生活の耐えられない軽さ
文章を見ていても自分が何を読んでいるのか分からなかった。文章から単語が浮遊していくようだった。
「彼は膨大な富を得た」と紙面にはある。ぼうだいなとみ。無意味な線と音だけが感じられて、次第に周囲の家具やら脳内の言葉やらが理解しづらくなる。言葉は縦横無尽に繋がって、富を吐いた彼は富を投げ込む膨大な彼を得る。富は膨大な彼を得る。
*
何もかもがハリボテに感じられだしたのは数ヶ月前からだった。
ゴミ出しからの帰り。冬に差し掛かっている。手を擦りながら新しいゴミ袋を取り出す。ゴミ箱に入れて枠に嵌め込んでいく、そのとき、自分はいつまでこんな茶番に付き合うのかと思った。正確には、そんなような気分になった事後に「茶番」と形容した。家事をやめてソファーベッドに座り込んでも茶番は茶番のまま。日々の思考に虚しさが馴染んだ。
断片的な事物に惹かれることが増えた。それも歴史的な芸術作品やらではない、新聞記事のやたらと体言止めが多いコラムとか、そんなようなもので本当に心が癒された。中身はどうでもよく、読んでいる時間が心地よかった。
生活リズムが徐々にぼやけていった。
一年ぶりに地元に帰ってくると、みんな直線に進んでいるようで、自分だけが内側に渦を巻いていた。一人でウロウロしているよりは、誰かの手を借りたほうがいいかもしれない。
一樹からの誘いも素直に応じた。地元で働いている親戚の中では数少ない同世代だった。帰省したときしか喋らないぐらいの関係で、それぐらい遠い人間のほうがむしろ話しやすかった。イタリアンレストランに呼ばれて、久しぶりにまともに食事をした。ここ最近は三食をちゃんと食べる気概もなかった。
一樹が「どうなの?最近は」と大まかな話題から会話を始める。
「………なんか、最近は生活がよくわからなくて」
「……わからないって?」
フォークが止まる。
「うーん。ちょっと伝わるか、自信ないけど、いまの生活のほぼ全部が、なんの意味もないように思えてて」
「おん」
「で、続ける根拠がどうしても見つからない、みたいな」
「……なに、哲学かなんか?」
「いや、実感」
「引っ越したい、みたいなこと?」
「うーん…………もっと内面的なこと」
なんとなく、理解されていない空気を感じた。身体を逆撫でするような空気。
「はぁ。まぁでも、そんなこと考えててもしょうがないじゃん」
一樹は少し笑ってボロネーゼを口に運ぶ。
「……自分にはそうは思えないけど」
「そんな抽象的なこと考えてもさぁ。年齢的にも、ほら、そろそろ身を固めなよ」
「そうなんだけど、固める型をどれにすればいいのか」
「はは。いやだから、そういうのじゃなくて」一樹は声をあげて笑いだす。
「……そういうのじゃない?」
「ちょっとは地に足つけないと」
地に、足。
「…………それはなんで?」
「え?」
「なんで地を踏むことになったの?」
「なんでって?」
「何のためにそんなことを?」
「なぜなぜ期?」
「本当に分からないんだよ、なぜなのか」
「生活のストレスで幼児退行した?」
「真面目に答えて」
「真面目になるのはお前だよ。なぁ。ちゃんとするんだぞ」
「…………うん。ありがとう」
その後は何を喋っても身が入らなかった。
実家に帰ると皿洗いの音が響いていた。ここで食事が起きていた気配だけがあった。蛇口の閉まる高音を背後に部屋へ向かう。
メッセージアプリの右上に赤丸がついている。開くと、菜月からメッセージが来ていた。SNSで知り合ってから連絡先を交換し、ずっと他愛ないやり取りを続けている。
菜月にも相談しようと思い立ち、メッセージを入力する。細長い楕円の中で文章が膨らみ、削られ、三行程度になる。
「私も翔くんとほぼ同じ」と返信が来た。菜月には本名も教えていた。
続けて、
「根拠とか誰も知らないんじゃないの」
「そんなことあるかな」と返す。
