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第十話「王太子との駆け引き・前編」

 静かに扉が閉じる音がした。


 それは重い城門ではなく、けれど確かに、ひとつの世界ともうひとつを隔てる音だった。

 王太子アリスタンの執務室。薄い香が焚かれ、整然と並ぶ書架と黒曜石のような机がその主の冷徹さと理性を象徴しているようだった。


 だが、今この空間を支配していたのは──理性ではない。

 視線だった。

 椅子に腰掛けたまま、アリスタンはじっと、微笑を浮かべる僕を見ていた。


 「ご機嫌麗しく、アリスタン殿下」


 微笑と共に、ゆるやかな礼を。

 重すぎず、軽すぎず、それでいて確実に──「恋慕ではなく敬意」であることを、言葉に宿らせる。


 「登城のご挨拶をば……僭越ながら、伺わせていただきました」

 「……ふむ。私も君の顔をまた見れて嬉しいよ」


 机の上に手を組んだまま、彼はそう言った。

 薄く笑っているが、その奥にある何かが、じりじりと、肌の内側を炙ってくるようだ。


 「だが……随分と、変わったな。セラ」


 言葉は甘い。

 けれどその実、観察であり、選別であり──支配欲の舌触りを孕んでいる。


 「かつての君は……こんなふうに、私の目を見て話せなかった」

 「お許しを。ずっと緊張していて……少しだけ、大人になったようです」


 僕は軽く、目を細めてみせた。

 瞳の奥を覗き込まれそうな危うい距離感のなか、それでも眉一つ動かさずに、心の仮面を整えたまま。


 「それは嬉しい。ならば尚更、早く君を王宮に迎えたいものだ」

 「はい、私もその日を心待ちしております。殿下……ご相談したいがあるのです」


 僕は一歩だけ前に出る。

 その仕草に、アリスタンはわずかに身を乗り出した。まるで、獲物のほうから檻に入ってきたとでも思っているように。


 「私が王宮へ自由に参内をできるようにして頂きたいのです」

 「ほう?」


 アリスタンの声は、驚きよりも、探るような愉悦に満ちていた。

 組んでいた指をほどくと、ゆるく顎に添えた。


 「呼ばない限りは来なかった君が……どういう心変わりだろうか?」

 「……昨日、殿下と再びお目にかかって」


 僕は視線をそっと伏せ、少し間を置いてから、唇に柔らかな笑みを浮かべた。


 「気づいたのです。私の心は、やはり殿下にあるのだと」


 指先を胸元に添える仕草も、わざとらしくなりすぎないよう細心の注意を払って。

 この男は、媚びを嫌う。だが、好意は好む。ましてや、自分にしか見せない特別な感情には目がない。


 「この気持ちを見過ごしたまま、王宮を離れるのは惜しいと思いました。ほんのひとときであれ――殿下のそばにいたいのです。少しでも、殿下の目に私を映して頂きたい……」


 仮面を被ったまま、息の温度だけを微かに熱くする。

 アリスタンはわずかに瞠目し、それから笑った。


 「君は、ほんとうに……」


 その声には、満足と興奮と、そして確信のようなものが滲んでいた。

 自分の魅力が、セラを虜にした。そう思わせるには、十分な芝居だったはずだ。

 僕はさらに一歩だけ進み、話題を切り替える。


 「もう一つ、お願いがございます」

 「なんだい?」

 「例の、璃晏より遣わされた姉妹。シュウ・ランと、もうひとり。彼女たちを、私に預からせていただけないでしょうか」

 「理由は?」


 緩やかにアリスタンは首を傾げる。

 王太子は常に“自分の権限”を守ろうとする。いや、それ以上に、“セラが何を考えているか”を測ろうとする目だった。


「そのまま王宮に置けば、どこで誰に情報を流すか分かりません。特に、彼女たちは璃晏の上層部と浅からぬ繋がりもあるようですし。であれば──私の側に置き、直接見張るのが最善かと」


 迷いなく言った。これは実際に考えるべきところなのだ。

 実際そういう気配はないが、彼女たちが“内通する恐れがある”と仄めかすことで、逆に王太子の疑念を“僕自身の中”に収束させる。


「私ならば、璃晏の言葉に通じています。些細な話も聞き逃しません」

「……なるほど」


 アリスタンは、声に笑みを含ませながらも、その視線には暗い光を帯びていた。

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