8. 想いとは裏腹に
パトリシアの1ヶ月はゆっくりと進んだ。
ルルーや執事長の手を借りながら、辺境伯領を学ぶ。辺境伯の体が空いている時は、彼と共に食事を摂り、彼の口から領の特性を聞く。勉強後は夜遅くまで魔法書を読み、眠っては起きる。その繰り返しだった。
「おはようございます、パトリシア様!」
「おはようございます、ルルー」
パトリシアは開いていた本を閉じ、私室に入ってきたルルーに微笑みかける。生来から眠りの浅いパトリシアは、大抵、ルルーのモーニングコールを待たずに目を覚ましてしまう。
当初は、日が登るよりも早く起きるパトリシアにルルーが慌てふためいていた。しかし、そう簡単に体質が変えられるわけでもない。結局、無理やり早起きしようとするルルーを、パトリシアが説得し。ルルーが安眠効果のある品々を用意して、パトリシアの快眠を促していく方向に決着した。
ルルーはパトリシアにドレスを着付けながら、ベッドサイドを盗み見る。
「このアロマもダメでしたか」
「ダメというわけでは……。気持ちが穏やかになる、とても良い香りでしたよ」
「でもでも、昨日は一頁も進んでいなかった本が半分も読まれているって事は、そういう事ですよね?」
ルルーは唇を尖らせながら、腰部分のリボンを花形に結った。パトリシアは苦笑を溢す。
「これでも、生家に居た頃と比べたら眠れている方なんですよ。ほら、初日なんて、本を2冊読み切っていたでしょう。凄い進歩だと思いませんか?」
「んぐぐ……それはそうかもしれませんけど……パトリシア様には、もーっと眠っていただきたいんです!」
毎朝繰り返される穏やかなやり取りは、二人の距離を縮めていた。パトリシアはルルーに吃らなくなり、ルルーもまた、自然に接する事が出来るようになった。パトリシアは、日々柔らかになっていくルルーの笑顔を、大変好ましく思っている。
「まぁ、眠れない夜も今日で終わりかもしれませんねぇ」
そう言うと、ルルーが一歩後退った。
そうして、満足げに頷く。豊かな黒髪をアップにし、派手すぎない化粧を施したパトリシアは、花のように可憐だった。淡い色合いのドレスは葉を模った銀糸の刺繍が施されており、腰元の花形のリボンを一層引き立たせている。
そして、首元を彩る青いペンダントが、パトリシアの翠眼と調和している。ルルーにとって、その事が何よりも嬉しかった。
パトリシアは仄かに頬を染めながら、両手で顔を覆った。左手の薬指には、シンプルな白銀色の指輪が嵌っている。
「閣下の隣で眠れる気がしません……」
今夜、パトリシアは初夜を迎える。
1日のスケジュールを終えたパトリシアは、普段通り自分の部屋に戻りそうになり──慌てて右隣の部屋に向かう。
共有の部屋は、本で満ちたパトリシアの部屋とは対照的だった。薄明かりを灯す照明と、大きなベッドだけの構成。パトリシアは生唾を飲みながら、恐るおそるベッドに腰掛ける。
(ふ、ふわふわだわ……)
自重に任せて後ろ側に倒れ込んだパトリシアは、先日挙げた結婚式を思い返していた。
隣国の脅威が増している現在、辺境伯家に式を挙げる時間的な余裕は無い。故に、指輪交換だけの簡素な式が行われた。
生花を苦手とするパトリシアに合わせて、邸宅のエントランスで行われたソレは、スヴィエートを筆頭とした演出家の手により、ある程度の格式が保たれた。
パトリシアは、今日のように髪を上げ、一点の曇りも無い白のウェディングドレスを纏っていた。対して、辺境伯は目にかかる赤毛を撫で付けて、碧眼を晴天に晒していた。
『情勢が落ち着いたら、きちんとした式を挙げよう』
