E01-S02:小さな逸脱
昼休みの配給窓口は、いつも静かに混んでいる。
リンは列の後ろに並んだ。
前に五人。後ろにも、すぐに三人が続いた。
誰も話さない。
端末を見ている人が二人、壁の掲示を読んでいる人が一人、
残りは正面を向いて待っている。
窓口の上に、文字が流れていた。
〈本日の推奨食:Bセット〉
〈栄養バランス:最適〉
〈待ち時間目安:四分〉
列が進む。一人、また一人。
窓口の担当者が、同じ言葉を繰り返していた。
「Bセットでよろしいですか」
「はい」
「ありがとうございます。次の方」
リンの前に、三人になった。
そのとき、列の先頭にいた女性が、何か言った。
「あの」
窓口の担当者が顔を上げた。
四十代くらいの男性。穏やかな表情。
「はい、どうされましたか」
「Aセットは、ないんですか」
女性の声は小さかった。
三十代の半ばくらいに見える。
髪を後ろで束ねている。
制服ではない、私服だった。
担当者は端末を確認した。
「申し訳ありません。本日のAセットは、配分調整により提供を見合わせております」
「調整」
女性が繰り返した。
「はい。栄養バランスの最適化のため、本日はBセットを推奨しております」
「でも、昨日はあったんです」
「はい。本日は調整日となっております」
「調整日って、いつ決まったんですか」
空気が、変わった。
リンは気づいた。
列に並んでいた人たちの視線が、微かに動いたことに。
誰も女性を見ていない。
誰も担当者を見ていない。
ただ、視線の先が、少しだけずれた。
壁の掲示へ。床へ。自分の手元へ。
担当者は笑顔のまま答えた。
「調整は、適宜実施されております。ご不便をおかけして申し訳ありません」
「適宜って」
「必要に応じて、という意味です」
「それは分かります。いつ、誰が決めたのかを聞いているんです」
女性の声が、ほんの少しだけ大きくなった。
担当者の笑顔は崩れなかった。
「ご質問ありがとうございます。詳細につきましては、案内窓口でご確認いただけます。本日のご利用は、Bセットでよろしいでしょうか」
「いえ、だから」
「Bセットも大変好評をいただいております。栄養バランスも適正です」
女性は口を開きかけて、閉じた。
リンは見ていた。
女性の肩が、わずかに下がるのを。
「……Bセットで」
「ありがとうございます」
担当者がトレイを渡した。
女性はそれを受け取り、列を離れた。
足取りは普通だった。表情も普通だった。
何も起きなかったように、窓口の前を去っていった。
列が動いた。
リンの前に、二人になった。
後ろで、小さな音がした。
足を揃える音。振り返らなくても分かった。
列が、少しだけ整ったのだ。
誰かが合図したわけではない。
誰かが命じたわけでもない。
ただ、並んでいた人たちが、自然に、間隔を均等にした。
壁の掲示が目に入った。
〈ご質問は案内窓口へ〉
〈スムーズな配給にご協力ください〉
〈あなたの協力が、みんなの快適につながります〉
リンは前を向いた。
列が進む。一人。また一人。
リンの番が来た。
「Bセットでよろしいですか」
担当者が言った。同じ笑顔。同じ声。
「はい」
リンは答えた。
トレイを受け取った。
Bセット。野菜と穀物と、小さな肉の塊。
栄養バランス、適正。推奨食。
窓口を離れながら、リンはさっきの女性を探した。
食堂の隅に、彼女がいた。
一人で座って、Bセットを食べていた。
箸の動きは遅かった。
でも、食べていた。
リンは別の席に座った。
トレイを置いて、箸を手に取った。
野菜を口に運んだ。
噛んだ。飲み込んだ。
味は、いつも通りだった。
さっきの女性は、何も悪いことをしていない。
質問しただけだ。
Aセットがあるかどうか。
いつ決まったのか。誰が決めたのか。
それだけのことだ。
でも、列は整った。
誰も何も言わなかった。
担当者は怒らなかった。
女性は罰されなかった。
何も起きなかった。
何も起きなかったのに、列は整った。
リンは箸を止めた。
喉の奥に、また詰まりを感じた。
今朝と同じ感覚。誘導音が鳴らなかったときと、同じ。
食堂の天井から、柔らかい音楽が流れていた。
リラックス効果のある周波数。
研修で教わった。
快適な食事のため。消化を助けるため。
リンは残りの食事を口に運んだ。
噛んで、飲み込んで、また噛んで。
隅の席で、女性がトレイを持って立ち上がった。
返却口に向かう。その背中を、誰も見ていなかった。
リンだけが、見ていた。
女性は返却口にトレイを置き、食堂を出ていった。
それだけだった。
リンは最後の一口を飲み込んだ。
トレイを持って立ち上がる。
返却口に向かう。
並んでいる人が二人。リンは三人目になった。
前の人が、トレイを置いた。
次の人が、トレイを置いた。
リンも、トレイを置いた。
返却口の上に、文字が表示されていた。
〈ご利用ありがとうございました〉
〈本日も快適な一日を〉
リンは食堂を出た。
廊下の誘導音が、今度はちゃんと鳴った。
右へ。ケア局の方向。
午後の勤務が始まる。
リンは歩き出した。
足元の光が、一歩ごとに点いては消える。
正しい道。
正しい方向。
正しい速度。
喉の詰まりは、昼食を終えても、消えなかった。




