4. 信頼のかたち
「下がっていろ」
言うなり、辺境伯が腕を振った。
刹那、鋭い斬撃が森の樹々を裂く。勢いをつけて地面に倒れていく樹々を見て、パトリシアは血の気が引いていくのを感じた。その樹々の切れ目が、しとどに濡れているのを確認し、恐怖が強くなる。
(み、水属性の魔法……こんなに鋭く、素早く射出できるものなの……? もしかして、道中の小休止場も、閣下が均したものだったりする?)
やっぱり辺境伯様とは住む世界が違うのだ、という想いが、パトリシアの足取りを重くしていた時。一つの嗎が場を支配した。
「着いたぞ」
穏やかに微笑む辺境伯の背後に、1匹の馬が佇んでいた。パトリシアは生唾を飲む。それは、辺境伯が男爵邸にやってきた時に乗っていた、逞しい馬だった。
黒く艶やかな毛並みが、木漏れ日に反射して艶かしく輝く。浮き出る筋肉と血管は、ソレが血の通った生き物であることを示している。パトリシアの顔がどんどん青くなっていくのと比例して、辺境伯の愛馬・ビセスは、パトリシア達に近付いてきた。
「パトリシア」
低いけれど、穏やかな声色。
パトリシアは辺境伯を見上げた。澄んだ碧眼が揺れている。辺境伯の冷淡な瞳が不安げに燻っているのだ。パトリシアは息を呑んだ。弱点の無いはずの辺境伯が、自分を見て狼狽えている。それが理解できず、動揺してしまった。
その動揺が命取りだった。
瞬間、パトリシアの強張った頬に、ざらついた物が這う。
「ぴぎゃ!?」
「ビセス!」
思わず飛び上がったパトリシアは、頬を抑えながらそちらを見る。ビセスが巨体を携えて、パトリシアのすぐ側まで来ていた。間近で見ると、凄まじい迫力だった。上背のある辺境伯よりも大きく、鋭い眼をしている。それに、辺境伯と共に多くの戦場を駆けた名馬であるのに、一切の傷が無い。
すぐさま辺境伯が割って入って、ビセスを押さえつけた。
「すまない、パトリシア。ビセスが人の顔を舐めるなんて……」
『気位の高い馬なので、辺境伯様以外とよろしくやるつもりもないみたいで』
パトリシアの脳裏に、エウドキアの言葉が蘇る。
辺境伯の赤毛に顔を埋め、ぐるぐると声を上げるビセスは、随分と人懐っこそうに見えた。パトリシアは小首を傾げながら、ビセスと辺境伯を見比べた。
「い、いえ、大丈夫です、吃驚しただけで」
死角から舌で舐められれば、誰だって驚くだろう。
先ほどのことを思い出していたパトリシアは、「あっ」と声を上げた。舌で触れられたのに、吐き気が無いのだ。唖然とするパトリシアを見て、辺境伯がククッと笑う。
「温かくも、冷たくもないだろう?」
「は、はい! 全然……。どうしてですか?」
パトリシアは身を乗り出して、辺境伯の腕の隙間からビセスの頭に触れた。硬質な皮膚の感触はあるが、やはり温もりだけが無い。翡翠の瞳を輝かせるパトリシアを見て、辺境伯は穏やかな笑みを浮かべた。
「ビセスは魔法生物なんだ」
パトリシアが眼を剥いた。
「これだけ強度のある馬が? そんな、どうやって」
魔法生物は、用途多数の人造生命体だ。
多くは市販の魔法式で顕現させるのだが、性質上、注ぎ込んだ魔力・組んだ魔法式の複雑性に応じて顕現できる時間が変わる。パトリシアの記憶では、1ヶ月以上顕現できる魔法生物は存在しないはずだった。
「建国王から賜った魔法式で出来ているんだ。手入れする際に“ルドビカの者”が魔力を注げば、その分強度と寿命が伸びる」
パトリシアは感嘆の声を漏らした。
魔法式は構造上、長期間顕現できる複雑性を持てない。魔力を流す経路を、算術のように式立てるのが魔法式である。この王国は個人の魔力を引き上げる事に注力しており、全員が均一に・そこそこの威力を発揮する魔法式には力を入れてこなかった。
(実際、閣下はお一人であれだけ強いのだし。隣国は魔法式の研究に力を入れているはずだから、また話が変わってくるだろうけど。でも、王国でこれだけの魔法式……)
押し黙ったパトリシアは、脳内で魔法書を捲った。淡く染まった頬が真剣な表情を浮かべている様を、辺境伯が眺めている。
