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第十六話「他の誰か」

王宮の空気には、湿り気がある。


それは石の温度でも、絨毯の厚みによるものでもない。

人々の視線、言葉にしない探り合い、沈黙に潜む意味──そうしたものが、目に見えぬ水膜のように空間全体を覆っているのだ。


その王宮に、僕はまた足を運んでいた。


今日の出迎えは、静かだった。

運が良いのか、あるいは仕組まれた偶然か──アリスタンはちょうど席を外していた。


「殿下は、執務にてお忙しいご様子です。挨拶は私より申し伝えておきます」


控えめにそう告げたのは、アリスタンの身辺に仕える若い侍従だった。

見知った顔ではないが、言葉も所作も淀みはなく、裏の意味を探るにはやや材料が乏しい。


「ありがとうございます。お伝えください、“また改めてご機嫌を伺いたい”と」


僕は微笑を添えて告げ、王太子の執務室がある棟を足早に、けれど丁寧な足取りで離れた。

挨拶に来たという“証拠”は残せたのだから十分だ。

そしてそのまま、女官の居住区画へと向かう。

途中でランの部屋を聞き、そこまでたどり着くと控えの間の扉の前で足を止めた。

こうして改めてここに来ること自体が、少しだけ胸の奥をくすぐるのは何故だろう。


(──僕が、誰かの“居場所”を作ろうとしているからだ)


そのことが、今もなお信じられずにいる。


ノックをすると、間もなく扉が内側から開いた。

現れたのは、きちんと髪をまとめた少女──シュウ・ランだった。


「……セラ様」


わずかに目を見開き、けれどすぐに頭を下げるその所作は、昨日よりも明らかに落ち着いていた。


「少し、お話できるかな」


そう尋ねると、彼女は迷うような一瞬の静止を見せ──そして、静かに頷いた。


部屋の中は、整っていた。


質素だが不潔ではなく、香も過ぎない。

彼女一人で使っているにしては広すぎる空間で、引き離される前は妹と一緒だったのだろう。


彼女は椅子に座り、僕も向かいの席を選ぶ。

ほんの数歩の距離。けれど、その間には、まだ越えられない壁のようなものが、薄く横たわっていた。


「調子はどう?」


問いかけに、彼女はすぐに答えなかった。

少し考えた末、言葉を選ぶようにして──


「……悪くはありません。少なくとも、昨日までよりは」


その声音に、ようやく少しの“素”が滲んでいた。


「君は警戒心が強いね」


冗談めかしてそう言うと、彼女の眉がわずかに動いた。


「当然でしょう。誰を信じればいいのかも、何を選べばいいのかも──ここでは、全部が曖昧なんですから」


「その通りだと思うよ」


僕は素直に頷く。

ランは、ゆっくりと視線を落とす。


「……すべてを信用したわけではありません。あなた様と……あの方との違いも、正直、まだよくわからない。ただ……」


彼女は少しだけ顔を上げた。


「ありがとうございます。妹が……あんなふうに笑ったのは、久しぶりでした。妹と暮らせること、嬉しく思っています」


その言葉に、僕の胸が静かに波打った。


ランが、僕を“味方”として扱っているわけではない。

けれど、“敵ではない”と見做している──その変化が、なにより尊い。


『君にひとつ、聞いてもいいかな』


僕が璃晏語でそう切り出すと、ランの瞳が警戒の色を帯びた。

けれど、すぐに首をわずかに傾ける。


『……どうぞ。ただし、すべてにお答えできるとは限りません』

『分かってる。無理にとは言わないよ』


ほんの一呼吸だけ間を空けて、僕は核心に触れる言葉を選んだ。


『君は以前からあの人の指示で、“薬”を調合したことがあるね?』


その問いに、ランは明らかに顔を強張らせた。

答えないまま、数拍の沈黙が落ちる。

だがそれは、拒絶ではなく──答えるための“逡巡”だった。


『……ええ。あります』


搾り出すような声だった。

ランは目を伏せる。


『……作れと言われた配合の薬草を、そのまま調合しました。それがどんな目的だったのか……詳しくは説明されませんでした』

『けれど、少なくとも、君はそういう“薬”を作らされた』

『はい』


きっぱりとした答えだった。

ただの鎮静剤でも、疲労回復薬でもない。明らかに“正規の用途”ではない何か。


『君が作ったそれは──誰に使われたのか分かる?』


僕は静かに問いかけた。

彼女は、そこで初めて、わずかに震えるように唇を噛んだ。


『……誰に使われたのかまでは、分かりません』


その答えは正直だった。

けれど、同時に──最も不穏な答えでもあった。


彼女は毒を調合した。

だが、その薬が“どこへ向けられたか”を、知らされてはいない。

つまりそれは、他者に対する“何か”が、密かに実行されていたということだ。


(他にもいる……)


クレイアの個人的な悪意かどうかは定かではない。

そこにはもしかするとアリスタンが関わっている可能性がある。

それは、もはや“王宮という構造”の中で、選ばれた者だけが知る静かな地獄だった。


『ありがとう。……教えてくれて』


僕は、そう言うと彼女はわずかに眉をひそめ、すぐに目を逸らした。

けれど、その表情には、ほんのわずかに──気持ちを分かち合った者だけが持つ、微かな“緩み”があった。


読んでいただいてありがとうございます!

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