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第二十三話「夜の火種」

アメリア妃殿下の寝息は、先ほどよりも幾分、落ち着いて聞こえていた。

薬が効いている──それは確かに、希望のひとかけらだった。


妃殿下が微かに身じろぎするたび、天蓋の帳がわずかに揺れ、室内の空気もその振動に呼応するように脈打つ。

けれど、それはあまりに小さな変化で、見落とそうと思えばいくらでもできた。

だからこそ、僕は見逃さなかった。


この静寂の奥に、確かに潜んでいるものがある。

毒の香りが消えても、それを運んだ“手”と、命じた“声”は、まだこの国のどこかで息をしている。


──そして、その矛先は、おそらく。


(次は……兄上か、僕だ)


そんな思考が、どこか冷ややかな温度で脳裏に差し込んだ。

けれど、それに身を委ねることはしなかった。

不安は糧になる。揺らぎは歩を止める理由にはならない。


(アリスタンは僕を手に入れたがってる……それは単に気に入ったからではなく、アルヴァ=クロイツに息子だからもある)


アルヴァ=クロイツ家は、この国に名を連ねる四侯爵家の中でも筆頭に位置づけられている。

政治、軍事、学問──あらゆる局面で影響力を持ち、その血筋にある者は、存在しているだけで一種の“意味”を帯びる。


ましてや、母のイレーネは、王族に連なる血を引く。


(だからこそ、アリスタンは僕に執着した……ただ気に入ったからではなく、“王太子”の象徴として)


──あの頃の僕は、それを自覚していなかった。

王太子妃という立場を、まるで自分に与えられた役割のように受け入れていた。

疑いもせず、誇りとも虚栄ともつかぬ感情で、それを抱えていた。


でも実際のところ、僕はほとんどを知らなかった。

王宮のことも、政治のことも、人の裏と表についても──クレイアについてすら。


無知だった。

努力をしていなかったわけじゃない、けれど、あまりにも世界を狭く見ていた。

知らないままで、満足していた。


──あの時、もっと“見て”いれば。


そんな思いが胸を掠めた時、扉の向こうに気配が差した。

視線を向けると、レオグランツ殿下と、兄上──セヴァンがふたり、並んで戻ってくるところだった。


「妃は、どうかね」


王弟殿下の問いかけに、僕はすぐ背筋を正し、声を整える。


「安定されているようです。薬が効いています」


王弟殿下は深く頷いたが、その横顔にはまだ緊張の残滓が張りついていた。

それでも静かに口を開く。


「……お茶を用意させよう。遅くなってすまないね」


誰にともなく向けられた言葉だった。けれど、その声音には細やかな気遣いと、この場を一度緩めようとする意図が感じ取れた。


兄上は何も言わず、小さく頷く。

それを受けて、殿下は再び兄の名を呼び、廊下の向こうへと歩を進めた。

兄は迷いなく、その背に従う。


──そして僕は、静かにその場に残された。


寝室には再び静けさが戻る。

妃殿下の呼吸が、わずかに寝具を震わせる。今、この部屋で確かに脈打っているのは、その音だけだった。


扉の先で、ふたりが低く話しはじめる気配がある。

聞くつもりはなかった。けれど、場の静けさがあまりにも深くて、否応なく耳に届いてしまう。


兄上の声はいつもより落ち着いていて、殿下のそれには決意と迷いが奇妙に同居していた。


ふたりの姿は、廊下の奥。薄闇の向こう。

僕は、そっと立ち上がって扉の陰に身を寄せる。


兄の背は、まるで彫像のように真っ直ぐだった。

その姿は、どこか遠く、そして強く見えた。

──僕の知るセヴァンは、もっと近くて、もっと不器用だったはずなのに。

兄もまた、あの頃とは少しずつ、ずれている気がした。


──そのとき、声が届いた。


「……だからこそ、意味があるのだ。あれに王位を与えればどうなるか……陛下もそこを憂慮してはいる。セヴァン……前々からアメリアを通じて、お前に打診をしていたはずだ」


(打診って……何の)


そう思った刹那。


「アルヴァ=クロイツから出て、私の息子になれと。そうすればお前は事実上、王位継承権第三位の地位を手にすることになる」


その言葉に、僕は、小さく息を呑んだ──。


“王位継承権”──


その言葉を、兄に向けて語る者が現れるとは思わなかった。

けれど王弟殿下の声音には、確かに真実が宿っていた。


妃殿下を襲った毒。それは、ただの一手ではない。

王宮の内部で、水面下に走る流れがある。

アリスタンひとりの狂気ではない、別の意図と動きが──。


(兄上が……王太子になる……?)


その未来が現実になるなら、僕は──

もしかすると、自由になれるかもしれない。


宰相の息子でもなく。

アリスタンの婚約者でもなく。


ただ、“僕”として、生きられるかもしれない。


けれど、それは、願ってよい夢だろうか。

兄上を、そんな渦中へと引きずり込むことが、果たして──。


殿下の言葉が静かに途切れ、代わりに兄の声が届く。


「……ご冗談を。セラはアリスタン殿下の婚約者ですよ?そんなことをすれば、どうなるか……」


その声音には、はっきりとした拒絶があった。

けれど、それだけではなかった。

困惑。戸惑い。

そして──ほんのわずかな、寂しさのようなものが混じっていた。


兄上は、ずっと傍にいてくれた。

あの時、僕を庇ってくれた。

傷を負いながらも、守るべきものを選んでくれた。


けれど今、その兄が、“別の未来”へと向かおうとしている。


その背は、あまりにも大きく、あまりにも遠い。

追いつけるだろうかと、不安になるほどに。


(嬉しいはず、なのに……)


心のどこかが、ぽたりと音を立てて沈んだ。


そのとき、兄がふいにこちらを見やった。

気配を殺していたつもりだったのに。

やっぱり、兄には通じなかった。


金の瞳と、僕の青い瞳が、暗がりの中で交差する。


逃げるように、僕は軽く頷いて、その場を離れた。

言い訳をする気にはなれなかったし、兄が追ってくるとも思わなかった。


扉を離れ、廊下をゆっくりと歩く。

足元に揺れる灯りの影が、僕の影と交じり、床に長く伸びている。


胸の奥で、小さな火種が揺れていた。

不安とも希望とも言い切れない、それでも確かに熱を持った“何か”が。


──きっと、夜が明ければ、何かが変わる。


それが良いことなのか、悪いことなのか。

それはまだ、わからない。


けれど、変わる。

この夜の先にあるものが、僕たちを、何か違う場所へ連れていく。


そんな気がしていた。

次の更新は本日(10月19日)の21:30です。

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