それから数秒して「菜月 が入力中」と表示される。少し緊張して画面を見つめる。
「みんなそんなに考えてないでしょ」
続けて、
「好きなように生きて最悪死ねばいいや、とずっと思ってる」
菜月は冷淡だった。自立しているように見えた。菜月は熱心な耽美趣味で、SNSに載る画像はいつも黒を基調としていた。菜月のからっとした気性の背後にはゴス文化の気配を感じて、それに少しだけ憧れのようなものを抱いていた。
頭の中が言葉でごちゃごちゃしている。落ち着かせるために、いつもより早い時間に寝た。
朝。久々にちゃんと起きた朝。日焼け止めを持ってくるのを忘れていた。
居間に出ると、あっ、と声が聞こえた。由佳さんだな、と声で分かった。数年に一回ほどしか会わない親戚だ。遅れて今朝到着したらしい。
「久しぶりねぇ」と少し高い声でしみじみ言う。優しく、周りに愛されている、ただただ真っ当な人。冬の日光に照らされている姿には宗教的な善さがあった。会う頻度に見合わないほど親密に感じていた。
話は近況にもつれ込んだ。短期間に三度目ともなると多少はうまく表現できた。
「だいたいそう言うことで悩んでいるんです」
続けて、
「すみません、子供みたいなこと言って」
そう自嘲したように見せた。本当は、それ以上の返事が聞きたくて先に潰した。由佳さんは特に気にも止めず、懸命に聞いてくれている。
「難しいねぇ」
「難しいです。一樹にも話したけど、そんなこと考えてないで地に足つけなよ、って。そうだよなぁと自分でも思うんですけどね」
それは本心だった。考えて解決することなのかも不安だった。
「一樹くんっぽいね」
やわらかく笑う。続けて
「まぁでも、無理に急いで地に足つけるんじゃなくて、ゆっくり悩んでもいいと思うな。大事なことそうだし」
「……ありがとうございます」
「いやいや……。 あ、久しぶりー!」
と、他の親戚を見つけ、自然に会話は打ち切られた。
由佳さんに話しかけられた親戚は力が抜けたように傍目からも見えた。自分もそうだったのか。理解こそされていなくとも、ありがたかった。暖かかった。
居所。自宅から持ってきた本を取り出す。
数分ほどして、すぐに何を読んでいるのか分からなくなった。文章から単語が逃げていくようだった。「彼は膨大な富を得た」と本にはある。ぼうだいなとみ。富を吐いた彼は富を投げ込む膨大な彼を得る。富は膨大な彼を得る。好きなように富を得る。彼は富を生きて最悪死ねばいいや。
*
帰京する前日。閑散とした夜道を歩き、待ち合わせた居酒屋に入ると、一樹は先に飲んでいた。
このまま帰ると何か持ちこしてしまいそうで、半ば無理やりに再び会うことにした。一樹がビールを流し込んでいくのを尻目に烏龍茶をちびちび飲む。
「こないだのこと、由佳さんにも話したよ」
「おぉ、元気だった?」
「うん。 『大事なことだからゆっくり悩んでいいと思う』って」
「……へぇ。由佳さんはやっぱ優しいね」
”優しい“に何か微細なものを聞き取ったが、深追いはしなかった。
一樹の酒が進むのを静かに待った。頬が上気しているのを見計らい、本題に入る。
「……ねぇ」
「ん?なによ」
「あれから自分なりに考えてたんだけど、地に足について」
「うんうん」
「経験不足なのかな、ちょっと分からなくて。やっぱ一樹から聞きたいなって」
「んー。そうねー」
声がふやけている。続けて、
「まぁ気持ちはわかるよ。でも、そんなことずっと言ってても、生活できないじゃん」
「生活」
「そう。変に考えててもしょうがないかなーって」
生活できないから、変に考えるのをやめる。
「生活を続けるために、ということ?」
「そう」
自分でもつかめていなかった問題の核心がようやく見えてきた。ごく単純で素朴で、子供じみたことだ。
「生活を続けるのは、何のために?」
「……うん?」
「ごめん、なぜなのか聞きたくて」
「え……そりゃまぁ、生きてたら良いことあるし」
