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3. あなたってどんな人?

 パトリシアは慌てて立ちあがろうとした。

 辺境伯の腕が、寒気がするほど暖かかったから。

 対して、辺境伯は顔を顰めた。パトリシアの長い黒髪が、辺境伯の洋服のボタンに絡まっている。それは、パトリシアが身を捩るたびに、ぶちぶちと音を立てていた。


「暴れるな」


「ひゃい」


 パトリシアは、口を押さえながら、蒼白した顔を隠そうとする。自分の髪がどうなっているかなど、知る由もない。


「髪が絡まっている。このままでは切れるぞ」


 言いながら、辺境伯はボタンからパトリシアの髪を外していった。片腕でパトリシアを支えながら、もう片方の手で、一房ずつ、壊れ物に触れるように、丁寧に。パトリシアは翡翠の瞳を瞬かせる。体は未だ強張っていたが、辺境伯の手つきがあまりにも優しいので、暴れる気が失せていた。


「あ……は、はい。あの、ありがとう、ございます」


 辺境伯は、そんなパトリシアを見てため息を吐いた。


「怪我がないようで良かった」


 自身の発言に驚いたのか、はっと碧眼を見開く。

 そのままパトリシアを下ろし、距離を取った。パトリシアもまた、辺境伯を覆っていた、冷え冷えとした雰囲気が霧散した事に目を剥く。


「……えと……おかげさま、で……」


 そして、二人の間に沈黙が横たわる。

 パトリシアは焦った。“おかげさまで”じゃないでしょう。ぶつかりそうになった事を謝ったり、きちんとした感謝を伝えるべきだったんじゃないかしら──それに、元気そうで良かったって、どういう意味。


 コロコロ変わる表情は、パトリシアの唇よりも雄弁だった。辺境伯は、未来の妻の黒い旋毛を思案げに眺めた。


「なぜ此処に?」


 パトリシアの細い肩が跳ねる。

 恐るおそる顔を上げると、辺境伯と目が合った。

 自分よりも頭ひとつ分高い位置から見下ろされるのは、やはり怖い。陽に透ける赤い髪も血のようで恐ろしいし、澄みきった碧眼は底が見えない。


 けれど、話を振ってくれたからなのか、身がすくむような悪寒は無くなっていた。意を決して、唇を開く。


「ひ、一人になりたくて」


 震えた声を発した途端、目の前が白んだ。

 葉の擦れる音が聞こえなくなり、世界に一人だけ取り残された感覚を味わう。


 パトリシアの目の前に現れたのは、絢爛なシャンデリアに、精油の香りを纏った貴族たちだった。


 “ドレスに見合わない陰気臭い娘”

 “居場所なんてないのに頑張っちゃってまぁ”

 “広告塔の娘があんなんじゃねぇ”


 吐き気が込み上げてきて、思わず目を閉じようとした瞬間。眩む視界の端で、辺境伯が頬を綻ばせたのが見えた。


「私と同じだな」


 パトリシアは、ハッとして目を見開いた。

 ルドビカ辺境伯の顔にかかる、柔らかな赤毛が、風に煽られて流れていく。露わになった端正な顔は、先ほどまでの険しさがかき消えていた。目尻を細くした、柔和な笑み。冷えた碧眼が陽光を吸って、蕩けるような甘さをたたえている。


「裕福な家の娘は、一様に社交場が好きだとばかり思っていた」


 惚けていたパトリシアは、彼の声で意識を引き戻す。辺境伯が語るパトリシア像は、彼女の身分や容姿から連想されるソレだった。


 パトリシアは、自分の容姿を思い起こす。

 長い射干玉の髪に、大きな翡翠の瞳。白く小さな顔は、派手な化粧が似合う。生家の裕福さを示すために贅沢な装いをする事が多かったパトリシアは、当初、社交界の新たなスターとして歓迎されていた。


