第二十一話「血の流れ」
扉の向こうから流れ込む空気が、室内の温度をわずかに変えた。
女官に導かれて足を踏み入れた先には、静寂があった。
──否、それは“静けさ”というより、“息を潜める気配”に近かった。
重厚な天蓋と緋の帳に覆われた寝台。その上に横たわるのは、王弟妃アメリア。柔らかな金髪が枕元に流れ、頬には熱の残滓がほのかに滲んでいる。
寝巻きの襟元から覗く首筋には、かすかに汗が浮き、それが熱の証左のようにも、怠惰な夢に取り憑かれているようにも見えた。
だが、その姿よりも僕の目を引いたのは──彼女の傍らに佇む男の姿だった。
王弟──レオグランツ・レグニッツ。
壮年に差しかかる年齢。背筋の伸びた立ち姿、目元に刻まれた皺は穏やかで、だが弱さを一切感じさせない。
──そして何より、その横顔には、見覚えのある面影があった。
アリスタンに、似ている。
けれど、その男が纏う空気は、まるで異なるものだった。冷たさや硬質な緊張感ではなく、周囲に柔らかく灯るような温かみ。
威圧ではなく、支えとしての存在感。そこに立つだけで、誰かを安心させるような人間が、この世にはたしかに存在する──そう思わせる気配だった。
「宰相のところの……息子たちか」
彼が口を開いた。
その声にも、穏やかな熱があった。
僕たちは同時に深く頭を下げる。
「父が遅れますこと、まずはお詫び申し上げます。やむを得ぬ用事があり、後ほど参りますゆえ──」
そう口を開いたのはセヴァンだった。
相手が王族であること、そしてここが王弟妃の私室であることを弁え、彼の声音はふだんよりも丁寧だったが、決して過剰ではなかった。
王弟殿下は、小さく頷く。
「いい。彼とは昔から、信義の通じる仲だ。事情もなく遅れるような男ではあるまい」
その言葉に、セヴァンの肩がわずかに緩んだ気がした。
ふと、寝台の方で小さな声が上がる。
「……起こしてくださいませ、レオ様」
その一言に応じて、王弟殿下は、ためらいもなく妃のもとへ歩み寄り、そっと手を差し出した。
その様子に、僕はわずかに目を瞠った。
そこにあったのは、決して“形式”としての夫婦の距離ではない。
守ろうとする者と、守られる者。その間に通う、確かな絆の温度。
アメリアはレオの手を借りて上体を起こし、頬にかかった髪を片手で整えると、ゆるりとこちらを見た。
その目が、セヴァンの姿を捉えた途端、微笑みが生まれる。
「まあ……セヴァン。お久しぶりね」
懐かしむような、優しい声音。
「ああ……ほんとうに。お兄さまに、よく似ていらっしゃること」
その一言に、セヴァンの眉がほんの少しだけ揺れる。
「……ご無沙汰しております、王弟妃殿下。お加減がすぐれないと聞き、父である宰相の代理としてご挨拶に伺いました」
「ああ、そうね……今、あなたはアルヴァ=クロイツの息子。宰相殿には、何度も助けられております……でもこうして、我が兄の忘形見であるあなたが私のことを気にかけてくださることはありがたいわ」
ふと、アメリアの視線が僕の方へと移った。
そしてその表情が、すこしだけ和らぐ。
「そちらが、セラ様……?」
僕は一礼を返す。
「セラ・アルヴァ=クロイツにございます。ご挨拶が遅れました」
「いいえ。……あなたも、よくお母様に似ていらっしゃるのね」
その声には、ほんのひと匙、遠い記憶を辿るような響きがあった。
「イレーネ様とは、貴族学校で席が隣だったの。……成績でも、振る舞いでも、いつも私より一歩先をゆくような人だったけれど、でも……優しかった。芯の強さと、誰に対しても分け隔てのない眼差し。それを、あなたから感じるわ」
懐かしげに微笑むアメリアの横顔に、僕はどこか目を逸らせなかった。
母との繋がりがこんなところで明らかになるとは思っていなかった。
けれど、母は確かに目の前にいる女性と関係を築き、その残響がまだこうして、アメリア様の中に生きている。
(僕は何も……本当に何も知らないのだな)
その事実が、僕には少しだけ、胸の奥を締めつけるものに思えた。
「王弟殿下」
その静けさを破ったのは、扉の向こうから聞こえた、やや緊迫した声だった。
女官のひとりが、足早に入ってくる。その手には、銀の盆と、青磁の薬瓶。
「宰相殿より、薬が届きました」
「……薬?」
レオグランツが声を落とし、盆の上に視線を落とす。
数本の瓶。どれも封はされておらず、すぐに服用できる状態にある。
けれどその分、誰が開けたかもわからず、状態を確かめる術は限られる。
「……これを信用していいものかどうか……これは確かに宰相からか?」
王弟殿下の言葉に、室内の空気がひやりとした温度を帯びる。
父を、というよりは、今は全てを疑っているのだろう。
「はい、それは確かに。宰相様のお印もございます」
女官の説明に、王弟殿下はゆっくりと息を吐く。
(迷っておられる……でも、あまり時間はかけられないな)
僕は一歩、前に出た。
「ひとつ、私がいただきます」
王弟夫妻も、セヴァンも一瞬にしてこちらを見た。
「……何を言ってるんだ、セラ」
セヴァンが低く、しかし明確に制止の声を投げる。だが僕はそれを遮った。
「毒味です。……僕に何もなければ王弟殿下も妃殿下もご安心でしょう?僕はこの薬を信用しています。大丈夫ですよ」
そして僕は、盆の上に手を伸ばした。
この命を賭すつもりは、ない。これが安全なものだとわかっているからこそ、できる一手でもある。
そして、この手が、少しでも“真実”に近づくために──
今、必要とされているのは、疑うことではなく、“踏み出す”ことだ。
「セラ様……」
王弟妃殿下が、僕の名をそっと呼んだ。
それは、どこか母が耳元で囁いた声に似ていた。
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