19. 交流と破綻(前)
【2025/07/28】
更新が滞っていて申し訳ありません。
夏風邪を拗らせて、にっちもさっちもいかない状態になっていました。復調したので、更新再開します。またよろしくお願いします。
紅葉が落ちきり、領民も寒波を見送った。
もう数日経てば、暖かな日差しが戻ってくる。
その折に、ケイデンス子爵家でのお茶会が開催された。
揺れる馬車の中で、パトリシアは外を眺める。
若草の瞳に映るのは、窓に反射した自分の姿だった。
結い上げられた射干玉の髪には、真珠のアクセサリーが散りばめられている。陽の光を吸って、虹色にも、鈍色にもなる玉は、パトリシアの心情を雄弁に語っていた。淡く輝く銀のドレスは、パトリシアの細い肢体を隠すように、裾に向かうにつれ薄手のフリルがあしらわれている。
睡眠時間と食事量を増やし、目元のクマや頬のコケを解消してきた。素材の力を最大限に高めた上で、粗とも呼べない粗を、大量の粉で覆い隠し──結果、今日のパトリシアは、目が覚めるような美貌を放っていた。
社交界デビューから数年。
あらゆる苦渋を舐め続けたパトリシアは、一年足らずで自尊心を築き直した。今ならば、好奇の視線に足が震えることもないだろう。それでも、不安を拭いきることはできなかった。パトリシアは瞳を閉じる。
(ケイデンス子爵家。辺境伯閣下のお婆様の生家。子爵閣下は社交シーズンに向けて王都へ。今いらっしゃるのは、前子爵夫人と、子爵閣下の妹君……。うん、大丈夫、ちゃんと頭に入ってる)
辺境伯領の隣に居を構える、ケイデンス子爵家。
前子爵夫人は、幼い頃、ルーセント辺境伯の家庭教師を務めたという。パトリシアとしては、どうにか幼少期の閣下の話に持ち込んで、色々な話を聞きたかった。純粋に、彼がどんな子供だったのか知りたいので。
(仲良くなれるかしら……)
ケイデンス子爵領は王都から遠く、社交に積極的ではない。故に、パトリシアが令嬢時代に培ってきた“対策必須! 脳内貴族名鑑”に、彼女たちの名前は無かった。
頼みの綱および、辺境伯領に長く勤める執事長・ゴドリックも『穏やかな方々です。あとはお会いすればわかりますよ』と宣うばかり。その他の歴が長い使用人も、同様の文言を告げて仕事に戻っていった。
パトリシアは、緊張で指先が痺れていくのを感じた。溜息混じりに瞳を開いて、フリルの下から覗く指先を、温めるように揉み込む。
(気合いを入れなきゃ。やるのよ、パトリシア)
事が運べば、2度目の結婚式にも参列していただきたい相手である。パトリシアはぐっと握り拳を作って、小さく自分を励ました。
そんなパトリシアの正面に座るのは、ルルーただ一人。
使用人にもそれ相応の格好を、という訳で、主役を食わない程度に着飾ったルルーは、青い顔をしていた。
(は、肌に触れる物全部やわらかい! なんかキラキラしてる! う、うう、慣れない。かえりたい。ああ、朝から晩まで魔法式漬けの日々が恋しい……)
ルルーの脳内は、現実逃避よろしく、領地改革の進捗を図解していた。
パトリシアが推していた、隣国の魔法技術を流用する計画に関してである。
結果的に言えば、かなり難航していた。
そもそも、時と天の魔法属性を理解し、魔法式に転用できる人間が殆ど居ないのである。完璧に扱えるのは、ルルーと、ルルーに教わったルーセント辺境伯くらい。特訓を重ねた今、式は書けるが、大規模な物は難しいのが、スヴィエートとパトリシアだった。
将来的には、魔法式を組み込んだコンテナや、調理器具を市場に流したい。そのため、技術者が不足している現状、習得できる見込みのあるスヴィエートとパトリシアの学習進度が要だった。
今回、スヴィエートが護衛として同乗しなかったのも、魔法式の習得を優先したが故。出立直前のスヴィエートは、領地改革の一端を担う事になった喜びと、同行できない悔しさで頭の中が滅茶苦茶になっていた──当のルルーもまた、それどころではなかったので、師の内情に気付けないでいたが。
(試作で作った氷菓、美味しかったなぁ)
