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9. 無法者たち(前)

 広い邸宅内で騎士と出会う。

 それ自体は珍しい事ではない。パトリシアや辺境伯の警護を担っている上に、要塞の管理を任されている者も居るからだ。


 そう説明されていたから、パトリシアは騎士と顔を合わせる機会が増えても疑問に思わなかった。


 けれどある時から、邸宅の騎士たちが皆一様に駆け足で、表情が固い事に気づいた。肌を刺すような緊張感が、邸宅全体を覆っているのだ。


(開戦が近いの?)


 脳内で呟いた時、ドッと心臓が跳ねた。

 パトリシアは焦っていた。

 あの夜、苦手としていた、生きるものへの忌避感を克服したはずだった。それなのに、体の震えだけが止まらない。手が触れた瞬間、嫌悪感が無い事に安堵し──数刻もしないうちに、這うように悪寒が駆ける。


 体が追いつかないもどかしさと、お構いなしに悪化する隣国との情勢。その全てがパトリシアに追い討ちをかける。


(どうしよう。どうしてなの)


 パトリシアの取り繕った笑顔に翳りが差し始めた頃。伯爵夫人の私室に、1人の騎士が訪れる。



「魔法式の講義、ですか?」


 小首を傾げるパトリシアに、黒衣の魔法師・スヴィエートが微笑む。スヴィエートは紫紺の瞳でパトリシアを一瞥した。


 射干玉の髪に白い頬。桃色に塗り込められた目元と、穏やかに光る翡翠の瞳。スヴィエートは初対面の時と同じく、磨き抜かれた御夫人、といった印象を受けた。特に、不調を隠す術に長けた方であると。


「はい。本来なら、もっと早くお話しすべきだったんですが、なにぶん()が騒がしいものですから……講義の存在をお伝えすることさえ遅れてしまいました。申し訳ありません、奥様」


「いえ、そんな! お忙しい中、私に時間を割いてくださってありがとうございます。どうぞよろしくお願いします」


 パトリシアの頬が淡く色づく。

 喜色を滲ませた笑顔に、思わずスヴィエートの口角も上がった。


(ルルーの様子があまりにも可笑しかったから、心配だったけど。これなら大丈夫そうかな)


 スヴィエートの脳裏に、ルルーの声が蘇る。


『先生、パトリシア様への講義、前倒しにできませんか!? 戦争の空気に当てられちゃったみたいで……。アタシ、あの方を元気付けて差し上げたいんです!』


 ルルーは今朝方、スヴィエートの元へやってきた。スヴィエートの黒衣に縋り付くように、前のめりになりながら。


『パトリシア様は魔法式がお好きなんです。多分、アタシや先生と同じくらい……。魔法書を読んでいる時のあの方は、“心の頼りになるものがそれしかない”って目をしています』


 金の瞳を潤ませたルルーは、しきりにスヴィエートを見上げていた。相対したスヴィエートは、パトリシアが来て以降、朗らかさに磨きがかかっていたルルーが、こうも弱っている事に驚いた。


(当てられていたのはお前じゃないか、ルルー)


 喉元まで出た言葉を呑み、改めてパトリシアを見遣る。今回の講義、元は辺境伯から“パトリシアに魔法式を教えてほしい”と頼まれたのが発端だった。


 首都近郊に所領を持つ、由緒正しい伯爵家出身であるスヴィエートにとって、講師をする事はさほど難しい事ではない。しかし、わざわざ“魔法式を”、と指名されたのが不思議だった。


(閣下の意図が読めないな。ルルーの言っていた事も大袈裟すぎる気がするし)


 ルルーは言った。()()()()()()()だと。

 スヴィエートやルルーにとって、魔法や魔法式は人生だ。生活のタネで、自分の最も得意な物で、他人や自分自身よりも遥かに信用のおける、絶対の概念だった。


(奥様の健康状態も気になるんだけど、正直、それと同じくらい、奥様の熱量を知りたい)


