま」とは違う。

掲示に書かれた「ご協力ください」とは違う。


整えられていない言葉だった。


何のためでもない言葉だった。

ただ、帰れ、と言っただけだった。


何が違うのか、まだ分からなかった。


分からないまま、リンは食堂の扉をくぐった。

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