 そのムードも、数週間後には失せていたが。

 パトリシアは当時のことを思い出して、胸が重くなっていくのを感じた。


「や……そんな事、ないです。私は、噂にもある通り、一人で散歩したり、本を読んだりするのが好きで」


「噂?」


「社交場の噂です。ご存知ない、ですか?」


 辺境伯は眉間に皺を寄せて、首を横に振った。

 碧眼に鋭さが戻る。


「ない。口さがない連中の言葉など、耳を貸す価値が無いだろう。貴女も気にしない事だ」


「は……はい」


 社交場への嫌悪が滲んだ、圧の強い声色だった。しかし、内容自体はパトリシアを気遣うもの。パトリシア自身もそのことに気づいていたが、怖気付き、か細い声しか出せなかった。


(でも、安心した。辺境伯様も、社交界をよく思っていないのね)


 パトリシアの辺境伯像は、社交場を駆ける僅かな噂と、家に来た時の第一印象だけで構成されている。曰く、気難しく、口下手で、戦場の鬼で──それだけだった。だからこそ、彼の考えを知れた事に安堵した。


「ともあれ、気晴らしにこの辺りを歩くのは危険だ。そろそろ戻れ。歩きたいなら、私の邸宅にも美しい庭園がある。それまで我慢するんだな」


 美しい庭。

 パトリシアは、絢爛な華が咲き誇る、穏やかな光景を想像して、冷や汗が出た。そこに佇む自分が、目眩を起こして倒れ込む様が見えたから。


「あの……わ、たし。花があまり、得意じゃなくて」


「何故だ?」


 二の句を継ごうとして、躊躇う。

 命が怖い、終わりが怖い。そんな形のない恐怖を話して、馬鹿にされないだろうか。動かなくなったパトリシアを見て、辺境伯は視線を彷徨わせた。


「すまない。話しづらいなら言わなくていい」


 明後日の方向を見る碧眼は、穏やかな色を取り戻している。パトリシアは目を瞬かせた。自分の態度に腹を立てるわけでもなく、ましてや謝られるなんて。


 パトリシアは賭けることにした。

 この方ならば、話を聞いてくれるかもしれない。


「いえ。お話しさせてください」


 暖かくなった胸元で、指先を組む。緊張で冷えた末端は、心臓の脈動を浴びて徐々に体温を取り戻しつつあった。


「えと。物は、丁寧に扱えば、永遠に残るじゃないですか。でも、命は違うから。命は、いつか終わっちゃうので。綺麗な花々を見ても、萎れるんだろうな、と思うと、ちょっと」


 パトリシアは、自分の拙い言い回しに辟易とした。もっと端的に、気持ちを伝えられればいいのに。だから自分は口下手令嬢などと揶揄されるんだ──そう思いながら、辺境伯を見上げた。彼は凪いだ瞳で、真っ直ぐにパトリシアを見つめていた。


「なるほど」


 小さく頷いた辺境伯は、口元を緩めた。


「戻るのは無しだ」


「え?」


「今からビセスに会いにいくぞ」


「え……え? ビセスって、閣下の愛馬の」


「ああ。貴女はきっと、ビセスを気にいる。アレは特別だから」


 何故。疑問を解消する間もないまま、大きな手がパトリシアの腕に迫る。抱き止められた時に感じた体温が蘇って、反射的に身を強張らせた。が、指先が触れる直前で動きが止まる。


「閣下?」


 パトリシアが辺境伯の顔を覗き込む。

 彼は唇を噛んで何事かを考えているようだった。

 暫く待っていると、肘が差し出される。エスコートだ──直感に従って指を乗せると、辺境伯が歩き始めた。パトリシアも慌てて歩き出す。


 草花を踏み締める感覚に胸をざわつかせていたパトリシアは、ふと、辺境伯が歩幅を合わせてくれている事に気づいた。半ば引き摺られるように歩いていたのに、今ではパトリシアの半歩先をキープしてくれている。


(勢いでビセスに会いにいく事になってしまったけど、大丈夫かしら……。でも、辺境伯様が一緒にいてくださるなら……)


 その時、パトリシアは気づいていなかった。

 どこまでも自信に配慮してくれる辺境伯に、信頼を寄せ始めていた事に。

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