「良いことというのは」
「ほら、昇進したりとか。こう、彼女ができたり、美味しいもん食べたり……」
「それが嬉しくないなら、ふつうの生活を続ける必要は無い?」
「……うーん」
一樹が俯く。何かを考えている。
「なんか、疲れてるの?」
「……え?」
想定外の返答だった。
「ちゃんと休んだほうがいいよ」
「いや、そういうのではなくて、」
「まぁまぁ。そういう時期も人生にはあるよ」
「…………うん。ありがとう」
なにを話しても別の文脈に組み込まれつづけるようだった。以降、話題は逸れていった。
「今日、ありがとう」
「うん、ありがとな。ゆっくり休みなよ」
「……うん」
「生きてたら良いことあるから、な」
そう言って一樹は自宅の方向へ歩き出した。いくつか街頭を通りすぎたあと、角を曲がって姿を消した。
久々に自宅の戸を開ける。普段は感じない、湿った木のような家の匂いが漂う。なにか失ったような気持ちでいた。なぜ、答えてくれなかったのか。
数日ほど部屋で考えを捏ねていた。そのうち、菜月のメッセージが頭をもたげてきた。もしかして、本当に「そんなもんだから」というだけなんじゃないか。そんなわけないと思いつつも、そう考えれば全ての言動が一つに貫かれる。
一樹と自分は、見ている幻想の種類が違うだけではないのか。生活を続ける理由も、究極的には「そんなもん」だからじゃないか。脳内で繋がっていた言葉がバラけていく。
どこまでが幻想でどこまでが現実なのかよく分からない。現実とは、あらゆる妄想の殻を剥いだ先にある、極小粒の、無味無臭の理念なんじゃないか。そして、なんの妄想にも覆われていないなら、なんの価値も見出せないのじゃないか。価値は幻影がつくる。耳元が熱くなっているのを感じる。
そして、数多ある妄想の形から、どれか一つを選択する理由は最終的には無い。そこで語られる理由は、一つの妄想の内側からの理由だったりする。世界は本当は全員にとってバラバラでありえた。今もありうる。
自分は自分の幻想を見ていよう。それでどうしようもなくなったら、生活から出よう。部屋の空気がやけに冷たく透明に感じた。
*
最近の生活リズムはひどく変拍子で、アラームをかけないと何時に起きるか予測できなかった。そして、そのことに何も思わなくなっていた。
今日は夕方にアラームをかけていた。久々に人と対面する予定があったから。顔を洗い、上着を羽織って家を出る。身体が軽い。
駅を出たところの道端に酒瓶が転がっていた。蓋が空いていて中身は空だ。何気なく拾いあげる。顔を上げると、十メートルほど先に大理石でできた駅の壁があった、とき、ふと良いことを思いつく。
瓶の首を持って、振りかぶって壁へ投げた。軽い高音を立てて粉砕する瓶。破片が路上に散らばる。車道から光が流れ込む。火花みたいに明滅する粒。
視線を感じて辺りを見ると、通行人が歩きながらこっちを窺っている。目線を合わせると足早に去っていった。再び、待ち合わせ場所へ歩き出す。
待ち合わせ場所の映画館前に女性が立っていた。近づくとスマホから顔が上がった。黒を基調としたコーデにセミロングの金髪が垂れる。声をかけようとすると「翔?」と先手を打たれる。菜月だ。
客席はまばらだった。見たことのない俳優で占められた劇は、主人公と恋人の心中で幕を閉じた。
映画館を後にする。近くの適当な喫茶へ歩きながら、感想を話していた。本筋に関係ないショットのことも、色彩のことも、どれだけ断片的なことでも話した。菜月には話せた。ちゃんと整えられていないことでも話せる唯一の他者だった。どこか抽象的な安心感があった。
近くの純喫茶に入る。暗くて煙草の匂いがする店内にはスプーンが陶器に当たる音だけ響いている。
珈琲を飲みながらまだ映画について話していた。菜月が紙タバコに火をつける。煙が少しこちらに流れてくる。話題は結末へと向かう。
