第五話「微笑みの仮面、密やかな刃」
謁見の後、広間を下がった僕は、広い回廊を静かに歩いていた。
吐き出したかった。
すべて。
心にこびりついた“あの手の感触”を、言葉で、行動で、引き裂いてしまいたかった。
けれど、それはできない。
今の僕は“王太子の婚約者”──疑念を抱かせれば、すぐに誰かの口に上る。
味方もいるが圧倒的に“ここ”には敵が多い。
個人的なものから家のしがらみまで。
(“僕が変わった”と気づかれてはいけない……その瞬間から、もう“死”に向けて転がっていく)
冷えた石床の感触を、靴越しに感じる。
それだけが、唯一の現実だった。
「──あら、セラ様」
耳に絡むような、甘やかな女の声。
振り向かなくてもわかる。
この声を、僕は知っている。
クレイア・メルバルト。
王太子付の女官長。
アリスタンと最も親しい侍女であり、裏では「愛人」とも噂される女。
いや、実際に愛人なのだ、この女は。
間抜けにも僕がそれに気付いたのは、死ぬ直前だった。
痛めつけられる僕を見ながら嘲笑い──僕の“処刑”を推し進めた者のひとり。
「まあまあ。今日はご機嫌麗しゅうございますこと。殿下も、さぞお喜びになられたでしょう?」
その口調には礼がある。
けれど、その目は笑っていなかった。
この女は、僕を値踏みしている。
「……お心遣い、痛み入ります。クレイア様」
完璧に微笑み返す。
仮面は崩さない。
前の僕は、こうしてすべてを“受け流して”きた。
だからこそ、奴らの油断を招いたのだ。
「殿下によく相談を受けますのよ?セラ様のこと。……ああ、そう。先日より、ご体調がよろしくないとか。もし薬湯など必要でしたら、遠慮なくお申し付けを」
「……お気遣い、感謝いたします」
笑ってはいるが、その目は嘘の味がする。
相談はおそらく、閨のことを暗に匂わしているのだろう。
“薬”という単語には、常に毒の匂いが混じる。
この女は、いずれ確実に僕を殺しに来る。
それは確かなことだ。
(なら、こちらから動く)
足を止めず、礼を交わして去る。
背後からの視線が刺さる。
まるで蛇に睨まれているような、冷たく湿った感覚だった。
だが、僕は負けない。
今の僕には“目的”がある。
──復讐。
そして、生存。
宮廷の裏手にある医務塔へと足を運ぶ。
王宮の中で唯一、“外部の薬師”が出入りできる区域。
かつて、ひとりの女がここで薬を学んでいた。
璃晏国からきた、薄紅の瞳の女官。
名は、シュウ・ラン。
前の人生で、王宮から放逐された“異邦の才女”。
僕を憐れみ、声をかけてくれた、数少ない“他人”のひとりだった。
(彼女なら──僕の思惑を、理解してくれるかもしれない)
僕は、初めて心の中で“味方”を求めた。
静かに、しかし確かに──
“復讐の刃”が、鞘から抜かれ始めた瞬間だった。
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