2. 始まる事、終わる事
「は、初めまして。パトリシア・シェーンと申します」
真っ白になった頭から捻り出せたのは、その一言だけだった。辺境伯は俯いたパトリシアを一瞥し、小さく唇を動かす。血のように深い赤毛が揺れて、冷えきった瞳が露わになった。それは無感動に、ただパトリシアを眺めている。
「ルーセント・ルドビカ。以後、よろしく頼む」
外見に似合った、重く低い声が、パトリシアの背中を震わせた。初めて出会ったその日、二人がそれ以上言葉を紡ぐことはなかった。
馬車の中で、パトリシアは苦悩していた。
眼前には窓を見つめ続ける辺境伯。
横(というか馬車の外)には常に笑顔のエウドキア。その周囲には沢山の黒い騎士。
(かれこれ丸3日。側近のエウドキアさんとしか話してないわ……しかも全部事務的なやつ……)
会話のネタが、まったく思いつかないのだ。
男爵領から辺境伯領まで伸びる、長大な森の中に、いくつか開けた土地がある。
その多くは、木々を伐採した跡や、魔法の練習場である。パトリシアは、今回の護送で用いる小休止場も、その類だと思っていた。しかし、聞けば辺境伯一行が帰り道を考慮して、予め設けた土地だというではないか。
森の中の小休止場で降車し、ぼうっと空を眺めていたパトリシアは、当時のことを思い出して眉間に皺を寄せた。
(皆さん、やる事なす事派手すぎるわ……)
思考を振り切るように首を振る。
今はそんなことを考えている場合ではない。
2、3回深呼吸して、キッと目を鋭くした。
辺境伯の第一の騎士・エウドキアに、辺境伯とのコミュニケーションについて相談しよう、と腹を括ったのだ。
これまでのパトリシアは、何処となく垢抜けた雰囲気のあるエウドキアに話しかけるのが怖かった。恐らくだが、彼も貴族家出身だろう。パーティ会場で、パトリシアを遠巻きに見る令息たちと、よく似た雰囲気を持っていたから。だから、話しかけるのが躊躇われた。
しかし。
しかし、これ以上、馬車の中が重たく澱んだ空気で満ちていくのに耐えられない事も事実だった。
当然だが、辺境伯本人に聞く選択肢は無い。大きな体に寒空の目をした彼は、すっかりパトリシアの恐怖の対象になっていたので。彼よりかは幾分か話しかけやすい相手が、エウドキアだったのだ。
パトリシアは、自信の眼前で木陰に座り込んでいるエウドキアに近づく。冷や汗が浮いた険しい表情に、決死の覚悟を滲ませて。
対して、長い金髪を遊ばせていたエウドキアは、様子の可笑しいパトリシアに気づいて目を剥いた。腰元の剣に指を這わせ、腰を浮かせようとするエウドキアに、慌ててパトリシアが駆け寄る。
身振り手振りで事情を説明されたエウドキアは、聴き終えると共に、苦笑いを浮かべていた。
「えっと……辺境伯様が喜びそうな話題、ですか?」
パトリシアは至極真剣な眼差しを向けた。
藁にもすがる想いだったのだ。
「馬車の中、会話が無くて、辛くてですね……」
「ああ、いつも静かだなぁとは思っていたんですが……すみません、ウチの辺境伯様が」
「や、そんな事は……」
エウドキアは頭を掻きながら思案する。
数秒。パトリシアにとっては、無限にも思える沈黙が続いた。
「御令嬢、いえ、失礼。もう奥方様でしたね」
パトリシアは固まった。
数秒、ぱちぱちと瞳を瞬かせ、途端に慌て出す。
「あ、あの、まだ成婚前ですし、お好きなようにお呼びください」
「そういうわけにはいきません。辺境伯様に叱られますから」
冗談めかして笑うエウドキアに面食らった。
あの孤高の黒獅子が、自分の立場を尊重してくれているなんて夢にも思わなかったのだ。葉が擦れる音と共に、エウドキアの表情が一層穏やかになる。
「奥方様も、もうご存知かと思いますが。あの方は馬がお好きです。愛馬の──ビセスと言うんですが、あいつの世話に命をかけています」
「い、命を」
パトリシアが表情を強張らせる。
荒事とは無縁の世界で生きてきたパトリシアは、この手の話に弱かった。白磁の肌が青みがかった頃、エウドキアはパトリシアの顔を見て、一瞬キョトンとした。そうしてすぐに、調子良く続ける。わざとらしいほどに。
「はい! まぁ、戦場では背中を預ける存在ですから、当然と言えば当然ですが。気位の高い馬なので、辺境伯様以外とよろしくやるつもりもないみたいで」
「はぁ……」
と、そこまで聞いて、パトリシアの胸中に嫌な予感が走った。
「ですから、ビセスの観察をするのは如何でしょう?」
やっぱり。一人ごちながら、唇を噛む。
公言したことはないが、パトリシアは動物が苦手だった。血潮の流れた暖かな生き物が、怖い。冷ややかな辺境伯様も恐ろしいが、それとは別種の恐怖を感じている。
「奥方様、どうされました? 顔色が……」
はっとして、目線を上げた。
知らぬ間に目線が下がっていたらしい。
エウドキアが心配げに自分を見つめている。
──いけない。仄かな焦りが汗となって頬を伝う前に、パトリシアは震える指先を握り込み、笑顔を作った。
「いえ。なんでも。貴重なご意見ありがとうございます」
強張った頬をこれ以上見られたくなくて、足早にその場を去る。残されたのは、去っていくパトリシアを怪訝そうに眺める、エウドキアただ一人だった。
草花を踏みしめながら駆ける。
とにかく一人になりたかった。
木々がざわめく音を聞きながら、粟立つ腕を抱きしめる。
パトリシアは動物だけではなく、森も生花も苦手だった。
命があるという事は、終わりもあるという事。
パトリシアは、幼い頃からずっと、終わりがあるものを拒絶している。今は亡き者との心地良い光景が、想い出となって褪せていく事が怖い。心の臓が動きを止め、末端から凍えていく様を想像すると、吐き気が込み上げてしまう。
発作が起こるたび、子供じみた妄想だと──彼女の父親は、そう宣ってパトリシアを宥めていた。
(妄想なんかじゃない。お父様も見たじゃない。みんな……いつかは、お母様みたいになるのよ)
駆けた先で、黒衣が眼前を横切った。
「きゃ!」
ぶつかる。
そう思った瞬間、柔らかく、暖かな物に抱き止められた。
「怪我は?」
背中を撫で付ける、低く、重い声。
ひゅ、と喉が鳴る。そこに居たのは、目にかかるほど長い赤毛に、寒々しい碧眼を備えた、辺境伯閣下その人だった。芸術品のように完成された顔が、パトリシアの間近に迫っている。