第二十四話「影の通路」
──あの背中に、手を伸ばすことができたなら。
ほんの一歩、声をかけていたら。
何かが違っていたのだろうか、そんなことを考えながら、僕は夜の回廊を歩いていた。
この時間の王宮は、どこか別の世界のように静かだ。
長い廊下に敷かれた絨毯は、足音を吸い込む。
灯りの火は揺らぎ、冷えた石壁には僕の影だけが寄り添っている。
(……兄上が、王弟家へ)
アメリア妃殿下を通じて何度も打診されていたという話だった。
今、王宮の中で王太子アリスタンへの不安が水面下で膨らんでいるのだとしたら──レオグランツ殿下が“次”を見据えるのは、きっと当然のことなのだろう。
王弟家に子がいないのだ。
けれど、セヴァンは、どう応えるのだろうか。
あの兄が、誰かの道具のように“位置づけ”られるのを、僕は耐えられるだろうか。
彼が「選ばれる側」に立つことが、なぜか、自分自身の地盤をゆっくりと崩していくように感じてならなかった。
(……僕は)
何のために、ここに来たのだろう。
毒のこと、妃殿下のこと、それはきっと理由の一端だ。
でもそれだけじゃない。
“前”の選択を、もう一度、違う未来に変えるため──
それを誰かに頼まれたわけじゃない。けれど、誰よりも僕自身が、それを望んだ。
それなのに、いざこうして「自由」が目の前にちらついた瞬間、僕の足は、どこに向けて進めばいいのか分からなくなっていた。
(兄上が王弟家に入れば、アリスタンはどう動く……?)
自分を切り離すか否か。
(それだけじゃ……ない)
彼はまだ、僕を“持ち物”のように見ている。
必要な駒であり、飾りであり、誰にも奪わせたくない“所有物”。
僕という人間を、好きになったのではない。
僕の中にあるもの──血統、家名、過去、見た目、振る舞い──そうした断片のすべてを“揃えた存在”として執着している。
──いや、それすらも、もう違う気がする。
あの人は、僕の“全部”を欲しがっているのだ。
心も、身体も、名前も、記憶も、命すらも。
過去に失った何かを埋めるように、すべてを塗り潰して、自分のものにしたがっている。
(……逃げるべきなのかもしれない)
そう思うのに、足は止まらなかった。
冷たい夜気が、頬にかすめた。
その一瞬、何かが背後を横切った気がして、僕は足を止めた。
(……今、何か……)
ふと、脇の通路に視線を向ける。
そこは使用人用の裏回廊。昼間は物音ひとつしない静かな場所だが、今夜は──風が違う。
そっと廊下の端に寄り、薄闇の先へと目を凝らす。
灯りの届かない先に、誰かの影があった。
──黒衣の、複数人。
屋敷の警備とは異なる衣服。武装も、歩き方も、異質だ。
(見張り……?いや、動きが早い)
ひとりが、廊下の隅に小さな包みを置いた。
何かの瓶──薬?毒?
見えない。けれど、肌が覚えている。これは、あの夜と似ている。
(まさか、あれは……アリスタンなのか?)
声を出してはいけない。音も立ててはいけない。
僕は壁に身を預けるようにして、小さく後退した。
あの包みが、どこへ向けて運ばれるのか。それを見届けるべきか、逃げるべきか。
けれど、次の瞬間──
「……誰だ」
低く鋭い声が、闇の中から飛んできた。
息を呑む間もなく、影のひとつがこちらへ向けて動いた。
足音は吸い込まれ、音にならない。
(まずい──)
僕は身を翻し、廊下の奥へと走り出す。
空気が揺れる。どこかで剣の鞘が擦れる音がした。
逃げなければ。
ここで捕まったら、もう二度と自由にはなれない。
──けれど、すぐに、誰かの腕が僕の手を掴んだ。
「……っ!」
叫びそうになった喉を、ぬるく湿った手のひらが塞ぐ。
「静かに、セラ」
その声は──兄のものだった。
「兄……上……?」
「いいから、こっちへ」
腕を引かれるまま、通路脇の物陰へと身を潜める。
数秒遅れて、黒衣の者が廊下を駆け抜けていく。こちらには気づいていない。
僕は兄の肩越しにその影を見送りながら、震える息を吸い込んだ。
「なぜ、ここに……」
「お前が戻ってこないと思った。……嫌な予感がして」
その言葉が、胸の奥をかすかに叩いた。
兄上は、今も僕を見ていてくれる。
あの夜、世界が終わったように思えた時でさえ、手を離さなかったように──
「……屋敷の中に、まだ“仕掛け”があるのですね?」
僕の呟きに、兄上は頷いた。
「わかってる。王弟殿下にも伝える。だが……今は、まず逃げよう」
強く、けれど穏やかに引かれる手のぬくもりを感じながら、僕はうなずいた。
──やっぱり、変わらなきゃいけない。
(逃げるんじゃない、戦う……迷うな。その布石はすでに置いたのだから)
僕はもう、ただ“飾られる”だけの人形じゃない。
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