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E01-S01:整いすぎた朝


起床音が鳴る前に、リンは目を開けていた。


天井の照明が、呼吸に合わせるように明度を上げていく。

六時の光。いつもと同じ柔らかさで、いつもと同じ速度で、部屋が朝になる。


布団から出て、洗面台に向かう。

蛇口に手をかざすと、適温の水が流れた。

冷たすぎず、熱すぎず。

顔を洗い、歯を磨く。

鏡の中の自分と目が合った。

前髪が少し乱れている。櫛で整えながら、昨夜見た夢のことを考えた。

祖母が出てきた。何か言っていた気がするが、内容は思い出せない。


壁に埋め込まれた表示パネルが、今日の推奨行動を映していた。


〈本日の酸素濃度:適正〉

〈推奨経路:北通路〉

〈体調確認:良好〉

〈ケア窓口勤務開始:八時〇〇分〉


四行の文字が、等間隔で並んでいる。

リンは表示を確認し、視線を外した。

胸元のペンダントに触れかけて、やめた。

制服の下に隠れているそれを、朝から意識するのは良くない。


部屋着から制服に着替える。

襟元を正す。袖のボタンを留める。靴を履く。


玄関の扉が、リンの動きを先読みして静かに開いた。


通路に出ると、空気が変わった。

居住区の廊下は、わずかに甘い香りがする。

リラックス効果のある成分が、

換気に混ぜられているのだと研修で教わった。

ストレス軽減のため。市民の健康のため。

不快ではない。むしろ心地よい。

心地よいはずだった。


歩き始めて、三十歩。


リンは足を止めた。


誘導音が、来ない。


いつもなら、分岐点の手前で柔らかいチャイムが鳴る。

右へ、あるいは左へ。

推奨経路を優しく示す音。

迷う必要がないように。

間違える余地がないように。


その音が、なかった。


静かだった。


リンは立ち止まったまま、数秒を待った。

壁の表示パネルは「北通路」を示していた。

矢印が右を指している。

右に曲がればいい。

分かっている。

分かっているのに、足が動かない。


チャイムがないだけだ。


表示は正常。空調も正常。照明も正常。

何も問題はない。


ただ音が、ほんの少し遅れているだけ。

あるいは、今日は鳴らない設定なのかもしれない。

システムの軽微な更新。

そういうことは、たまにある。

あったはずだ。


喉の奥が、わずかに詰まる感覚があった。


リンは息を吸った。吐いた。また吸った。

甘い香りが肺を満たす。落ち着くための香り。

落ち着かなければならない。


おかしい、とは思わなかった。

思わないようにした。


右に曲がった。北通路に入る。

床の色が少しだけ明るくなり、リンの歩調に合わせて足元が淡く光る。

案内の光だ。

これはいつも通り。正しい道を歩いている証拠。


前方から、誰かが歩いてくる。

同じ制服を着た男性。

リンより少し年上に見える。

配分局の所属だろう、襟元のラインが違う。

彼もリンを見た。目が合った。


「おはようございます」


リンは言った。声が、いつもより少し高かった気がする。


男性は軽く頷いて、通り過ぎた。


それだけだった。


リンは歩き続けた。

足元の光が、一歩ごとに点いては消える。

左右の壁には、等間隔で掲示が並んでいた。


〈深呼吸の推奨:一日三回〉

〈困ったときは窓口へ〉

〈あなたの健康は、みんなの健康〉


読み慣れた文言。

毎日、同じ場所に、同じ言葉がある。

変わらない。変わらないことが、正しい。


ケア局の建物が見えてきた。

白い壁。清潔な入口。

ガラスの自動扉が、リンの接近を感知して開く。

中に入ると、受付の表示が切り替わった。


〈本日の担当:リン・アマクサ〉

〈勤務時間:八時〇〇分〜十七時〇〇分〉

〈本日の予定件数:七件〉


端末の前に座る。電源は入っている。

画面には、昨日の処理済み案件が並んでいた。

すべて「完了」。

すべて「問題なし」。

整然と、縦に並んでいた。


リンは画面をスクロールした。


新規案件が三件。

いずれもケアフラグの初期分類。

軽度の注意喚起が一件、経過観察が二件。深刻なものはない。

いつもと同じ。

いつもと同じ量の、いつもと同じ内容の、いつもと同じ朝。


窓口が開く八時まで、あと十二分。


リンは椅子に座ったまま、画面を見つめていた。


誘導音のことが、まだ喉の奥に残っていた。


鳴らなかっただけだ。それだけのことだ。

問題はない。表示は正常だった。

経路は正しかった。何も間違っていない。

間違っていないのだから、気にする必要はない。


気にする必要は、ない。


リンは端末の脇に置かれた書類を手に取った。

今日の確認事項。推奨対応。注意点。相談者への声かけ例文。

すべてが、あらかじめ整えられている。

読み上げるだけでいい。言われた通りにすればいい。


画面の隅で、小さな数字が動いた。


家族配分の表示。

昨日と同じ数値。

平均より、わずかに低い。

いつものことだ。いつものことだから、見ないふりをする。

見ないふりを、続けている。


八時になった。


窓口が開く音がした。柔らかいチャイム。

今度は、ちゃんと鳴った。


リンは立ち上がり、最初の来訪者を迎える準備をした。


息を吸った。吐いた。

笑顔を作った。


「おはようございます。本日はどのようなご用件でしょうか」


声に出して、練習した。

いつもの言葉。いつもの声。いつもの笑顔。


喉の奥の、小さな詰まりは、まだ消えていなかった。

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