「魔法式が好きなのか?」
「は、はい!」
勢いよく顔を上げたパトリシアは、しかし、すぐに俯いた。射干玉の髪の影で、若草色の瞳が濁る。
「でも、きちんと学んだ事はなくて」
くぐもった声には、恥と、後悔と、若干の憎しみが滲んでいた。パトリシアは殆ど魔力を持たずに産まれた。だからこそ、少量の魔力で魔法を発動できる魔法式に惹かれたのだが。
実際にパトリシアが学べたのは、美しい立ち姿に、美しい刺繍の仕方。パーティで目立つ為の勉強は、退屈で苦しいものだった。何度嘆願しても、パトリシアが魔法式を学べる日は来ず──密かに古くなった服飾を売って、魔法書を買う日々が続いた。
辺境伯は顎に手をやり、一瞬、天を見上げた。
「そうか。考慮しよう」
「え、っと……ありがとう、ございます?」
すぐに暖かな面差しで此方を見つめはじめた辺境伯を、そっと見つめ返す。この短い邂逅で、彼がただの口下手でない事は分かったが、自己完結しがちなところがあるようだ。パトリシアは度々ハテナを浮かべる羽目になった。
「でも、良かった。貴女の顔色が良くなって」
一層深くなった笑み。パトリシアは、自分の頬に熱が集まっているのを感じて、視線を逸らした。
「私も時折、柔らかく、暖かい物が恐ろしくなる時がある」
パトリシアが、ば、っと辺境伯を見上げる。
「閣下が?」
一息のうちに、優しげな表情が陰鬱なものに置き換わっていた。美しい碧眼が、冬の空の痛々しさを取り戻している。
「情けないが、初めて剣で人を貫いた瞬間を思い出すんだ」
彼の端正な顔に、苦痛の影が射す。屈強なルーセント辺境伯──もとい、自分よりも大きな男性が弱さを曝け出す様を、パトリシアは初めて見た。
(これは、閣下なりの信頼と、歩み寄りなんだわ)
パトリシアは、他人に弱みを見せる危険性を理解している。商売人であった祖父や父に、散々教え込まれていたから。
「辛くなったら、いつでも私を呼ぶと良い。話を聞くことくらいはできる」
そう呟くと、辺境伯は重い表情を取り払って、晴れやかに微笑んだ。その表情を見たパトリシアは、彼の浮かべる笑顔の多くが、自分を励ます為のものである事に気付いた。終始気を遣われているのである。
辺境伯は、そっと肘を差し出した。
目的は終えたから帰るぞ、と言わんばかりに。
パトリシアは差し出された肘に、指先を乗せる。
行きと同じエスコートの姿勢だ。異なっているのは、パトリシアの表情と、辺境伯のもう片方の手が、ビセスを導いているという事だけ。パトリシアは緊張した面持ちで、ひたすらに何かを考えていた。
辺境伯も、唇を開いては閉じ、を繰り返している。ビセスはただただ、凪いだ眼で自身の主人らを見守っていた。
数分経って、パトリシアが指先に力を込めた。
辺境伯の黒衣ごと、彼の腕を握りしめるように。
「閣下も、そうしてくださいね」
辺境伯は自身の耳を疑った。
「思い出してしまった時……私を呼んでください。私も、閣下の力になりたいので」
パトリシアは、指先から伝わる体温の温かさに震えが止まらなかった。恐ろしいものは恐ろしいのだ。しかし、己の決意が如何ほどの物なのか表明するためには、これしかないと思った。辺境伯なら、この行動の意図を理解してくれる、という信頼もある。
「助けられてばかりでは、対等じゃないので! わ、私たち、夫婦ですし!」
だから、拙いながらも言いきる事ができた。
パトリシアは辺境伯の腕を鷲掴みながら、肩で息をした。体温への恐怖と、発言内容の恥ずかしさで干上がりそうだった。
「私を助ける? 貴女の、この細腕で?」
確かめるような物言いに、パトリシアの顔がどんどん赤くなっていく。その最中、辺境伯の瞳は優しげに笑んでいた。
「嬉しいよ。ありがとう、パトリシア」
「ぅ、あい……」
辺境伯の、庇護欲に満ちた甘い笑顔に晒されながら、パトリシアは歩を進めた。ビセスは二人の様子を見ながら、深く、長く息を吐いた。坊ちゃんの新しい家族は、旦那に似て繊細そうだ。これは面倒事が増えそうだぞ──と言わんばかりに。