第十五話「王の素質」
屋敷に戻ると、空気が柔らかかった。
あの王宮の、どこまでも硬質で、息を吸うにも気を張らねばならないような空間に比べれば、この場所は──たとえそれが仮初めの安寧でしかなくとも、随分と人の体温に近い。
使用人たちは控えめに頭を下げ、僕に必要以上の言葉をかけることはない。けれど、その気配のひとつひとつに、長年育まれた距離感と、家族としての役割を果たす者への配慮が含まれていた。
僕は、荷も預けたまま、自室を通り過ぎて足を向かわせる。
応接でもなく、直接、父の執務室へ──そこに行くべきだと、そう思った。
まだ兄も父も戻っていないらしく、扉の向こうはひっそりとしていた。
だが、自室で待つ気にはなれなかった。
ゆっくりと扉を押し開けると、見慣れた書棚と、静かな燭台の火が、午後の名残を薄く照らしていた。
大きな書きもの机の上には、文箱がいくつか並べられていて、そのうちのひとつが半ば開かれたままになっている。
きっと急な出立だったのだろう。
書類の端に押された印の濃淡が、不規則だった。
僕は机の向かいの椅子に腰を下ろす。
ここに座るのは、いつ以来だろうか。
父と向かい合って、まっすぐ言葉を交わすこと自体──もう、何年もなかった。
それこそ、今朝が久々だったのだ。
父は決して冷たい人間ではない。忙しい中でも出来るだけ僕達といようと努めてくれる。
ただ、あくまで姉や僕はこの家で役割が違うと言うだけだ。
父や兄のように政治の近くにいなかった──これまでは。
扉が開いたのは、しばらくしてからだった。
「セラ。……先に戻っていたのか」
父の声は思ったよりも疲れていて、けれど、予想していたほど冷たくもなかった。
その後ろには兄がいて、少し驚いたように僕の姿を見やると、何も言わずに軽く頷き、別の部屋へと足を向けた。
執務室に残ったのは、父と僕だけだった。
「王宮に?」
椅子に腰を下ろした父が、短く問いを発する。
「はい。今日から、自由に出入りできるようになりました。……王太子殿下より、そういうお言葉をいただいております」
「……ふむ」
ひとつだけ、曖昧な応答が返る。
その奥に何を含んでいるのかは読めなかった。
僕はひと呼吸置いて、続ける。
「璃晏より遣わされた姉妹──シュウ・ランと、その妹を。王宮から引き取れないかと考えています。こちらも王太子殿下からは許可を頂きました」
その言葉に、父はほんのわずかに眉を動かした。
「王宮で彼女たちを“保護”するには……あまりにも多くの目がありすぎる。あの場で“どちらに”組み入れられるかは、運ではなく意図の問題です」
「……そうか」
それ以上、父は言葉を足さなかった。
その沈黙に、僕はあえて踏み込んでみる。
「父上」
思ったよりも、声は静かだった。
「父上が朝に言っておられたことについて、考えておりました」
視線が、まっすぐ僕に向けられる。
「──アリスタン殿下が、王位に相応しい人物かどうか、ということについて」
しばしの沈黙。だが、それは言葉を探しているというよりも──言葉を飲み込むための沈黙だった。
父の眼差しが、少しだけ揺れる。
「セラ……」
その名を呼んだ声には、否定でも肯定でもない、けれど確かに何かを伝えようとする含みがあった。
(何を……?)
そこに確信のようなものが走る。
「父上は、あの方が王位に相応しくないとお考えですね?」
続ける言葉を探そうとした瞬間──
「失礼いたします」
控えめに扉を叩いて、執事が顔を覗かせた。
「先ほどのお約束の時間が……」
「……ああ、そうだったな。すぐ行く」
父は短く言い、執事に手を振ってから僕に向き直る。
「話の続きはまたにしよう」
机の引き出しから書簡の束を引き出し、その上から一枚を取り上げて僕に手渡す。
「シュウ・ラン姉妹については、引き取りなさい。お前の側付きとして迎え入れよう。王宮に上がった際に、味方は一人でも多い方が良いだろう」
言葉は簡潔だった。
だが、それは“許可”以上のもの──“理解”の片鱗だった。
「……ありがとうございます、父上」
僕がそう答えると、父はほんのわずかに目を細めた。
それが笑みだったのか、それとも単なる疲労の滲みだったのかは、わからなかった。
執務室を出たとき、廊下はすでに薄暗くなっていた。
晩餐の前の静寂。屋敷がいったん深呼吸をするような、そんな時間帯だった。
僕はそのまま自室へ戻ろうとした。けれど──その途中で、思わず足を止めた。
そこに、セヴァンがいたからだ。
廊下の突き当たり。背を壁に預けるようにして立っていた兄は、僕に気づくと、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
「セラ……」
その名を呼んだきり、兄はそれ以上何も言わなかった。
けれど、その目が何かを伝えようとしていた。
そして、すれ違いざま。
兄の指先が、そっと僕の頬に触れた。
それはほんの一瞬のことだった。
温度も、言葉も、なにも伴わない。
ただ、それでも──その指先には、確かに“兄”の感情があった。
「……兄上?」
振り返って呼びかけたときには、セヴァンの背中はもう遠ざかっていた。
その姿に、なぜか胸が少しだけ、疼いた。
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