ルルーが喉奥を鳴らした瞬間、一際大きく馬車が揺れた。
ハッとしたルルーは、パトリシアに視線を向ける。一瞬、見開かれた黄金の瞳と、決意を滲ませる若草の瞳がかちあった。どちらともなく視線が動き、窓の外へ向かう。
そこには、金の蘭があしらわれた、大きな門があった。陽を受けて艶かしく輝くそれは、厳かに開かれる。門の向こう側では、多くの使用人と、二人の貴婦人が待ち構えていた。
──ロマンスグレーの髪を結い上げた初老の女性に、豊かな赤毛をした若い女性。ケイデンス前子爵夫人と、その愛娘・ミルドレッドである。
パトリシアは手を借りながら馬車を降り、貴婦人たちと相対した。最初に口を開いたのは、嫋やかな笑みを浮かべた前子爵夫人だった。
「ようこそお越しくださいました、パトリシア様。ケイデンス子爵家を代表し、マルクト・ヴィフ・ラ・ケイデンス並びに、ミルドレッドがご挨拶申し上げます」
貴婦人たちのゆったりとしたカーテシーに、パトリシアも笑みを深くする。
「此方こそ、お招きいただきありがとうございます、マルクト様。パトリシア・ルドビカと申します。本日は、何卒よろしくお願いいたします」
カーテシーを返したパトリシアは、マルクトの先導を受けながら、歩を進める。白亜の子爵邸は、陽の光を受けて燦然と輝いていた。庭を彩る花々が、風に揺れて囁く。辺境伯邸とは異なる開放的な雰囲気に、パトリシアは息を呑んだ。
マルクトはパトリシアを一瞥した。一瞬、何かを考えるように目線を彷徨わせ、なんて事ない事のように話し始める。
「それにしても、辺境伯様にこんなにも可愛らしい奥様が出来たなんて……なんだか感慨深いですわ。私と初めて会った頃の閣下は、葉野菜嫌いの腕白小僧だったもので、ついね」
思わず、パトリシアが目を剥く。
「こ、小僧……。閣下が、ですか?」
目元を弓形にし、低い声で結論から話す辺境伯の姿が、パトリシアの脳裏を埋め尽くす。
──常に余裕があり、理知的な瞳をしている彼が、腕白小僧? ということは、大口を開けて笑ったり、森で虫を捕まえていたりしたのかしら。あの閣下が!?
空想の世界に旅立ったパトリシアは、唖然としたままマルクトを見上げていた。当のマルクトはと言えば、淑女らしい雰囲気が一息で霧散したパトリシアに、マルクトが声をあげて笑っている。
「あら、まぁ、ふふふ……! 可愛らしい方ですこと。わたくしが教えたこと、内緒にしてくださいね? 閣下に知られたら、怒られてしまうわ」
「え、ええ、勿論です!」
薄い皺の入った目元に、宝石のような涙を煌めかせながら、小首を傾げるマルクト。パトリシアはハッとして、仄かに頬を赤ながら、何度も頷いた。
「その……幼い頃の閣下のお話を、もっと教えていただけませんか? 私、今の閣下のことしか知らないので」
「まぁ、でしたら、とっておきの話があるの。聞いてくださる? 実はね」
マルクトが頬に手を添えて、華やかに笑う。
そんな彼女を見上げていたパトリシアの視界の端で、赤い髪が踊った。
「でしたら、わたくしがお教えしますわ、パトリシア様。母はそろそろ戻らなくてはいけませんから」
誘うような甘い声につられ、パトリシアの視線が動く。マルクトの一歩後ろに控えていたミルドレッドが、パトリシアの眼前に躍り出ていた。
深い色味の赤毛に、寒々しい碧眼。愛らしい顔立ちをしたミルドレッドは、口元だけで笑みを作っている。色味も、表情の作り方も、辺境伯に酷似していた。碧眼に宿る冷たい光だけが、剣呑に輝いている。
パトリシアは微笑んだまま、硬く指先を組む。ミルドレッドもまた笑みを深くし、瞳の光を鋭くした。
「良い考えね、ミルドレッド。パトリシア様、お会いして早々申し訳ありませんが、此方で失礼いたします。お茶会の準備が整うまで、娘と一緒にいてやってくださいな」
「いえ、此方こそ、お忙しいのに申し訳ありませんでした。また後でお会いしましょう、マルクト様」
礼を交わしたマルクトは、穏やかな笑みを浮かべたまま歩を止めた。屋敷に入るのは、ミルドレッドとパトリシア。それに、ルルーだけになる。何処か緊張感のある主人の間に入ろうと、ルルーが一歩踏み出した。その時だった。