「美しい死に方だよね」と菜月が話す。低くかすれた声。
「美しい死に方?」
「いかにも耽美って感じの。心中は耽美のひな形だから」
「確かに、よく見るね」
「ああやって死ななきゃだよね」
流れるようにそんな言葉が出た。少し突っかかる。
「……ああやって死ななきゃ?」
「うん。せっかく、こう、世間に背くなら。そういうもんじゃん」
「……なるほど」
特に気を留めずそのまま会話を続けた。紅茶の底には砂糖が溜まっていて、スプーンで底をかき混ぜなければならなかった。
菜月と別れて駅まで向かう。路上には瓶の破片がそのまま残っていた。
自宅へ帰る。上着を脱いでソファーに寝転ぶ。カフェでの会話を反芻していると、まだ疑問が生きているのに気づく。なぜ「そういうもん」なのか。
凡庸に死んでも美的に死んでも、本人にはただただ意識が無くなるだけだ。それを鑑賞できるのは他者しかいない。不幸に生きたけど死に顔が綺麗でどうなる。ソファーから鼓動が伝わってくるようで堪らず身体を起こす。部屋が暑い。
そういうもんだから、そうする。装飾を変えただけで形式が同じ。そういうもん。不安は膨らんでいく。ここ最近のことが脳内で勝手に繋がっていく。
菜月は「そういう時期」なんじゃないか。「ちゃんと休」めば世間に帰っていけるのではないか。あるいは、そもそも菜月は世間にいて、ただ夢見がちな性格なんじゃないか。
天井から糸で引っ張り上げられているみたいに気持ち悪い。
通知音が聞こえて、それでしばらく虚空を見つめていたことに気づいた。スマホに目を向けると、一樹からメッセージが来ていた。
「あれから調子どう?」
少し悩んで、「元気だよ。」と返す。しばらくして返答が来た。
「なら良かった。」
続けて、
「さっき、由佳さんとたまたま会ったよ。お前のこと心配してた。また帰ってきてなー。」
*
電灯を消しても脳内は眩しく騒めいている。毛布に包まれた身体がいつもより暑い。
このまま元のところに帰っていくべきだろうか。いや、べきではない。というか、できない。あらゆるライフスタイルが根本的には盲信であることを確信したあと、そこから戻っても、それは元の生活ではない。
それでも帰るべきだろうか。生活を続けるべきなのか? なんのため?
生活を捨てても良いという命題を、生活の外側から否定できるだろうか。ひとつの枠内で語るとき、枠を投げ捨てることについてなにを正確に語れようか。酔い続けたままどこかで丸ごと投げ捨てることをどうして否定できようか。
否定できないなら、なぜそうしないのか。
ベッドから出て水を飲もうとする。数歩ほど歩いただけで足元ががたつく。たまらず床に座り込む。目線が低くなる。由佳さんのことを思い出す。
そうだ、他人のために、と思い至ってすぐ自分に却下される。
他者も自意識に表れている限りで重要じゃないのか。意識がなくなればすべてひとつに収斂してから消える。
いろいろな顔が浮かんだ。なにが自分を繋ぎ止めるか? なににも。妄想を剥がすと残ったのは意識だけだった。あまりにも軽い。
*
旅行に行った。写真は撮らなかった。
軽いままに、感情の媒介として自分を使うことにした。
生き方なんてどうでもよかった。嵌まる型は決めるものではない。味わえる幻想の範囲が内側から指し示している限界だった。それは泡のように可変できた。
そして、頭に幻想を詰め込むこと。なるべく長くここに居たいと思える、そんな脳にすること。内面を王国にすること。
それでだけ、生活を辞めないことができた。なるべく意味づけを拒否して、ごく個人的に、単純に生活をする。いわゆる生活を逸脱することでだけ最低限の生活ができた。
由佳さんは安心していたようだった。たぶん今度も理解していないだろう。本当に安心しているのかも分からない。
問うても仕方がない。いま起きている波、それがすべてだった。これまでもそう。これからも、きっと。