一瞬、冷えた碧眼がパトリシアの翠眼と見つめ合った。思わず後退そうになったパトリシアが、青空のような瞳の奥で、何か燻るものを見た瞬間──触れるだけのキスが贈られたのだった。
「蹲ってどうした」
パトリシアが跳ね起きる。
声の主はベッドサイドに佇んでいた。
「か、閣下……」
「遅くなってすまない。少し立て込んでいた」
パトリシアは何度も頷いて、ベッドの端に移動する。薄暗い照明に照らされた辺境伯は、長身と堀の深い顔立ちのせいで、表情が窺えない。しかし、パトリシアは、低い声に混じる溜息を聞き漏らさなかった。
「隣国の件ですか?」
辺境伯はベッドサイドに座り、深く頷く。そのままパトリシアに背を向けて、頬杖を付いた。パトリシアは目を白黒させる。襟ぐりの広い服を纏い、傷だらけの首元を晒している辺境伯を初めて見たからだ。
「近々、また侵攻が始まるかもしれない」
そこで言葉を区切った辺境伯は、パトリシアに向き直った。パトリシアは、暗がりで輝く碧眼を見て、深海という場所はこのような色をしているんだろうと思った。
(閣下も当然、出陣するのよね)
辺境伯の腕が伸びる。無数の傷が付いた大きな手が、パトリシアの頬に触れた。高い体温が伝播する。
(この結婚で得たのはお金だけじゃない。私も含まれているんだわ)
反射的に身震いしそうになったのを押し留めて、瞳を閉じようとした。その瞬間、辺境伯が薄く笑った。
「やはり貴女は、人肌も得意ではないんだな」
辺境伯の親指が血の気の無い頬を撫でた。
少しカサついた指が気遣わしげに動く。夫の目の奥で揺れる物の正体に気づいているのに、どうしても応えることが出来ない。彼なら酷くしないと分かっているのに。
「すみ、ません……。人も、動物も。体温を知ると、命を実感させられるので……」
辺境伯は眉を下げて微笑むと、名残惜しそうにパトリシアの頬を離した。
「構わない。前にも言ったと思うが、私もあまり得意ではないからな。しかし、相手が私でも恐ろしいのか。貴女も知っているだろう、私の戦績を」
刹那、パトリシアの視界が眩んだ。
強い怒りが全身を貫く。生前の母の姿と、肉塊になった母の様が交互に脳裏を駆け──気付けば、辺境伯の手を掴んでいた。
「強い人も死にます!」
大きな声ではなかった。けれど、パトリシアの力強い言葉は、辺境伯の胸を強かに打つ。顔を引き締めたパトリシアは、見開かれた碧眼を見つめていた。
「生きているんですから。閣下だって、どれだけ強くても人です。いつか死んでしまうんです、……っ」
“分かっておいででしょう。だから私を買ったのでしょう”とは言えなかった。パトリシアは、もう、辺境伯が利益だけを見て自分を買ったのだと思いたくなかった。彼があまりにも優しいものだから、勘違いしてしまうし、していたくなる。
「母は強い人でした。私が知る限り、一番」
パトリシアは辺境伯の手を己の頬に這わせた。
どくどくと、熱い血潮が流れているのを感じる。パトリシアは、寒気を感じていたはずの感覚に、何故か安堵していた。体温は、死を約束された生物の証であるが、まだ生きている者の証でもあるのだ。
「すみません、閣下。もう大丈夫です」
「悪いが、説得力が無いぞ」
小さく笑った辺境伯は、パトリシアの頬を撫でた。途端に震えが走り、胸の奥底から冷たい物がにじり出てくる。パトリシアは唇を噛んだ。自分に巣食う物の根深さに苛立ちさえ浮かんでいた。
「パトリシア。貴女が慣れるまで、私は何もしない」
「え……で、ですが」
「私は死なない」
溢れ落ちそうな翡翠の瞳を見て、辺境伯が優しげに笑う。
「信じてほしい」
パトリシアは、時が止まったように、何も言えなくなった。