「ああ、そうだ。金の髪の貴女も、私と一緒に来て頂戴。手伝って欲しいことがあるの」
マルクトの間延びした声。弾かれたようにルルーとパトリシアが目を合わせる。ルルーの額には、薄く汗が滲んでいた。パトリシアは新緑の瞳を向けながら、深く頷く。
「ご指名だわ。頑張ってね」
パトリシアの和かな笑みを見て、ルルーもまた頷き返した。そして、小さく握り拳を作る。自分自身ではなく、パトリシアに向けて。
「はい、行ってまいります!」
汗を貼り付けたまま、僅かに口角を上げてみせたルルーは、マルクトに向き直って頭を下げた。
「仲が良いのですね。羨ましいわ」
パトリシアは、ミルドレッドの表情が翳ったのを見逃さなかった。
「ありがとうございます。自慢の使用人なんです」
曖昧に微笑んでその場をやり過ごしたが、辺境伯に良く似たミルドレッドの顔が忘れられない。なんとなく落ち着かない気分でミルドレッドを見上げていたパトリシアだったが、彼女の口角が俄かに上がった瞬間、不思議と安堵した。
「折角ですし、肖像画を見ていかれませんか? 当家のギャラリーには、ルーセント様のお母様の物がありますの。お嫁に行かれる前に描かれた物なので、幼い頃の彼に良く似ていらっしゃるのよ」
パトリシアの胸がちくりと痛んだ。
今も尚、敵意を瞳に宿すミルドレッド。彼女の声色が、辺境伯の名を呼ぶ時だけ、優しい響きになったからだ。
(……いえ、ご親戚なのだから当然よね)
自分で自分を慰めるように理論付けて、胸の痛みを鎮める。パトリシアは未だに、辺境伯を名前で呼べない。辺境伯領にやってきた頃は“尊い身分の方”という意識があった為、恐れ多かったのだ。今も呼び名を変える事が気恥ずかしく、閣下呼びで落ち着いてしまった。
パトリシアは笑顔を見せたまま、わざとらしく「まぁ」と声を上げる。
「是非お願いします!」
ミルドレッドが碧眼を見開いて、数回瞬きした。
「……ええ。では、此方へどうぞ」
品の良い笑顔で、ミルドレッドが先導する。
パトリシアは、彼女の後について行きながら、先ほどの言動を思い返していた。
(意図が掴めないわ。歓迎していないとしたら、ちょっと攻撃の手が緩すぎるし)
社交界の魑魅魍魎どもは、あらゆる手段を使って他人を攻撃する。縁戚の人間から赤の他人まで、あらゆる口を使って、その場に“居場所が無い”事を分からせてくるのだ。
ケイデンス子爵家は、少なくとも、形式上パトリシアを歓迎している。では、家の意思ではなく、ミルドレッド個人が自分を嫌っているのだろうか、と。そこまで考えて、パトリシアはハッとした。
(もしかして、閣下をお慕いしている、とか)
彼をわざわざ名前で呼んだり、昔話を遮ったり。そう、これはまさに、物語に出てくる恋する乙女のソレだ。理解した途端、血の気が引いた。
ミルドレッドと辺境伯は年こそ離れているが、幼馴染だ。マルクトを介して、幼い頃に顔を合わせた事もあるのだろう。仄かな恋心を燻らせていた彼女は、結婚適齢期を待ってから想いを告げようとしていた。しかし、彼の妻の座に座ったのは、成金の小娘──しかも、自分と同じ年頃の──
(う……私がミルドレッド様の立場だったら、狂うわ……)
パトリシアは、しかし、奥歯を噛み締めてミルドレッドの背を見つめた。例えこの妄想が事実であったとしても、ミルドレッドに妻の座を譲ってやることは出来ない。
ふと、ミルドレッドが足を止め、訝しげにパトリシアを見やった。
「どうかなさいましたか、パトリシア様?」
「いえ、なんでも」
パトリシアは、強張った顔を打ち捨てて、すぐに笑顔を取り繕う。対するミルドレッドは、彼女の頬に浮く冷や汗を見つける事ができなかった。ただ首を傾げて、また歩を進める。
(それにしても、お婆様の肖像画ではなく、お母様の物があるのね。どうしてかしら……)
疑問を胸に抱えながらも、パトリシアはミルドレットについていく。二人の温度差は、ギャラリーに辿り着くまで維持された。