第十四話「記憶に触れる部屋」
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王宮の石廊下は、時間によって質感を変える。
朝は硬く、冷たい。昼には、光と影を複雑に交錯させる舞台となり、そして日が傾きかけた頃には、どこか柔らかく、けれど静かな緊張を帯びる──そんな空間になる。
今はまだ明るいその中を、僕はひとりで歩いていた。
付き従う侍従も、まだいない。
形式だけの護衛すらいないのは、婚約者とはいえ、まだ公式に王宮内での立場が整っていない証だった。
(……この感じ、久しぶりだ)
振り返ると、もう誰の気配もない。
昼の騒がしさはとうに過ぎ、女官たちの控室も、厨房へとつながる側廊も、今は人影が遠のいていた。もう少しもすれば、壁に並ぶ細工の施された燭台に、次々と火が灯されはじめる。
僕の足は、東の居住棟へと向かっていた。
これから“自室になる”はずの部屋──ほんの思いつきだった。
まだ正式に割り当てられたわけではない。
ただ、かつて使っていた“前と同じ部屋”が、またあてがわれるだろうと、そんな予感があった。
(この辺り……だった)
ゆるやかな回廊の角を曲がった瞬間、胸の奥が微かにざわめいた。
言葉にはならない違和感。
けれど、はっきりとした既視感。
記憶ではなく、感覚が先に反応していた。
扉の前に立つ。装飾の形。扉の木目。取っ手にあたる光の角度までも、前と寸分違わない。
(……ああ、ここ……)
間違いない、この部屋だ。
けれど、僕はすぐには扉を開けなかった。
手を伸ばしかけて、ふとその指先を止める。
“前”のことが、唐突に脳裏を過った。
ここで──
僕は、アリスタンに手を伸ばされた。
拒む暇も、抗う言葉も持たないまま、許してしまった。
許したふりをしたのか、それとも本当に……?
(──いや、いい)
小さく頭を振り、胸の内にわき上がる記憶の輪郭をなぞるのをやめる。
もう一度、今度はためらわずに取っ手に手をかけ、扉を押し開けた。
部屋は空だった。
長く使われていなかったのだろう。薄い埃の匂いが、床や壁に染みついていた。けれど、調度品は綺麗に磨かれており、寝台も新しい布が掛け直されていた。
誰かが、整えている。
(恐らくアリスタンはまたこの部屋を僕に与えるだろうな)
まるで、逃げ道を作らせまいとするように、その手は遠くない日に伸ばされる。
それでも──
今の僕は、以前の僕とは違う。
たとえこの部屋がまた、王太子が僕にために用意した“檻”だとしても……その鍵を、自分の手の中に握っていかねばならない。
僕は窓のそばへ歩き、閉じられたカーテンの隙間から、遠く庭の芝生を見下ろした。
そのときだった。
「……セラ?」
背後からかけられた声に、肩がわずかに揺れた。
振り返ると、そこに立っていたのは、紛れもなく兄だった。
「兄上……」
柔らかく名を呼びながら、僕は胸の奥でふっと表情を緩める。
兄がこの場所にいるのは恐らく偶然ではあったが、今このタイミングで会えたことが、少しだけ救いのようにも思えた。
「どうしたんだ、こんなところで。……疲れたか?」
セヴァンはそう言いながら僕のそばへと来る。
開け放されたままの扉の向こうには誰もいない。
王立騎士団の制服に身を包み、いつもより硬い立ち姿だったけれど、その目の奥には、変わらず僕を気にかけてくれる“兄”の温度があった。
「慣れないお勤めで……お疲れではありませんか?」
そう問いかけると、兄はわずかに目を丸くし、それから小さく笑った。
「どこでも軍というのは変わりないものだ。それにこちらにはエンバース家と旧知のものも多い。そう居心地は悪くない」
エンバース家は、セヴァンの実家の家名だ。
前エンバース伯が亡くなってからこちら、当主は空白のままとなっている。
兄の横顔を見ながら、僕は心の中で「変わらないな」と思った。
気遣い方も、言葉の順序も。昔から、兄はそういう人だった。
「そうだ」
思い出したように、セヴァンが懐から布に包まれた何かを取り出す。
「さっき、あの璃晏の姉妹──ランだったか、彼女からこれを預かった。“セラ様にお渡ししてほしい”と」
包まれていたのは、一枚の紙だった。
それは──“何も書かれていない、ただの紙切れ”。
(……ああ、早くも決めたか)
それはほんの数時間前に僕がランに渡したものだ。
僕がセヴァンに話をする前に、それはすでに届けられたようだ。
(妹を向かわせたのが功を奏したのかもしれないな)
この返事の速さは彼女なりの応答なのだろう。
渡した時同様に何も書かれていないが、確かに──伝わってくるものがある。
「……ありがとうございます、兄上」
紙をそっと包み直しながら、僕は頭を下げた。
「お伝えいただいたおかげで、助かりました」
「そうか……それなら、よかった」
セヴァンはそれ以上は何も言わなかった。
ただ、静かに僕を見つめ、ひとつ頷くと、ゆっくりと部屋を後にした。
扉が閉まる音は、柔らかく、けれどどこか名残惜しさを含んでいた。
僕はひとり、紙を見つめたまま、椅子へと腰を下ろす。
この無地の紙切れは、言葉以上に多くを語っている。
──信じるにはまだ早いかもしれない。
けれど、それでも。
誰かと、少しずつ歩み寄っていくための最初の合図として。
この“なにも書かれていない紙”ほど、ふさわしいものはなかった。




