6. 居場所
重厚な門が開かれる。
パトリシアの翡翠の瞳が、黒い巨城を捉えた。
思わず息を呑む。城というよりも、要塞と言った方が正しい出立だった。獅子の意匠の影に砲門が見えたからだ。砲身には、充填魔力に応じて砲を打つ魔法式が刻まれているのだろう。
ひと足先に馬車から降りた辺境伯が、手を差し出そうとして、やめる。
「足元には気をつけるように」
パトリシアは小さく頷いて、ドレスの裾を持ちながらゆっくり降りた。
「お帰りなさいませ、閣下。パトリシア様」
「……あっ。これから、お世話になります。よろしくお願いします」
柔和な笑顔を浮かべた初老の使用人が声をかける。
パトリシアは一瞬目を剥いて、慌てて笑顔を作った。お帰りなさい、と。正面から言われたのは、いつ以来だったろうか。
使用人と騎士達が話し始めたのを横目に、場内に入る。先導するのは辺境伯だ。
パトリシアは反射的に目を凝らした。
それほどまでに、城内が暗い。
点在するランプがオレンジ色の光をたたえ、頭上のシャンデリアが光を攪拌させる。そういう仕組みをとっているようだったが、それにしても暗かった。そっと辺境伯を仰ぎ見る。辺境伯はパトリシアの目元を見て、呟いた。
「この城は攻め込まれた時も対応できるよう、大きな窓を設けていない」
「な、るほど……」
「私達は服か装身具に魔法式を刻んで、可視領域を拡大させている。部屋に着くまでの辛抱だ」
パトリシアの脳内に、スヴィエートの言葉が蘇る。
『夫人の私室は庭園が見える場所とされてきたので』
この城で、大きな窓から、贅を凝らした庭を臨む。それは、最大級の尊重・最高の特権の証なのだろう。パトリシアは、騎士達が何故ああも混乱していたのか理解した。
「ここが貴女の部屋だ。左隣は私の私室。右隣が私達の共用部屋だ」
パトリシアの胸が緊張で逸る。
本当に嫁いできたのだ。隣に立つこの方と、夫婦になるのだ。白磁の頬を朱色に染め出したパトリシアに対して、辺境伯の表情は変わらない。
(近くがいいと言ったけれど、閣下の隣部屋になるなんて……いや、夫婦なんだし、これくらい当然なのかしら)
「食事の時間になったら呼びに来る。それまで、しっかり休むように」
「は、はい。閣下も、お身体を休めてくださいね」
穏やかに微笑んだ辺境伯は、その場を後にした。
残されたパトリシアは、自室を前にして、深く深呼吸する。この部屋が以前はなんの部屋だったのか。気づけば隊列から去っていたエウドキアが、何時ごろ到着して、何時部屋の用意を終わらせたのか──その辺りの事は、教えてもらえないだろう。
使用人達にそれだけの負担を強いた負い目が、パトリシアにはある。ある、が、平静としていなければならない。
生家にいた頃のパトリシアは、配慮とは無縁の生活をしていた。それは常に、後継者の為のものだったからだ。だから慣れない。どうしても。
──これからは、慣れなければならない。
辺境伯閣下を支える妻として。
この城の、2人目の主人として。
パトリシアは表情を引き締め、扉を開いた。
瞬間、パトリシアの耳を、朗らかな声が打つ。
「お初にお目にかかります、パトリシア様! ルルーと申します! パトリシア様の身の回りの事は、全てアタシにお申し付けください!」
黒い城とは対照的な、白の内装。
陽の光に極めて近い色をしたランプ。
溢れんばかりの魔法書が収められた本棚が、壁一面に並んでいる。パトリシアの好みを集約した部屋の中央で、オレンジ色の髪をした少女が、満面の笑みを浮かべていた。一瞬目を見開いたパトリシアは、すぐに目尻を下げて微笑む。
「よろしくお願いします、ルルー。それに、素敵な部屋を用意してくれて、ありがとう」
ルルーは花が綻ぶような笑顔を浮かべた。が、すぐにハッとして頬の緩みを正し、一歩踏み出す。
「お疲れのところ申し訳ないのですが、お手持ちの物に魔法式を刻まなければいけなくて……」
「可視領域を広げる……という、アレですね?」
「そうです! パトリシア様には、お気に入りの装身具等ございますか?」
パトリシアは自分の姿を見下ろした。
実家から持ってきた服は、自分に似合っている──と思う。けれど、どれも趣味とは違いすぎて、好きじゃない。装身具も重たいので、外出する時以外は着けたくないのが本音だった。
「えっと……無い、です」
口に出してすぐ、後悔した。
貴族の娘は着飾るのが仕事。それなのに、こんな返答をして、ルルーを困惑させないだろうか。パトリシアは取り繕うとして唇を開いた。しかし、それよりも早く、ルルーがニンマリと笑う。
「じゃあ、折角ですし新調しましょうよ!」
言うなり、ルルーの瞳が星空のように輝きだした。パトリシアは、自分の心配が杞憂だった事に気づいて、静かに胸を撫で下ろす。
「そうですね。是非お願いします」
「任されました! では、行ってきます!」
ふんっと胸を張ったルルーは、早足で部屋を出ようとする。パトリシアは翡翠の瞳を見開きながら、思わず呟いた。
「ルルーが魔法式を?」
「はい! ……あ、一応、スヴィエート様に師事していただいているので、出来は大丈夫だと思いますが……」
ルルーが振り返る。出入り口の近くは、廊下のランプの光が強い。右側の顔を仄暗いオレンジ色に染めたルルーは、ぎこちない笑顔を浮かべていた。無力感の濃い笑顔に、過去の自分を重ねたパトリシアは、みるみる青ざめる。
「ご、ごめんなさい。貴女の実力を疑っているわけではないんです。ただ、魔法式に興味があって……刻むところを見せていただけないか聞きたかっただけなんです」
ルルーはハッとして、パトリシアに駆け寄った。
「そんな! アタシが早とちりしたせいです、すみません! その、前に勤めていた家では、使用人が魔法式を書くのが認められていなかったので……つい」
頭を下げるルルーの肩は、小さく震えていた。
抑圧されていたが故の、思考の癖。この家の優しさに戸惑ってしまうパトリシアにも、覚えがある感覚だった。反射的に唇を噛む。
「でも、ここはそうじゃないものね」
努めて、穏やかに。ルルーが話しやすいよう、声色を作る。ルルーは勢いよく顔を上げた。乱れたオレンジ色の髪の下で、大きな金の瞳が潤んでいる。
「──はい。凄く、すごく良いところです。アタシ、此処に来た日から、毎日幸せなんです」
至近距離からルルーを見て、気づいた。
顔立ちが幼い。小柄なパトリシアと同じくらいの背丈だったので、入室した時は気づかなかったが。ルルーは背の高い、年下の少女なのだろう。
「パトリシア様にもそう思っていただけるよう、頑張りますね!」
パトリシアは穏やかな笑みを崩さずに、頷いた。
彼女が真っ直ぐ育つかは、自分の主人としての在り方にかかっている。そう思うと、自然と背筋が伸びた。