 スヴィエートにとって、パトリシアが同類かどうか見極める事は必要不可欠だった。戦いの準備が始まる中で、無理を押して講義の予定を早めるくらいには。


「一応、伯爵家の出ですから、講義自体に問題はないはずですわ。その辺りはご安心ください」


 パトリシアは数回、翡翠の瞳を瞬かせた。

 目の前にいる黒衣の魔法師が、伯爵家の血を継いだ由緒ある貴族である事。その貴族が、他ならぬ自分に物を教えようとしている状況に面食らったのだ。


 家を出る前の自分では想像も出来ない環境。

 パトリシアはうろ、と目を彷徨わせる。


「その……お言葉ですが、心配なんてしていません。ルルーの腕前を見れば、スヴィエートさんの教師としての力量が分かりますもの」


 スヴィエートは一瞬眉を上げて、すぐに笑みを作る。パトリシアの言葉は本心だ。付き合いの浅いスヴィエートでも、ビセスやルルーの様子を見ていれば理解できる。


 しかし、その態度が痛ましく、言ってしまえば腹立たしい。


「恐縮です、奥様」


 スヴィエートは薄く微笑んだ。

 貴族の娘は総じて生真面目だ。

 パトリシアのように、家のために己を殺し、心の傷を蓄えて嫁に行く。スヴィエートはそうなるのが嫌で家を出た。だからこそ、“そうなった”パトリシアを哀れみ、弛まぬ努力を尊敬すると共に──苦手に思っていた。どこまでも自分を卑下する様が、癪に触るのだ。


(奥様。ここはもう、貴女の家じゃ無いのに。どうしてそう肩肘を張ってるの)


 スヴィエートは想いを吐き出すように、細く溜息を吐く。嫌いなわけではない。ただ相容れないだけだ。良い人なのはよく伝わっているから、仲良くしたいとも思っている。


「それにしても、奥様はあの子を“ルルー”と呼んでいるんですね」


 だからこそ、見過ごせなかった。


「え? は、はい」


「私たちには敬称を付けるのに」


「──あ!」


 ハッとしたパトリシアに、スヴィエートは苦笑いを返す。本来、配下に敬称は付けず、丁寧な話し方をする必要もない。スヴィエートは、徹底した淑女教育を受けてきたパトリシアが、何故そのように振る舞うのか疑問に思っていた。


「私たちは粗野ですが、気にしいでして。エウ……いえ、他の騎士たちも結構気にしているんです。勿論、私も。どうぞお気軽に、スヴィエートとお呼びください」


 これも事実だった。パトリシアの言動が社交界で知られれば面倒な事になる。お歴々の戯言など一蹴すれば良い、が辺境伯家のモットーだが、騎士たちは主人の醜聞に敏感だった。恩人が貶される様を、指を咥えて見ていることなどできないからだ。


 対するパトリシアは、頭が真っ白になっていた。


(だって、私が……。私ごときが……)


 男爵家のお飾り令嬢。

 青い血を持たない貴族。

 どこに行っても厄介者の、親の道具──


 パトリシアが溢れ出る虚無感に耐えていると、胸に去来する感情があった。


(親の道具。私はずっと、そうだったけれど)


 ど、っと血が巡る。

 感情の正体は、芯を持った怒りだった。


(辺境伯夫人の、私が、親の道具?)


 パトリシアは、もう男爵家の令嬢ではない。

 パトリシアは、辺境伯ルーセントの妻、パトリシア・ルドビカだった。胸の中でそう唱えると、自然と背筋が伸びる。


「わ、かりました。……スヴィエート」


 スヴィエートは淡く微笑んだ。

 紫紺の瞳に、生来の穏やかさが戻る。

 スヴィエートは信じていた。自分が逃げ出したあの地獄(貴族社会)に、この年まで適応しきっていたパトリシアが、自己憐憫に終わるはずが無いと。


 スヴィエートの胸が粟立つ事は、もう無いだろう。

 しっかりとスヴィエートを見つめていたパトリシアは、数秒置いて恥ずかしそうに目を伏せた。


「あの、スヴィエートも、もっと楽な話し方をしてくれませんか? 私だけというのも、やっぱりまだ慣れなくて……。あ、出来る範囲で大丈夫なので!」


「ふふ。分かりました。奥様の命令には逆らえませんし、()から他の騎士たちに伝えておきますね」


 悪戯っぽく笑うスヴィエートを見て、パトリシアは胸を撫で下ろした。スヴィエートはしなやかに歩を進め、指を振る。瞬間、本棚から数冊の本が飛び出してきた。パトリシアは、それらが未だ手をつけられずにいた魔法書の実用書である事を認め、息を呑む。


「さて、そろそろ講義を始めましょう。準備はよろしいですか、奥様」


「はい。よろしくお願いします、スヴィエート」


 パトリシアの引き締まった頬が赤く染まる。

 あれほど待ち望んだ講義を、やっと受ける事が出来るのだ。

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